大津市教育委員会

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

大津市教育委員会(おおつしきょういくいいんかい)とは、1300年余の歴史を誇る、悪の秘密結社である。

概要[編集]

大津市教育委員会のなす悪行は、ただ一点のみである。すなわち、いじめ行為を隠蔽し、なかったことにする事である。

教育委員会はどこでもいじめの隠蔽や保身に必死なのであるが、これは大津市教育委員会が始めた伝統である。現在、大津市教育委員会に世間の非難の矛先が集中しているが、やがて非難は全ての教育委員会に及ぶのではないかと、関係者は戦々恐々としている。

歴史[編集]

  • 667年(天智天皇6年) 天智天皇近江大津宮に都を定めると同時に発足。天智天皇は自分の息子に皇位を譲らんがために、大海人皇子に対し、不当ないじめ行為を繰り返した。結果、いじめに耐えかねた大海人皇子は、吉野へと家出する事となる。この時、天智天皇の走狗としていじめに加担したのが、大津市教育委員会である。
  • 672年(弘文天皇元年) 壬申の乱。天智天皇は既に亡く、大友皇子は討ち死にする。しかしながら大海人皇子改め天武天皇は、大津市教育委員会の組織を温存する。当摩広麻呂、久努麻呂、麻続王などが、天武天皇のいじめの被害に逢った。675年11月には自殺者が出るが、その名前は現在も伝わっていない。言うまでもない事だが、大津市教育委員会による隠蔽である。
  • 10世紀頃より、比叡山延暦寺の僧兵が、三井寺の僧侶をいじめる事件が頻発。いじめの被害に逢った僧の名は現在まで不明である。もちろん、大津市教育委員会による隠蔽である。
  • 1184年木曾義仲源頼朝源範頼源義経らのいじめにより、義仲寺において自殺に追い込まれる。いじめの事実は大津市教育委員会によって完全に隠蔽される。
  • 1571年織田信長が比叡山を焼き討ち。だが信長は大津市教育委員会の組織を温存。明智光秀に対していじめ行為を繰り返す。
  • 1582年、いじめに耐えかねた明智光秀が逆ギレして、織田信長を殺害。しかし当時の大津市教育委員会の教育委員長であった豊臣秀吉により、明智光秀は討滅され、いじめの事実は完全に隠蔽される。
  • 1600年浅井三姉妹の次女初の嫁いだ京極高次が関ヶ原に向かう西軍の進撃を食い止める。しかし京極氏は長年に渡って浅井氏によるいじめを受けており、この事実の発覚を恐れた大津市教育委員会の隠蔽工作により、すべての戦果はなかったことにされた[1]
  • 1891年、大津事件。ロシア帝国皇太子・ニコライによるいじめに耐えかねた警備の警察官・津田三蔵が逆ギレして、ニコライを斬りつける。大津市教育委員会によりいじめは隠蔽される。しかしながら津田三蔵を死刑にしせよとの大津市教育委員会の申し立てを、大審院院長の児島惟謙が却下し、無期懲役となる。だが外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が辞職に追い込まれるなど、大津市教育委員会による隠蔽行為は政府高官にまで及んだ。なお、ソビエトロシアでは、その後も不法占拠を北方領土する、シベリアを日本軍の捕虜に抑留する、拿捕を日本漁船するといった、日本に対するいじめを繰り返している。
  • 2008年大津市教育委員会は、大津城をモチーフにした県立琵琶湖文化館の休館を容認。これは県単位で行われてきた自らのいじめ行為の歴史を隠蔽するためだった。
  • 2011年10月。大津市の中学2年生が、いじめを苦にマンションから飛び降り自殺大津市教育委員会により、いじめ行為の隠蔽が早速はじめらた。

脚注[編集]

  1. ^ しかしクソまじめな辞典の記述によると、徳川家康により手柄を賞賛され、若狭一国を与えられたとある。どう考えてもいじめを行っているのは、アンサイクロペディアの誹謗中傷的な記事内容のほうである。

関連項目[編集]


この項目「大津市教育委員会」は、執筆者自身は結構気に入っていますが、どう見てもクソの山です、本当にありがとうございました。ダチョウ倶楽部に訴えられないうちにとっとととりかえることをお勧めします。 (Portal:スタブ)