墨子

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墨子(ぼくし)とは、中国戦国時代に活躍した黒人思想家。世界で初めて人種差別への反対運動を展開したことで知られる。彼の著書も「墨子」と呼ばれる。

概要[編集]

墨子は、諸子百家の一つに数えられる墨家の祖として知られる思想家である。彼は一般的には「兼愛」「非攻」を説き、戦国の世にあって侵略戦争に反対した人物として、また「墨守」という言葉に象徴されるような防衛戦の達人として知られている。

ところで、『史記』は墨子の伝記について、孟子や荀子のついでに触れるだけという酷い扱いをしているが、それによれば、墨子の本名は墨翟といい、墨子というのは彼の姓から取られたもののように思われる。しかし民国時代から、墨子の姓は墨ではないという説が出るようになった。「墨」という姓が非常に稀であること、などがその理由である。現在では、「墨子」の「墨」は他人による呼称であり、彼の容姿に由来するという説が有力になっている。そうであれば、彼は全身に墨を塗ったような真っ黒な外見をしていたので「墨子」と呼ばれたと考えられる。

また、墨子の出身地がどこであるかについても、論争がある。そこで、著書「墨子」中に登場する彼の弟子の名前を見ると、高弟の禽滑厘を始め、およそ中国人の名前とは思えないような奇妙な字が並んでいる。そこで、彼らは元々は中国人ではなく、外国からやってきた人々であると考えられている。

このような事実から、墨子がアフリカから遥々中国にやってきた黒人の異民族であるということに、疑いの余地はない。おそらく彼の弟子たちもまたアフリカからインドを経由して中国に渡ってきた移民であり、その行程で仏教などの現地の思想を吸収しながら、墨家という思想集団を形成したものと考えられる。すなわち墨家とは墨子を中心とした異民族の集団であった。そして春秋戦国時代は、東西南北の異民族(中国人から見た「夷狄」)が天下に包摂されるようになった時代でもあり、そのような時代にあって人種・民族の共存と世界平和を説いたものが墨子の思想だったわけである。それは彼の著書「墨子」を読めば一目瞭然であろう。

今日においては、墨子は世界で初めて人種差別撤廃を訴えた思想家として、高く評価されている。

彼の思想[編集]

それでは、墨家の思想とはいかなるものであったのだろうか。以下にその主なものを列挙し、簡単な解説を付す。

尚賢[編集]

人種にかかわらず、優れた人を登用すれば国が豊かになる。商人農民であっても優れた人は登用されるべきであるから、ましてや人種などは言うまでもないことである。

尚同[編集]

人種間のわだかまりを解いて、人々に共通の道徳を持たせることが、世を治める方法である。君主というのは、そのために存在するのであり、よって君主が人種差別思想に支配されていると、国は決して治まらないのである。

兼愛[編集]

肌の色にかかわらず広く人を愛するべきである。君主が全ての人を愛するようにすれば、人々はその君主の下に集まるから、国が豊かになるのである。自分たちと同じ人種だけを優遇するのは「別愛」であり、偽善である。

非攻[編集]

マジョリティーが勢力にものを言わせてマイノリティーを攻撃するのは不仁である。よって、マイノリティーを守るために抵抗することは正義である。

天志[編集]

この世で最も尊いのは天であり、天の前では人種の違いなど些細な事に過ぎない。黒人である私も天に供え物をするからには、等しく天の恩恵を受けることが出来るのだ。このように天はすべての人を愛するのだから、君主が異人種を排撃しようとするのは天の意志に背くものであり、必ずその報いを受けるだろう。

非命[編集]

異民族は先天的に劣っているとか、漢民族より一等劣った存在で彼らに従う宿命にあるといった運命論は否定される。このような運命論を吹聴している儒家は批判されなければならない。

節用・節葬・非楽[編集]

これらはすべて、異民族である墨子の目から見て当時の漢民族の風習に無駄が多すぎ、民の害悪になっていることを述べたものである。

儒墨の争い[編集]

墨家が最も目の敵にしていたのが儒家であった。墨家の目からすると、儒家はいわゆる中華思想によって異民族を侮蔑するレイシスト集団として映り、一方儒家は「非楽(音楽禁止)」などを特に槍玉に挙げ、墨家を野蛮な未開人の集団と見なした。そのために墨家と儒家は激しい抗争を繰り返した。「墨子」非儒篇に見られる儒家に対する激しい非難の数々は、当時の両集団の対立の深刻さを物語っている。しかし漢民族が大多数を占める中国にあっては、いくら儒家をレイシストと誹謗したところで受け入れられる余地は少ないので、大部分は葬式仏教ならぬ「葬式儒教」と化した当時の儒家への批判や、孔子とその弟子たちによる悪行の数々について述べるに留まっている。

ちなみにこの「儒墨の争い」を冷めた目で見ていたのが荘子であり、「儒家も墨家も、結局は人種とか民族とか親とか子とかクッソどうでもいいことについて一々争ってるんだよね(笑)」と著書に記している。

その後の墨家[編集]

こうして儒家と争った墨家であったが、墨子の死後には動揺が起こって3つの派閥に分裂した。だが結局、始皇帝の弾圧によって大きく衰退し、そして何より彼ら自身が代を経て漢民族に同化していったことにより、少なくとも漢代には完全に埋没して歴史から消え去ることとなった。その後の長い間、墨家の存在は人々から忘れ去られていたが、近代になってようやく評価されたことは、冒頭に書いたとおりである。

ところが実はこの間にも墨子が活躍した舞台があった。『神仙伝』『抱朴子』などの道教関係の書物に、仙人となった墨子の存在が記されている。これらの書物によれば、墨子は晩年に薬を飲んで仙人となり、戦国秦漢の世を何百年もの間生きながらえたという。仙人になった墨子が墨家の行く末をどのような気持ちで眺めていたのかなど、興味は尽きないが、結局のところ黒人である墨子の特徴的な容姿が、普通とは異なる神秘性を帯びた人間の姿として解釈され、その結果として、このような伝説が発生したのだと考えられている。これらの書物が著された代には、もはや中国に黒人が居たという記憶も失われ、彼の思想も顧みられることは無くなっていた。それにもかかわらず、仙人として祭り上げられ、ただその姿のみが人々に記憶されたというのは、なんとも皮肉なことではなかろうか。

関連項目[編集]