大久保忠教
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
大久保 彦左衛門 忠教(おおくぼ ひこざえもん ただたか、永禄3年(1560年) - 寛永16年2月29日 (旧暦)(1639年4月2日))は戦国時代から江戸時代初期にかけて徳川氏に仕え活躍したプロのツンデレかつ天邪鬼である。江戸時代のサムライとしては珍しく江戸っ子に「ヒコザえもん」「対徳川将軍家用決戦兵器」「天下のご意見番彦左衛門」として愛された変な人物として有名である。
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[編集] 略歴
愛知県岡崎市に生まれた忠教は兄達とともに地元の律儀な狸の配下となる。
[編集] 兄達とパシリ活動
初陣となる三方が原の戦いにおいて、よせばいいのに風林火山の武田騎馬暴走族を引き連れた武田信玄にちょっかいを出してコテンパンにやられた挙句、うんこを漏らしながら逃げ帰った上に「焼き味噌」などと弁解している間抜けな狸を観察している。忠教の初陣は17歳だからこの一件は時系列に乱れがあるようだが、本人が三河物語に書いているんだから間違いない。
その後の狸は長年の織田信長への血の滲む様なパシリの結果、長篠の戦いで第六天魔王様に武田勝頼を撃破してもらい、長年の宿敵を打ち破ることに成功する。このように狸の散々な様を見て忠教は「ハン、海道一の弓取りなんていうけど大したことねえなあ」と家康一族を心の中でバカにすると同時に「この狸は俺が守ってやらなきゃしょうがねえなぁ」と深く敬愛することとなる。
そして1582年、第六天魔王様が本能寺にてキンカン頭に謀反を起こされ死亡、徳川家康は大阪の堺からうんこをもらしながら三河に逃げ帰っているのを目撃している。そして「やべ、これから親分居なくなってどうしよう」とオロオロする狸を見てやはりあざ笑っていたようである。そして1585年、猿が関西を制圧しつつあることに危機感を抱いた狸は信州上田城を攻め、領土を広げる事で対抗しようとした。だが、相手が悪かった。歴戦の兵であるザ・六文銭こと真田昌幸に家康をはじめとする徳川軍はコテンパンにされ、またもやうんこを漏らす羽目になる。この全軍総崩れの中で忠教は兄とともに非常に奮戦している。忠教のツンデレ精神のデレ部分が徳川家を救った瞬間であった。
[編集] 狸の天下、しかし…
その後、徳川家は紆余曲折を経て、ついに江戸に幕府を開く。しかしこの時、忠教及び大久保一族に未曾有の危機が迫る。家康の悪知恵袋として活躍していた悪の徳川家臣本多正信の嫌がらせによって、大久保長安(故人)が幕府転覆を企てていたというトンデモ話が持ち出され、おまけに何をトチ狂ったかボケていた狸はこれを信じ、総領の大久保忠隣を始めとする大久保一族は総じて処分の憂き目に遭い、忠教も例外なく追放されてしまう。しかし愛すべきツンデレ武士の忠教は特別に許され、駿府の狸に召抱えられる事になった。ツンデレが忠教を救った事件であった。
そして徳川家は豊臣家を潰すことに成功する。忠教は大阪の陣でも当然活躍している。しかしこの後、敬愛していた狸が天麩羅攻撃を喰らい死去してしまう。この事で忠教のツンデレ精神は爆発、愛すべき家康公の作った幕府をなんとしても盛り立てて行かなければならないとして頼まれても居ないのに余計な事をガンガン行うようになる。
例えば将軍が旗本の「輿に乗っての登城」を禁じると、本人「僕、ひこざえもん。本当に秀忠君はしょうがないなあ、おおたらい~」とつぶやきながら、巨大なタライに乗ってしてやったり顔で登城するという、とんち坊主の一休さんに倣ったような奇行を披露、将軍と幕府上層部は頭を抱えることになる。この他にも将軍に嫌がらせのような辣言を連発している。しかしこの時期陰謀めいた左遷や改易などが相次いだ時期にもかかわらず、忠教が無事に生き延びれたのは、ひとえに彼が愛されていたからであろう。
[編集] 執筆活動
晩年、隠居した忠教は三河物語を書いている。この物語は相当な徳川びいきであったが、「家康の先祖はどこかの流れ者が地侍の娘をはらまして居座ったものである」などはハチャメチャな事が書かれているあたり、彼の徳川家へのツンデレは本物であったといえよう。
[編集] 功罪
大久保彦左衛門以外では徳川家康が三方が原においてうんこを漏らした事について言及したものは居ない。つまりこの歴史的な事実を我々が知ることが出来るのは彦左衛門のおかげであり、神狸家康公は彦左衛門のせいで後世にまでうんこ漏らし将軍として名を残す羽目になったのである。