大矢明彦

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
「Oh Yeah!って感じ」
大矢明彦 について、山下大輔

大矢 明彦やる おおや1947年12月20日 - )とは、劇団黒星大いに不評を買った、なんちゃってプロ野球監督であった。それでも一応、プロ野球選手の経験あり(かつては乳酸菌の固まりに在籍してた)。

現役時代[編集]

1970年に、コマネチ大学と間違われる駒大を経て、乳酸菌の固まりドラフト7位で入団。当時にしては、割とイケメンな強肩堅守のキャッチャーであった。

1978年には、自身にとって最初で最後のセ・リーグ優勝、しかも日本一(球団としても初)に輝いたチームの一員として貢献した。でも打撃は・・・。

そんな打撃力が致命傷となって、あんなんで打てるんか?というグニャグニャ打法の人に出番を奪われていった。膝に水が溜まるように成った[1]んで、1985年に引退。

指導者時代[編集]

Chakuwiki.png
長文が読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「大矢明彦の指導者時代」の項目を執筆しています。

コーチ時代[編集]

1993年からは古巣でもないのに、横浜のバッテリーコーチに就任[2]。ちなみに監督は、OBの近藤昭仁であった。

そもそも永年暗黒時代と呼んで良いくらい、昭和の横浜は弱かったせいか、『そんなOB、呼ぶだけ無駄じゃん』というフロントの考えも大きく作用していたのだろう。指導者には、球団の放映権を持っていたフジテレビTBSの解説者(横浜在籍経験の有無なんて関係なし)などを招くことが多かった。

1995年、3シーズン限りで近藤監督は任期満了。その後任として、監督に抜擢された

第1期監督時代[編集]

まだまだ未熟だったtanasinnを正捕手に据え、自身の捕手としての技術を全て伝えて一流に育て上げた[3]

この頃から『内野の三角コンバート』に代表される、守備位置のコンバートを積極的にやりすぎて一部選手を故障させるなど、動きすぎる監督としての本性は見え隠れしていた[4]

元々前任の近藤監督時代からブタ朗と呼ばれた、今は赤貧球団所属2年連続首位打者にも輝いた背番号7を上位に据え、近鉄で55本打った人とは、違う助っ人とりあえず満塁男打ち直しHRの単打・2塁打で本塁に還すマシンガン打線の破壊力及び大魔神佐々木と盛田の「出てきたら相手がもう負けと諦める」抑えコンビと戦力は十分に整っていたのだが、大矢のやったことは盛田の先発転向・内野総コンバートを初めとして、「せっかく整っていた戦力を無茶苦茶にした」だけのことであった。

それでも戦力は上位レベルだったために1997年には2位に躍進。しかしその成績にも拘らず契約延長は無しで任期満了(実質追い出された)、そして翌1998年、権藤監督がごく当たり前の采配をした結果38年ぶりのリーグ優勝、日本一に輝いた・・・・・・

第2期監督時代[編集]

2006年限りで、監督を退いた牛島組長の後任として、再び横浜のユニフォームを着ることが決まった。ずっとチームから離れていたものだから、『浦島太郎』のような心境で監督に就任したのである。

ところが、その『浦島の玉手箱』の煙を被ったのは、どうやらチームの方だったようだ。前回には全盛時の選手や、飛躍を遂げそうな若手など、多くの人材に恵まれていた。それが10年も経ってみると、その面影なんて、どこにも見られぬほどチームは変わり果てていた…。

1998年の優勝以降、大魔神メジャー移籍に見られるように、主力選手の入れ替え期に差し掛かっていたチーム。『打ち出の小槌』のように、打点を挙げ続けた優良な助っ人の退団で得点力を著しく低下させたばかりか、森祇晶監督による「背番号7の4番抜擢」が裏目に出て、7番は超絶スランプから立ち直れなくなっていた。森監督2シーズン目(2002年)には、首位から35.5ゲーム差も離された最下位(140試合で49勝86敗5分)に沈んだ始末。翌2003年あのピッカリ大ちゃんに託された途端、90敗を軽く突破。2004年にも最下位の定位置を占有。昭和の大洋ホエールズ時代に勝るとも劣らぬ『氷河期』を味わった後、牛島組長の手腕によって『少しは戦える水準』にまで回復した程度だったのである。

2007年[編集]

そこで再就任1年目は1期目と同じく、コンバートを断行。期待の若手であったモンチッチを外野から1塁手へ転向させた。サードから弾き飛ばされるも、ようやく外野に慣れ始めていた時期だったのに、「何でわざわざコンバートなんだ?1塁は、もっと下手クソにやらせろよ」と、これには一部ファンからも不評を買う。結果、1塁手としての出場だけで10失策したモンチッチ。それでも打撃面が向上していれば文句無いが、66→85打点にUPしたといっても30試合も出場機会が増えたのであれば、コンバートの成果とは一概には言えない。翌2008年には、あっさり外野へ戻した所に見られるように、失敗コンバートと認めたようである。

投手陣に至っても、組長が形成した『クアトロK』を惜しげもなくブッ壊し、先発要員を増やした。

チーム全体を見渡せば、開幕から負け・勝ち・負け・勝ち…を12試合続けた。それでも大きな連敗も無い上、4月末の3連勝(翌月にも継続されたんで実は5連勝)が決め手となって、14勝10敗のリーグ2位で4月を乗り切った。「こりゃ、優勝も夢じゃない」なんてファンに錯覚させた期待させたのも、この頃であった。

それが5月になると15日から6月にかけて1勝を挟んだだけの8連敗・6連敗。最大6つあった貯金を、借金7にまで一気に散財し5位転落、雲行きが怪しくなってきた。クワトロKを解体してまで先発要員に充てた川村丈夫加藤武治なんて5回もたずに何試合もK.Oされたのが、その象徴である。辛抱強い大矢であっても、さすがに諦めて2名を先発から外している。

その成果の表れなのか、6月9日から1敗を挟んだだけの5連勝(1分を含む)・6連勝で再び貯金生活(3位再浮上)に持ち直したのである。ちなみに6月24日には中継ぎで高宮を起用し、『水差し投球』を披露させたなど、話題提供のファンサービスにも心を配っていた。

7月も月間5割そこそこで乗り切ってたものの、8月半ば辺りから息切れ。結局、4位で1年目を終えた。

2008年[編集]

しかし2年目からは本領発揮。開幕ダッシュに失敗したオレンジの金満球団とのハマスタ直接対決で、早くも4月9日には『特等席』を奪い取るなど、ブタ朗金満球団で干されてた2塁手何の為の前進守備だぁ!といった超ベテラン偏重オーダーで臨んだ4月を7勝18敗1分で終えたのである。5月に入って若干ペースを緩めたとは言え『特等席』を堅持。5月13日・14日の連勝を最後に、同月15日から6月17日までの1ヶ月間で4勝21敗という4月を上回る驚異的ハイペース(2連敗・6連敗・3連敗・5連敗・5連敗で連勝ゼロ。その6月17日までで、わずか16勝)で負け続けた[5]

6月に入って、肩のハリがとれないというハマの番長の登録抹消にも祟られ、一段と勝ち星から遠ざかる惨状には、大矢の手腕だけで持ち直せとは酷といえば酷だった。

とはいえ、これだけの負けペースに至った決め手は、正解者ゼロという超難解な『大矢の方程式』から編み出された、
『投手陣を始めとする守備の崩壊』
である。先発による「ブチ壊し」、仮に勝ってた試合であっても継投で「ブチ壊し」なのだから、どこで勝てるのかが判らない。
では、「そんな投手陣を打線でカバーするのか?」というと、絶不調の佐伯みたいな、いつまでもペースの上がらないベテランの復調を悠長に待ち続けている忍耐強い采配。その間に黒星を膨らませ続ける始末であった。

球団としても『このままではマズイだろ…』という危機感くらいは持ったのだろう。現場の投手不足に応えようと動き出している。しかし、横浜のようなダメなチームの選手と引き換えに、どれほどの有望選手を獲得できるのか?イマイチ解かってなさそうである。それでも、

という、悪あがき程度のトレードを成立させ、大矢たち現場組への形ばかりの支援を示した。←このトレードが、どれほどの成果を示したかはシーズン中よりもオフになって判明する。

5月末で自力優勝の灯火を消し、49試合で借金20到達。6月からは再びペースを緩めたところで、急遽獲得してもらった2名の新戦力を即刻1軍起用。反撃を期する姿勢を見せた大矢であったが、7月のオールスター前には借金30を容易く突破した。その7月辺りからは、遊撃のブタ朗をスタメンから外し始めた。

だいたい、そんな調子だからファンも正直なもので、ハマスタに足を運ぶのを控えだした模様。2万人を集客した試合が、ゴールデンウィークくらいしか無かったのである。7月以降に2万人を超えたハマスタでの試合なんて阪神戦くらいなもの。どうも『鉄板』ともいうべき、勝ち試合観たさに黄色い お祭り集団が押しかけた為に、増えたようだ。

そこから8月辺りまでは、最大でも4連敗と自重していたものの、9月から再加速。正捕手・相川のスタメン離脱も響いたのか、9月14日からは7連敗・1分・7連敗という14連敗を記録した[6]

結局、首位打者とホームラン王を擁しながら12球団ワーストの706失点リーグ5番目の多失点ですら、赤い激貧球団の594失点)に象徴されるように、首位と36.5ゲーム差(5位とですら19ゲーム差)の48勝94敗2分という借金50を目前でシーズンを終えた。前任の牛島組長による『戦力整備』なんて全くの無駄となっていた…。

進退問題[編集]

なお、この年の9月初旬にはペナントレースの数合わせでしかないチームの負けペースや、内川の高打率よりも大矢監督の去就問題が取り沙汰されていた。同月4日、最下位に「よく耐えている」[7]と報道陣にコメントした若林貴世志オーナーが、「3年契約なのだから、来季もやってもらう考えに変わりはない」と、続投要請する意向を明らかにしたのが始まりである。

3年契約の2年目で、シーズン100敗に迫ろうという大敗ペース。普通なら解任である。

そもそも要請する方が、どうかしてる。監督の采配や戦術が劇的に変わって、持ち直しの兆しが見られたのであればまだしも、夏の終わりに至っても来季の希望を見出せない戦いぶりは変えてない。『クビを切ろうにも後任を見つけられないのか…』、ウラ事情は判らない。それでも、同月6日の正式要請に対し「大変ありがたいが、こんな大敗をして、このまま来季もやっていいのか。少し考える時間を頂きたい」と態度を保留した。←ありがた迷惑ということか?

どうやら続投に際して、弘田ヘッドコーチと斎藤投手コーチ、2名のクビが条件に挙げられてたそうだ。しかし9日には「シーズンを戦っているのに来年の自分の話をするのはどうかと思ったけど、こういう話が出て動揺させた中でゲームをさせるのは嫌だった」とチームを気遣う胸内を明かしといて、腹心2名の屍を踏みつけるかのように続投要請を受諾したのである。

ファンの落胆と怨嗟の罵声を全く無視して3年契約の末年・2009年に『大輪の花』を咲かせよう、という来季に向けた球団の姿勢は定まった。

ただ、体制が固まった途端に14連敗である。すでに決定した事とはいえ、世間を納得させられぬどころか、まるで来季を暗示させるかのような新たな戦果には、ファンや関係者は不安を抱かずにはいられなかった。ちなみにペナントレース終了後、黄色い球団どんでん監督なんて、惜しくも優勝を逸した2位だった好戦績だったのに辞意表明をしている。

一方、一度も優勝争いに絡めなかった大矢は継続なのだから、来季を見るまでもなく、その花が『誰も見たこともないような、おぞましいドス黒い花』であろうというのは、野球ファンには容易に察せられた…。

2009年[編集]

別に大矢の手柄でも何でもないがFA宣言したエース・番長の慰留に成功。しかし正捕手の相川には、FA逃亡された。前年の「大慌てトレード」における、鶴岡一成捕手を放出した球団のツケを、またしても大矢たち現場のチームが背負う事になる。

しかも春先のWBCに供出した動きの悪い4番のデブの復帰遅れにも祟られ、ただでさえ不安だらけというのに有りったけの戦力を掻き集めただけで、味噌カツ球団オレンジの金満球団という難敵との対戦カードが予定された、2009年の開幕に臨む事となった。

WBCへの参戦拒否で万全の開幕ダッシュを目論む味噌カツとの4月3日の開幕初戦、エースの番長は7回で散発5安打という投球を披露した。ところが、単発だけで4本の花火を上げている有様。一方のハマ打線も5安打ながら、4番デブ欠場の副産物である8番スタメン抜擢の山崎だけで3安打。結局、相手の失策で1点もらえただけの1-4、番長も自身の開幕戦連敗を7に更新した。

翌4日からも、手も足も出ない3安打の0-5、5安打の0-6。続く金満3連戦でも1-5、1-12、2-9という惨劇。案の定、開幕6連敗。特に6戦目に飛び出した代役4番・モンチッチによる2ウラの同点ソロ本塁打まで、適時打や本塁打といった景気付けになるような得点を挙げられなかったフルボッコなのだから、『どこで勝てるんだろう?』とマジで案じられた。それでいて昨季と変わりない4月戦績(8勝14敗)とは、まぁこれくらいは昨季からの想定内。むしろ『6つで済んだのか』という具合。6連敗の後を5割で乗り切ったのだから、大矢にしては上出来である。

ただ、放出したブタ朗に替わり若手に託した遊撃を、ベテラン仁志敏久に2塁から助けさせるつもりもあったかもしれない。ところが仁志の方が攻守の「お荷物」になってる始末。世代交代を遅らせたツケであろう。

翌月5月なんて、金満や味噌カツなど難敵との対戦カードしか無いまま、交流戦に突入するなんてまるで、ハマのバクハツ的な連敗を意図的に作ろうとしてるんだろうと推察されるハード日程でありながら、大型連敗を回避している。特に13日には、ハマスタにおける金満球団との乱戦を9X-8のサヨナラで制し、浮上のキッカケになるか?と期待された。
ところが翌14日には、金満から痛烈なシッペ返しを食らって5-9で敗戦。しかも15日から17日まで鬼門・ナゴヤでも3タテされて4連敗。ヘタレに逆戻り、借金を11まで膨らませた。すると同月18日の月曜日になって「待ってました」と言わんばかりに、手際の良い球団からクビを切られた。

37試合を終えて13勝24敗。打線の奮起で勝利を探ろうというチームが、この時点でチーム打率.224と低迷。最下位とは、当然の結果なのだろう。

トンデモ采配は非難の対象に挙げられたものの、先見の明も無いまま場当たり的な決定で掻き回すだけの無能な球団の責任を現場だけに押し付けられたという点では、同情の余地があった。

大矢の方程式[編集]

Chakuwiki.png
長文が読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「大矢の方程式」の項目を執筆しています。
在任中に「大矢の方程式」が垣間見られた試合を挙げてみる。

2007年[編集]

  • 8月25日、ハマのオジサン先発を託した神宮での不人気なツバメ戦。初回いきなり左前打、四球のオジサン。ヨレヨレで大丈夫なの?と思われたが無失点。しかも6回まで毎回被安打なのに、2安打された4回の1失点だけという脱帽な投球術で、7回を投げ終えた。そこで8ウラから加藤武治に託した大矢采配だったが、いきなり無死1塁。それでも三振で流れを一時は止めた。しかし6番田中の1ゴロに対し、当シーズンの目玉コンバートである1塁手モンチッチによる2塁への悪送球で、完全に水を差す。このワンプレーで、その後の鶴岡捕手の失策まで誘発。ハマお得意のドタバタ劇、1イニング2失策では、加藤でなくても崩壊は当たり前。たちまち3-3とされてオジサンの働きを台無しにしてしまう。
    9ウラの那須野に、そんなツバメを押さえ込めなんて無理。1四球と3安打を許して3-4のサヨナラ負け。

2008年[編集]

  • 5月15日、金満球団との3連戦の3つ目。前々日(13日)・前日(14日)の勝利で、ようやくシーズン2度目の連勝。さぁ『シーズン初の3タテ』を挙げようか、という機運の高まりにチームやファンが久々に沸いた この日。エース・ハマの番長の粘投から、6ウラには動きの悪い4番のデブによる勝ち越し弾が飛び出したというのに、7ウラには3安打投球(96球)の番長に代打の金城である。そこで追加点を挙げられないのを大目に見たとしても、8表を『空白状態の中継ぎ』で臨む事を採択した大矢采配。結局、吉見祐治横山道哉ヘッポコ継投で金満打線を蘇生させた。番長が3三振に抑えてたラミちゃんに、横山が逆転適時打を浴び、2-3で敗戦。
    当日、TBSラジオで解説してた田淵氏の戦評も、「投げてる三浦より、ベンチがビビリ過ぎ」とのこと。
  • 6月11日、ルーキーのブツブツな小島よしおにプロ入り2度目の先発を託した、大阪ドームでのオリックス・バファローズ戦。前節6月9日には北の果て球団に13-3で大勝し、5連敗で止めた勢いを保って乗り込んだ。
    2ウラ無死1・2塁のピンチには、送りバントを小飛(2塁走者のアンパンマン帰塁、間に合わず併殺)に仕留めると、4表には2番仁志敏久の単発と、あの古木克明を手放してまで獲得した6番ジミーの3ランを含む先制の5得点。5ウラの2死1・2塁のピンチでも、ブツブツ小島による強気の投球でアレックス・カブレラを鎮圧。完勝モードと思われた。
    しかし100球直前、先発として未境地の7ウラにガス欠したブツブツ。7・8・9番打者に対し四球、大飛球なのにポール際の右越え単打、ドン詰まり左前適時打で1点を奪われ、無死1・2塁になったところで降板。するとスイッチした吉見の初球で、1番坂口智隆の不意打ちバントを食らうと、ハマお得意のドタバタ劇の幕が上がる。バント処理した相川捕手の1塁悪送球を、寝転がって止めるのに精一杯という1塁ベースカバーの仁志。その隙に、2塁走者内野の忍者には本塁へ突進されて5-2。なおも無死1・2塁なのだから、ドーム内にはオリックスのイケイケ機運がイヤでも満ち始める。それでも吉見は2番村松有人を2ゴロ併殺に仕留めて2死3塁とし、沈静化に傾きかけた。3番カブレラに回ったところで、大矢も「石橋を叩くように」惜しげもなく加藤武治を継ぎ込んだ。ところが、真ん中への失投で右前適時打を許し5-3、併殺で消沈させた効果を台無しにした。4番タフィ・ローズを迎えたところで山北まで継ぎ込み、なんとか7ウラを凌いだものの、たった1イニングで5-3まで追い上げられ、「石橋を叩いた」どころか「寝た子を起こした」だけの大矢采配。序盤の楽勝ムードは一変、目を覚ました相手の追撃に怯え、既に薄氷である。
    そうなると、またもや『大矢の方程式』がチームを蝕む。新害人の炎上王・ヒューズを8ウラのアタマから継ぎ込んだ途端、四球と中前痛打の無死1・2塁である。そこで慌ててヒ魔人の尻拭いを仰いだものの そんなドタバタは、ヒ魔人にも悪影響を及ぼした。送りバントの1死2・3塁から、8番で左打者の内野の忍者には内角低目への縦のスライダーがワンバウンド暴投。5-4の1点差と成り、なおも1死3塁。更にフルカウントから低目を要求されながら、暴投の影響で高目に浮いたスライダー[8]を忍者には滞空時間の長い大きな右犠飛で5-5の同点にされ、ブツブツの好投を台無しにした。
    ところが8ウラは、まだ終わらない。2死で無走者なのに、9番森山良には2塁への超ボテボテなゴロ。仁志の猛ダッシュ処理であっても、ヘッドスライディングで内野安打を奪われる。そこで牽制を1球も入れない為に、バレバレの盗塁を初球から許したバッテリー。すると1番坂口智隆の浅い中前ポテン打に、2m以上も1塁側に逸れた金城龍彦からの悪返球も重なった為、快足の森山に本塁を奪われ5-6の大逆転負け。
    結局、4回に4安打を浴びせときながら他の回は無安打という無策も祟って、この試合を落とすと再び5連敗に突入した。

2009年[編集]

この年は、試合途中の采配で落とすよりもスタメンを決めた時点で、勝敗まで決まってしまう印象が濃かったかもしれない。でも、後手後手に回る采配も見せていた。

4月[編集]

  • 28日、シーズン初の3連勝への2度目のチャレンジという、倉敷での黄色い お笑い球団戦。0-2でリードされてた6表には、相手先発の下柳に4長短打を浴びせ、4-2とヒックリ返した。けど追加点の好機なのに、先発の小林に代打を送らず4点止まり。
    直後、いきなり鉄人粗いさんの連続内野安打を浴びた小林を無死1・2塁で降板させた。そこで継ぎ込んだワンポイントの那須野が、代打の浅井に左前打を許し無死満塁で状況悪化。当たってなかった6番の葛城を引っ込めさせるアシストでしかなかった。そこで尻拭いをさせられた3番手の真田も、4連打目を許し3-4。なおも無死満塁のピンチだったが、8番の遊ゴロ併殺で本塁返球を諦め、なんとか4-4の同点で踏みとどまった。ただ、7ウラのアタマからは、代打送ってなくても4番手に吉川を投入する大矢采配。そこへ、1死2塁から鳥谷敬の深い左飛にレフト内川聖一失策が、追い打ちをかける。WBC決勝でのスライディング捕球・即返球で打者走者の2塁捕殺達成!!の華麗さを吹き飛ばすほどの拙守には、吉川も崩壊。2点先制された3ウラの右翼フェンス際の2塁打でも そうだったが、ただでさえ弱投なのに拙守で足を引っ張っては、お手上げ。7ウラだけで4失点し、4-8で落とした。
  • 30日、倉敷から甲子園に移った お笑いとの3連戦3つ目。9ウラまで2-0でリードしてたが、2死から5連打を浴びて2-3のサヨナラ負け。表面的には『抑えを託された石井裕也の誤算』としか報道しないだろう。確かに痛打もされたが、いくら大矢であっても継投としては精一杯だった。問題は、むしろ他にある。
    7表の1死3塁で、それまで2被安打(7ウラ途中降板でトータル3被安打)と、ネコトラ打線を押さえ込んでた先発マストニーへの代打を自粛し、1番石川だけに過度の期待をした凡退は100歩譲る。でも6表の1死1塁から、左中間への大飛球を捕られても、1塁への帰塁に間に合わずゲッツーの4番デブと、8表の1死1塁から4番デブ三振直後に飛び出して1・2塁間で挟殺された1走シャクレこの両名のトンチンカン走塁なんて、観るに耐えない。←春季キャンプどうこう以前の問題、代表選出された資質を疑う(怒)。
    それどころか、9ウラの被連打でもチームに落とし穴。2死から代打の今岡に遊撃内野安打を許した後、1番ヘッスラ・ファイターには右中間3塁打。ただ、この打球に対し右翼のモンチッチがダイブ捕球を試みる必要など、あったのか?懸命なのは理解できるが、せめて2塁打で止めようという意識の守備くらいは観たかった。次の2番奈良のタラコの中前打を、先制2点弾を放ったセカンド梶谷が阻む…、までは良かった。無茶な体勢だったし、本人も『投げないべき』だったか、と反省した悪送球になっちゃった。これが仮にジャンプしても捕れぬトンデモ大暴投であったとしても、前述のモンチッチにせよ梶谷にせよ、全力プレーの副産物だからボロカスに罵るには気の毒である。
    しかし、守備固めで1塁に起用された佐伯のバカタレが、全てを粉砕する。実際にはワンバウンド送球だったがポケット捕球を失敗し後逸、同点にされたどころか、打者タラコの2進まで許すオマケ付きである。おかげで石井は3番鳥谷敬にも右前打で なぶられる。そして、鉄人によるトドメの1打(月間30打点目)はタラコの打球コースより厳しくなかったハズだが、梶谷の跳びつきを嘲笑うほど速かった。
    マストニー・梶谷といった投打の伏兵が活躍、弱投と揶揄された中継ぎでも山口俊などの奮起で見所は在った。ただ、それらを台無しするほどの凄惨な結末そりゃイチかバチかも大事だろうが、『ダメでも傷口を拡げないプレーの徹底』を全く浸透させてない点で、継投に限らずとも攻撃[9]や守備起用の面でも『大矢の方程式』を随所に観られる事を実証した一戦であった。

5月[編集]

  • 7日、花火飛び交うウサギ小屋での金満戦。先発のルーキー藤江、好投で試合を作り、7表を終えて相変わらず連打を見込めぬ単発に大きく依存したとはいえ、珍しく3-0でリード。ただ2死を挙げた後にスンヨプの単発返しを浴び3-1。すると78球の藤江を限界と判断したのか、オジサンにスイッチ。他の監督なら、もう1人出塁させたところで降板させるが、そこは「石橋を叩く」大矢采配。しかしオジサン、大矢采配に対する小さな抵抗なのかいきなりウナギ犬の安打を許す御愛敬。でも後続を断つ。
    8ウラの代打を迎えると、オジサンに替えて右の高崎を投入。両打ちの鈴木尚なんだからオジサンのままでも良さそうなんだが大矢の危機管理能力に基づく「石橋采配」は冴えを増す。結果、左前打。おそらく代打本塁打を阻止した成功策なのだろう。後続の二直、四球で1死1・2塁となり3番小笠原を迎えると、高崎を諦めて4月の月間MVPに輝いた山口を投入。「水も漏らさぬ」磐石の継投で逃げ切るつもりである。
    ところが、小笠原に逆転3点弾を食らう有様。ラミちゃん三振で仕切り直すも、亀井の安打後にスンとウナギ犬も連弾炸裂。8ウラだけで6失点なんて、「水も漏らさぬ」どころか「決壊」した大矢ダム。藤江の初勝利を瞬く間に呑み込んだ大洪水により、チームは3-7で敗戦。

脚注[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「大矢明彦」の項目を執筆しています。
  1. ^ あのまま続けてたら歩けなくなってた、ってプロ野球ニュース(2011年9月4日放送分)で明かしてた。
  2. ^ 引退後は、ヤクルトのユニフォームを着てないのに、横浜の指導者であった。
  3. ^ 低打率まで伝承したようである。
  4. ^ 三角コンバートで結果成功といえるのは、ブタ朗の遊撃転向だけであった。
  5. ^ 対象的に、どんでん率いる阪神タイガースなんて6月11日に59試合で40勝到達であった。
  6. ^ ちなみに、相川が復帰した9月24日は後半7連敗の初日。しょせん相川1人の力で連敗阻止なんて無理だ、ということ。
  7. ^ 耐えているのはファンの方だ、という事を全く忘れている時点でダメダメである。
  8. ^ 制球し損ねたスライダーをフルカウントから再度要求するのであれば、さっきの暴投を身体張って止めろよ、相川(怒)。
  9. ^ 4番デブなんて1表の1死1・3塁でも3ゴロ併殺をやらかしてたんで、3度のゲッツーに絡んでた事になる。隠れた戦犯だ(怒)。

関連項目[編集]


ExSport.png この項目「大矢明彦」は、エキサイト不足のようだね。
さあ、君もこの記事に胸が高まるような文付け足してみよう。レッツトライ! (Portal:スタブ)