二十三世本因坊栄寿

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坂田栄男(さかた えいお、大正9年(1920年)2月15日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士本因坊戦を7連覇して本因坊栄寿と号す。ニックネームは「カミソリ坂田」。2000年に80歳で引退し、日本囲碁界の重鎮として君臨している。

目次

[編集] 人物

本因坊の国内維持にこだわりを見せる坂田
ふがいない日本棋院幹部達の手をカミソリでそぎ落とす坂田

[編集] 棋士として

1935年に入段してプロ棋士となる。ロシア人を凌ぐ極度の愛国家であり、当時は中韓に対して圧倒的に強かった日本の囲碁界において、呉清源などの外国籍の棋士達に並々ならぬ闘争心を燃やした。

1963年に名人位を獲得して2連覇したのち、台湾国籍の棋士である23歳の林海峰の挑戦を受けた。試合前の共同記者会見では「20代の名人などありえない!」と大啖呵を切ったが、あっさりと2-4で敗れ涙目となった。

名人の座にも執着していたが、とりわけ本因坊の座に執着していた。1961年から本因坊戦で実に7連覇を果たし、「二十三世本因坊栄寿」を襲名した。しかし、八連覇はまたしても台湾国籍の林海峰に阻まれ、とうとう泣いた。

[編集] 重鎮として

2000年に80歳で引退してからは、日本囲碁界の重鎮として君臨する。そして、ふがいない昨今の日本囲碁界の現状を憂い、積極的な対策に乗り出した。

囲碁はもともと中国発祥であるが、江戸時代に日本で囲碁文化が花開き、昭和中期までは日本が世界に対して圧倒的な強さを誇っていた。日本棋士と全国の囲碁ファン達は、今後100年は日本の囲碁世界一の座は不動であると信じ込んでいた。しかし1990年代後半からは、韓国中国を相手に劣勢に立つようになり、2000年代に入ってからは中韓に対して逆に全く歯が立たなくなってしまった。世界大会優勝の座は曺薫鉉李昌鎬古力などの中韓の棋士達に占領されてしまった。

この原因は、日本囲碁界が世界一の座にかまけてヌルい制度(昇段規定や対局料)で棋士たちが胡坐をかいていたうちに、韓国では囲碁ブームが起こり韓国棋院も厳しい制度を用意し、中国では中国棋院主導で国家レベルの強化を始めたからである。この現状を憂いた坂田は「この不祥事を招いた元凶、貴様ら日本棋院にこそある」として日本棋院の幹部達に制裁を加え、その首を全員すげ替えた。そして個人戦でこそ李昌鎬などに負けるものの、団体戦であれば日本は層の厚さで勝るとして、5対5の国別対抗団体戦である『農心杯』をスタートさせた。しかしその農心杯も始まるや否や韓国が6連覇し、もはや坂田の涙は枯れ尽きそうである。


「この不祥事を招いた元凶、貴様ら日本棋院にこそある。」
~ 日本囲碁界の現状 について、郭海皇全国の囲碁ファン
「本因坊のレベルも 堕ちたものだ・・・」
~ 本因坊 について、烈海王張栩

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

本因坊