大内義隆
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
大内義隆(おおうち よしたか、1507年永正4年11月15日 -1551年天文20年8月)は戦国時代の山口県に居た人。大内義興の息子、ゼネラリスト、サッカー選手。
[編集] 名君?時代
中国地方の大名でありながら、九州の大地主でもある公家風の武士、武士風の公家。戦国最強のNEETとも呼ばれた。
かつては文武両道の名君主であったが、尼子晴久との雪投げ合戦(一説には水鉄砲合戦とも言われるかも)で、禁則事項ですな関係を持ったりした息子(女装っこ)を奪われて、息子が捕虜として(性的に)暴行を受けたとして、ショックを受けてNEETになる。女装っこを奪われたらショックを受けるのは仕方ない。うん、仕方ない[要出典]。
[編集] 気が違ってしまって以降
NEETになってからは相良さんや冷泉さんたちと「エクストリーム茶会」をしたり、明(シナ)からの船と「エクストリーム勘合貿易」を行って、違った意味で有名になった。
九州の政治に口を出す、とくに北九州市の面積がデカすぎるとイチャモンをつけるために、九州先進大名首脳会議(九州サミット)に参加している。また、そのときに発生したバルスの変に巻き込まれれるた。
また、文化面でも、キリスト教原理主義国際テロリストのフランシスコ・ザビエルと面会したり、蹴鞠ワールドカップの構想(義隆は蹴鞠サッカー愛好家で、今川義元の師匠)を立てたり、仲が良かった雪舟の絵をなんでも鑑定団に出したりと活躍したんだかしてないんだかわからない。
これまでの武力による支配から、文治主義的法治国家を建設しようとし、山口を京都風にするなど様々な改革を推し進めた。このため、たくさんのNEET公家たちがザッザッと足音を立てながら、「京都から来ますた」と山口へ殺到してしまった。VIPからニュー速へ大量移民が出たのと同じ現象である[要出典]。
晩年は「後継者確保のため」と偽って、大友宗麟の弟、大友晴英(改名して大内義長)を養子にしたが、ショタコン(ちなみにしょこたんもショタコンである)の義隆が禁則事項ですな関係を持ったことはウィキペディアにも書いてあることじゃ、ほっほっほっ。
また、公家AA張りのNEET公家たちの自宅警備員っぷりに激怒した(山口在住の自宅警備員たちの居場所がなくなるため)陶晴賢と阿部高和ら家臣たちによってアッ―――――――!されたため、消息不明となる。便宜的にこの日を命日にしている。
なお、上の画像はこの項の著者の画像であることは言うまでも無い。