大宰府

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大宰府(だざいふ)とは、平安時代九州に存在した刑務所。

概要[編集]

大宰府はもともと行政庁として使われていたが、時代の移り変わりとともにする事が無くなっていったため、奈良時代の中頃に刑務所として全面改装されることとなった。当初はあまり入所者が居なかったが、平安時代に入ると都で刑事政策を担当していた藤原北家の人達が、当刑務所の振興のために次々と犯罪者を送り込んできたため、一時は大盛況となった。もと役場だけあって、建物は非常に立派に造られていたらしい。受刑者への待遇の面でも都の刑務所とは段違いであり、一説には当時の日本で最も環境が整った先進的な刑務所であったとも言われる。そのため刑務所にもかかわらず入所希望者が殺到したが、九州の人間はここに入所することは決して許されず、都から送られてきた犯罪者だけが収監された。[1]ここに収監されることを大宰措置(だざいのそち。正式には大宰員外措置または大宰権措置)と呼び、収監者は刑務官である大宰少弐や大宰大監といった人々により、厳重に監視されていたという。

北を上にもってくる一般的な地図では、西にある大宰府は都より左に位置するので、大宰府に送られることを左遷と呼ぶようになった。

有名な収監者[編集]

藤原浜成[編集]

都を藤原京に戻そうとして反乱を起こし逮捕される。彼の子孫が藤原京家という蔑称で呼ばれているのはこの事件に由来する。残された子供たちは、都で後ろ指を指されながらも、笛を吹いたりすることで生計を立てて細々と暮らした。

阿保親王[編集]

都を平城京に戻そうとして反乱を起こし逮捕される。上記の浜成の事件から全く学ばなかったらしい。親王だが、このように名前通りの阿呆だったので周りに阿呆が移らないように収監された。こんな阿呆でも出所後は心を入れ替えて朝廷で活躍したというから、いかにこの刑務所の教育内容が優れているかが分かる。

菅原道真[編集]

恐らく一番有名な収監者。男のくせに梅の香水がキツすぎて臭いという理由で収監されたとか、なんとか。大宰府に収監された人間は数多くいたにもかかわらず、何故か彼だけが特別扱いされて太宰府天満宮に祀られている。

源高明[編集]

アンナという女性と不義密通を重ねていたことがバレて逮捕された(俗にいうアンナの恋事件)。

藤原伊周[編集]

坊主のくせに性懲りもなく女通いを続ける花山法皇を、仏様に代わって成敗してしまったため、逮捕。さすがに可哀想だということで、その後釈放された。

平惟仲[編集]

よほど人相が悪かったのか、刑務官であるにもかかわらず、受刑者と間違われて収監されそうになった人。後に誤解が解けて大宰帥として赴任した。

その後の大宰府[編集]

大宰府の振興のために長年力を尽くしていた藤原北家の政治力が低下すると、送り込まれる犯罪者の数が減っていき寂れていった。そのしばらく後、大宰府の存在は税金の無駄遣いとして批判され、廃止に追い込まれてしまったと伝えられている。刑務官を努めていた武藤一族が、内訌や不慮の事故、合戦で捨石にされるなどして横死していったのも、大宰府衰退の原因とされている。

大宰府は形骸化したが、その後も武藤氏は大宰府の刑務官を名乗り、苗字も「武藤」から「少弐」に変えてしまった。「看守太郎」「看守次郎」などと名乗るようなものである。とんだDQN苗字と言えよう。武藤氏はあまり巨大な勢力を構築できなかったため、権威だけでもつけておこうと役職を苗字にしたらしい。しかしその権威付けも虚しく、戦国時代になって肥前のが暴れ回り、少弐氏は滅亡した。その頃には大宰府は影も形もなくなり、この熊を収容する檻も存在せず、島津の鉄砲隊が沖田畷で射殺するまで、この熊の跳梁を許してしまうこととなった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 一方都では、都から遠く離れた田舎に位置することから「ダサい府」と呼ばれ忌み嫌われていたらしい。
にほんのおやくしょ
ほんぶ
なんでもや てんのう ゆうびん
きまり おつきあい ちょきんばこ とりひき こうつう
おひゃくしょう おべんきょう けんこう かんきょう くにをまもる
ねんきん てんきよほう やま ざおらる(にせもの)
きゃくほん ねんぐ おほみこともちのつかさ