大宝律令

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大宝律令(たいほうりつりょう)とは、大昔の日本で編纂された法典である。

概要[編集]

大宝律令は、まだ都が藤原京にあった701年に制定された法律で、この法律の施行によって日本は本格的に律令制の時代に入ったと考えられている。当時、日本では対馬で採掘された金が朝廷に献上されてゴールドラッシュに湧いており、その後も今度は銅が献上されたり、それを受けて最初の流通貨幣(和同開珎)が発行され、終いには貨幣を蓄えたものには位を授ける(蓄銭叙位令)という法律が出来るほど、金ピカ華やかな時代であった。大宝律令もこのような世相を反映して、金ピカ華やかな金銭万能主義に満ちあふれており、死刑から笞刑まであらゆる刑罰は贖銅や贖金によって代替可能とされ、位の上下も金次第、全てにおいて金金金金…といった内容だったと推測されている。まさに熱狂の中で、よく考えないままその場のノリと勢いで生み出された法典であった。

養老律令の成立[編集]

しかし、この華やかな時代はすぐに終わりを告げることとなった。当時の技術では採掘といってもたかが知れており、偶然に掘り当てられただけでは鉱業として持続することは難しく、ゴールドラッシュは長続きしなかった。そればかりか、献上された金が実は外国産だったらしいという不都合な事実まで判明し、虚偽を述べて帝に取り入ろうとする卑しい根性までもが露呈する所となった。こうして狂乱の熱気は急速に冷めていき、一転して日本人のモラル崩壊に対する自己批判が巻き起こり、金と欲望にまみれたバブリーな時代への反省がなされるようになった。そして、そのような時代を背景に作られた大宝律令もまた、激しい非難の対象となったのである。そこで720年、新法典の編纂事業が開始されたが、その後中国文化に特に心酔していた藤原仲麻呂が政権を握ると、親孝行や敬老といった儒教的徳目による教化によって、この拝金主義にまみれた風潮を一掃しようとして、編纂事業はいっそう推進されるようになった。そして、発表から40年の時を経た757年、新法典が養老律令と名付けられて施行され、同時に大宝律令は放棄されるに至った。養老律令はその名の通り、老人を敬い、子が老父母を養うといった儒教道徳を強く打ち出した法典である。

しかし一説によると、養老律令は藤原不比等が、実績作りのためにでっち上げた法典であり、中身は大宝律令のコピーも同然であったと言われている。この説によると「養老」とは、儒教道徳とは何の関係もなく、藤原不比等が自らの後をうという意味で、むりやり実績を作って自分の将来を安泰にするという、道徳どころか私利私欲にまみれた穢れた法典ということになる。もっとも、施行されたのは前述のように孫の仲麻呂の時代になってからなので、法典編纂の実績が不比等の老後の安泰にどれほど貢献したのかは不明である。養老律令と大宝律令にどのような差があったのか、大宝律令が散逸してしまった今となっては正確な判断は不可能だが、この説では散逸の原因も藤原氏にあり、彼らが意図的に大宝律令の存在を抹消して法典編纂の功績を簒奪し、丸写しがバレないように工作したのだと主張されている。[1]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大宝律令の編纂にも藤原不比等が関わっているのだが、どうしても独り占めしたかったようだ。