堀田正睦

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堀田 正睦(ほった まさよし)とは、日米修好通商条約調印の為の勅許の裁可を賜るために上洛し、あれこれ折衝し、賄賂までつぎ込んで尽力したものの、勅許の承諾を得られずに頓挫してしまい、幕府の威信を低下させて「墓穴を掘った正睦」と民衆から揶揄された幕末の老中。地元の佐倉藩を大いに発展させたことや、開国問題以前にも老中の座に着いていたことには、あまり言及されず、勅許の取り付けに失敗したという点ばかりがクローズアップされ、弁才は今ひとつの愚直な老中という評価が定着していて、評判はあまり芳しくない。

人物[編集]

最初は堀田正篤(まさひろ)と名乗っていたが、薩摩から天璋院篤姫が輿入れしてきたため、フェミニストの正睦は彼女に憚って正睦と改名した。もし篤姫が入内してこなかったら、正睦は正篤という名前のままだったであろう。その結果名前の読みが同じの阿部正弘と混同され、日本史を専攻する学生を大いに混乱させたことは、想像に難くない。篤姫の功績は偉大である。

篤姫に憚って名前を変えたことからも判るとおり、正睦は女性にとても気を遣うフェミニストであった。にもかかわらず、阿部正弘と違い、大奥の女中達の評判は芳しくなかった。その理由の一つに、彼が蘭学に傾倒していたことが指摘される。幕府は朱子学のみを正学としており、他の学問、とりわけ蘭学は「異学」として松平定信などから厳しく排撃され、シーボルト事件蛮社の獄などの弾圧も生じている。大奥にも蘭学嫌いは波及しており、女中達は、鳥居耀蔵などからフィルタリングされた情報を吹き込まれた所為で、蘭学はカニバリズムを奨励し、スプラッタによる人体解剖を日常茶飯事的に行う狂気の学問であるという、相当穿った解釈をしており、蘭学を奨励する者に恐怖した。当然、堀田もその例外ではなかったのである。

二つ目に、彼の風采が冴えなかった事が指摘される。大奥の女性達が堀田をあまり好まなかったのは、むしろこちらの理由に依拠するところが大きい。とりあえず、堀田老中の肖像画を拝見していただきたい。

堀田正睦.jpg

こんなフグのような面構えでは女性受けが良いはずも無い。眼光が鋭い分、井伊直弼の方がまだイケメンと呼ぶに相応しいだろう。ましてや、容姿端麗であった阿部正弘に女性人気で決して及ばなかったのは当然のことである。

功績[編集]

勅許承諾に失敗したことから、凡庸な人物の印象が浸透している堀田だが、地元佐倉では多大な功績を残している。蘭学に傾倒していた堀田は、医学にも造詣が深く、多くの蘭医を招聘して病院を多数建設させた。そして戊辰戦争の折、これらの病院は敵味方問わず負傷者を収容して治療に当たり、官軍、旧幕府軍双方の将兵を多数救済した。これに官軍が恩義を感じたのか、佐倉藩は会津藩の如く官軍に蹂躙されずに済んだ。

何故勅許取次ぎに失敗したか[編集]

日米修好通商条約の勅許を取り付けるため、堀田は粘り強く交渉を重ね、賄賂まで積んだ。にも拘らず、何故交渉が妥結しなかったかというと、岩倉具視に嵌められたからである。孝明天皇に反幕府感情を吹き込み、過激な攘夷論に誘導した岩倉の能弁は周知のところだが、岩倉はさらに周到に、堀田に呪詛をかけて体調を悪化させる事で弁舌を鈍らせようとした。彼が呪詛に用いた怨霊の名は、佐倉惣五郎。伝説の義民である。

正睦の祖先である堀田正信は、佐倉惣五郎による義挙が起こった当時の佐倉藩主であった。義挙は失敗し露と消えた佐倉惣五郎だが、強い義憤からか怨霊として顕世に留まり、正信に祟りを為して発狂させ改易に追い込んだ。その後も成仏しきれずに顕世に留まり、各地で義民を煽動したり、幕府の政策を妨害したりした。田沼意次による印旛沼開拓が失敗したのも、惣五郎のたたりの所為だといわれている。

岩倉は堀田家と因縁の深い惣五郎の怨念を利用する事で正睦を調伏しようとした。そして岩倉の目論見通り、惣五郎の怨念は正睦に効果覿面であった。祟りに懊悩する正睦は弁舌が鈍り、ついに交渉を妥結させることができなかった。

関連項目[編集]

Wikipedia
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