大和 (戦艦)
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した、巨大砲搭載艦の事。また、「NEETの大和ちゃん」という別名もあった。姉妹艦に、武蔵(むさし)がある。三姉妹の末っ子として、空母として生まれた信濃(しなの)もある。
ただし当時は大きさで勝っていたが、米軍が今ではそれを越す艦艇を作ってしまった。
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[編集] 概要
「史上最大の巨大戦艦」としてギネス認定されている、とてつもない戦艦…と思われている。
排水量は世界一であるため、軍事半可通から「大艦巨砲主義の象徴」のように書き散らされいるが、46cmの主砲を搭載している割に、かなり小型の船体である。特に全長は米戦艦アイオワ級よりも短い。そのため意外と迫力がなく、とてもスリムでコンパクトな戦艦だと言える。
なお、太平洋戦争勃発と同時に日本海軍は大和型4,5番艦の建造にも打ち切っており、この点からも日本海軍の先見性が読み取れる。大和を作った帝国海軍に対し、大艦巨砲主義に凝り固まっていた合衆国海軍は、1943年には戦艦アイオワを出現させた。
[編集] 製造目的
真珠湾攻撃で日本が航空奇襲攻撃により大東亜戦争勝利のきっかけをつくった事からも分かるように、日本軍は昭和期には戦艦と航空機は互角である事を考えていた。そのため大艦巨砲主義は微妙な空気を漂わせていたが、「どうせなら、アメリカやイタリアも驚くような戦艦の王者を作ろうではないか」という発案が出され、結果として巨艦を究極の形に進化させて世界への宣伝を行う事に移行された。その結果生まれたのが、この「大和」・「武蔵」である。
丁度この時代、アドルフ・ヒトラーはドイツにおいて戦艦ビスマルクとティルピッツを戦力化させており、日独の戦艦競争に入り浸っていたと思われる。
イタリア王国は軍部に命令し、「空を飛ぶ飛行船のような戦艦を作れ!」の一言で「これがほんとの航空戦艦」を作った。なお、そのスケールから量産が出来ず終戦までに5隻しか就航できなかったといわれる。
ソビエト連邦ではヨシフ・スターリンが自国民に日本の潜函を見せる事を自粛させる事に励んでいた。この努力は大戦後に結実し、後世では「スターリン・革命」として有名である。また、プリンスオブシリーズの本場イギリスでは、プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)と名付けられた戦艦でマレー半島を陣取る自虐作戦を開戦早々に行い、世界の人々にイギリス海軍の本場は戦闘戦艦であるとビジネス風にアピールした。これに焦ったフランス政府は、ヴィシー政権というエスプリにより、51cm主砲を搭載した戦艦を用意した。
いろいろ話が長かったけど、ようするに日本もこの流れを逃すまいと、この「大和」で一発勝負をかけたわけである。
ちなみに武装は 3連装45口径46cm主力砲:9門 3連装60口径15.5cm砲:6門 40口径12.7cm連装高角砲:24門 25mm3連装機銃:52基 25mm単装機銃:6基 13mm連装機銃:2基 と非常に強力で、当時の連合国側の戦艦ですらこの様な装備はされなかった。
のち、イスカンダルに旅立つ時には艦首にミニ八掛炉(波動砲)が装備された。
[編集] その脅威
戦艦大和は脅威を誇り、終戦時にはアメリカとの調印式がまさに大和の艦上で行った事でも知られる。また、戦時中はニューヨーク砲撃を13回、シカゴ上陸のための砲撃で5回、イタリア遠征のため10回も出撃している。しかし、戦艦同士と本格的な激突を見せたのはマリアナ沖海戦・レイテ沖海戦・坊ノ沖海戦ぐらいでアメリカ本土襲撃の際に接触した戦艦は4隻ぐらいだった。なお、前述した3つの海戦では戦艦14隻と激突しているのだからその差は歴然。
ちなみに、意味は特にないがレイテ沖海戦では護衛空母「ガンピア・べイ」の撃沈に成功している。しかし、戦艦撃沈が当たり前のレイテ沖海戦だったので、大きく扱われる事はなかった。また、後にガンピア・ベイには連合国指揮官が乗艦していたことなど知る由もなかった。当然、その指揮官は大怪我を負った為戦局から退いた。
また多くの軍事マニアが記した戦記においては、定説とは異なり「大和」は様々な改造を施され、空母や潜水艦になったり戦車のように陸を走ったりと、大和が「強い」ということの現れといえる凄まじい活躍をしたことになっている。詳しくはここを参照。
[編集] 戦後の状態
なお、一部の写真週刊誌のみだが、「大和」が改装されているとの報道がされている。前面に巨大な穴が開き、まるでロケットエンジンのようなものが取り付けられているという。この件に関し、日本政府及び自衛隊は黙秘を続けている。
これは宇宙の危機へ向けて宇宙戦艦に改造し、再就役させるための下準備だと言われており、「大和」はその時が来るまで時期を待ち続けることになる。本当に、安らかに眠る事の出来る日は後であろう。
[編集] 戦艦大和艦歌
以下は乗組員の間で歌われていた、戦艦大和を讃える鎮魂歌である。
[編集] 戦艦大和艦歌
「戦艦大和艦歌」作詞作曲:岩田重一音源
- 一、
- 遠皇の畏くも 肇め賜いし大大和
- 永久に栄ゆる日本の 神武の正気いま此処に
- 凝りてぞ成れる浮きつ城
- 二、
- 醜の御盾と畏みて 斃れて已まぬ尽忠の
- 大和丈夫数二千 心を磨き技を練り
- 断乎と護れ太平洋
- (間奏「海行かば」)
- 三、
- 嗚呼悠久に伝うべき 八紘一宇の大理想
- 往く手を阻む敵在らば 無敵の巨砲雷と吼え
- 撃ちてし已まん大和砲
[編集] 戯曲「戦艦大和」
それに対し以下は、後世の売国奴が英霊を侮辱するべく作ったプロパガンダである。
- 一、
- 鋼鉄の鎧を身にまとい 艦上おおーうはしゅほうとぉー
- 艦隊決戦至上主義 日本のオーラは今ここに
- これこそ日本の 結晶だー
- 二、
- 南の楽園椰子の島 トラック諸島で陣を貼り
- 大和丈夫数二千 アメリカ堂々けーちらすぞ!!
- 断固と遊べ太平洋
- 三、
- ああ無敵のやーまとはー まーるで海のよーさいだー!!
- 往く手を阻む敵へ向け 豪快な突撃かましだし
- 見事に破壊す巨艦哉
- 四、
- 戦艦大和が戦後には 宇宙やみーちの世界へね
- はては訳のわからぬ名前となりて 地球の裏側へ突入だ
- 戦艦大和よ栄光あれ
[編集] 世界三大戦艦
後、世間からは「アイオワ」・「ビスマルク」・「大和」は三大戦艦であるという声が出るようになった。これは上記のように、日露戦争時代から受け継がれてきた艦隊決戦の如何無を悟りきったもの。イージス艦も建設当初は、同じように呼ばれていた。
[編集] 大和の真実?
なお「大和」の実態として、以下のような噂が世に流れている。真偽は不明である。
1936年、イスカンダルでは大戦艦の開発に成功。1937年、宇宙の注目の的であった地球(日本)に設計図を送った。
大本営は当初警戒したが、設計図を見た瞬間に感動涙を流しながらGOサインを送った。そしてイスカンダルでは大和の最大の欠点を見つけていた。そう機動力である。
その問題を解決しようと、当時理論段階であった波動エンジンに注目し、開発にかなりの時間を要したが、2198年になってようやく完成、日本に設計図を送った。