大隈重信

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大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日)-大正11年(1922年)1月10日)は、大きなクマさん・クマーなどの愛称でおなじみのエロイ人エライ人であるんである。指で丸を作るとお金を意味するジェスチャーを考案したのが大隈重信であるんである。

概略[編集]

地元出身芸人さえも認めるド田舎・佐賀県の出身でありながら、2度にわたって総理大臣を勤めたほか、有名ニート私立おっぱっぴー大学を創ったのであるんである。そう、クマーさんの霊は今でも大学内の銅像の中からスーパーフリーマジキチ連中を含む全学生を生温かく見守っているのであるんである、フフフ・・・。

口癖[編集]

  • 「~なんである」
  • 「~なんであるんである」

生涯[編集]

幼少~青年期[編集]

幼い頃から非常に反骨精神に満ち溢れ、かつ好奇心旺盛であったんである。平たく言えば、「カタブツ」「常人にとっては扱いづらい人物」であったんである、ということかしら。出身の佐賀藩で教育された奇麗事ばかりを並べ立てる儒教教育に猛反発し、長崎で明治維新以前は建前上御法度であったキリスト教英語に触れ、大いに刺激を受けたんである。それが倒幕行動に繋がったかどうかは誰も気にしないんである。

中年期[編集]

明治新政府においても活躍の場を与えられたんである。でも倒幕に活躍したのは薩摩藩・長州藩出身のイモフグの連中なので、クマーさんは最初は日陰の存在だったんである。しかしながら持ち前の英語力で外交に手腕を発揮、更には財政にも通じていたため、出世していって参議に上り詰めたんである。伊藤誠かおるちゃんたちとしばしば自邸に集っては政治談議と称して酒盛りに勤しんだので、クマーさんの家は「築地梁山泊」と呼ばれたんである。鉄道開設も、この酒盛りの話の中から決まっていったんである。・・・板垣退助らの自由民権運動が民間で盛り上がると、政治を今後も薩長で牛耳りたいイモフグの連中と、むしろ民権運動に理解を示して早期の国会開設を主張したクマーさんは対立を深め、またイモ中毒フグ中毒の出身でないこととカタブツな性格も災いして、1881年にクマーさん抜きで閣議が勝手に開かれて失脚しちゃったんである。

受難[編集]

失脚させられたクマーさんは、一緒に政府を辞めた元官僚や同志の新聞記者らを集めて、立憲改進党という政党を1882年に立ち上げたんである。そして模範国民を作りたいとして、早稲田におっぱっぴー東京専門学校(後のおっぱっぴー早稲田大学)を開校したんである。しかし学校と言いつつ、実は謀反人の養成所じゃないかと警戒され、イモフグ中心の政府の露骨で醜い妨害に遭うも、クマーさんは「学問の独立」を学校のスローガンとして掲げ続けて対抗したんである この頃、欧米と日本の間で結ばれていた不平等条約改正の機運が民間で盛り上がるも、相手の欧米諸国が改正に応じようとしないので、立ち往生してしまった政府はクマーさんに仲直りを持ちかけるふりをして、外務大臣に就任させたんである。要は、面倒な条約改正を押し付けたんである。その結果、クマーさんが条約改正で欧米に妥協する姿勢をみせると、これに反発した稀代の爆弾魔・来島恒喜に爆弾を投げられて、本当に右脚を失ってしまったものの一命を取り留めたんである。

壮年期[編集]

1898年3度のメシよりも○×△が大好きな働きマンの後を受けて総理大臣に任命される。イモ・フグ以外からで、初の政党内閣による初の総理大臣就任。板垣退助の党と急遽合併して、共に内閣を作ったんであるが、民主党もビックリの烏合の衆であったため4ヶ月で内閣総辞職。一旦は政界から退き、おっぱっぴー大学や謎の植物の育成に力を注いだんである。特にメロンの普及にはかなり力を入れて、「早稲田」というメロンの新品種を開発し、自宅でマスクメロン品評会まで開いたんである。また白瀬中尉の南極体験を積極的に支援して、南極に大隈湾という地名が誕生して、現在もあるんである。

晩年[編集]

だが16年後の1914年名無しさん不祥事の後を受けて再び総理大臣に就任したのであるんである。76歳の、それも片足の無い爺さんを総理に据えるなんて反人道的行為・狂気の沙汰以外の何物でも無いのだが、きっとクマーさんがそれくらい必要とされていたんだよね・・・きっと。クマーさん自身も鬱くしい国のことをずーっと真剣に考え続けていたカタブツだったみたいだし。第一次世界大戦ではドイツに宣戦布告して、中国や太平洋のドイツ領を占領して勝ったんである。でも結局、この内閣は身内の不祥事やイモ・フグの老害元老どもの露骨な圧力(またかよ!)もあって2年後に総辞職。時にクマーさん78歳。 ちなみに平均寿命が40半ばの頃に76歳で総理になるなんて21世紀の今に直せば110歳超えた人が総理になるもんだなぁ。

そして天国へ・・・[編集]

こうして引退したクマーさんは、関東大震災を予見していたのか1922年静かに天国へと旅立ったとさ。当時83歳9ヶ月まで生き延びたってんだからある意味妖怪の域だわな。でもクマーさん本人は125歳まで生きると豪語していたので、その公約は守られなかったのであるんである。文字通り閑古鳥が鳴いていた某山県系さんの「国葬」とは大違いで、クマーさんの「国民葬」には数十万人の日本人が押し寄せたそうな。良かったね、クマーさん。「我輩、心底感激したんであるんである!!」

人間関係[編集]

ライバル[編集]

親友[編集]

不倶戴天の敵[編集]

嫌いなタイプの人間[編集]

  • ほとんど全ての薩長出身者
  • 字の上手な全ての日本人
  • ルーズな日本人
  • 人前であくびをする日本人

逸話[編集]

  • 超合理的主義者。ローマ教皇明治天皇を説き伏せて日本にグレゴリオ暦を導入したのであるんである。
  • 日本で最初の鉄道のゲージを、その場のノリで狭軌(=現在の在来線のゲージ)に決めてしまい、日本の鉄道の高速化が遅れる一因となったのであるんである。後にクマーさん自身このことを激しく後悔しているのであるんである。一部の狂信的熱狂的な鉄ヲタの間では、未だにクマーさんを呪っている連中がいるとかいないとか。
  • クマーさんが日本で最初の始球式で大暴投しちゃったがために、現在に至るまで日本人は始球式のボールを空振りすることになっちゃっているんである。
  • メロンバナナや謎の植物を自宅の温室で栽培していたんであるんである。どんだけ金持ちやねん!
  • 子供の頃に字が上手い子に嫉妬したことが原因で、ごく一部の例外を除いて自分で字を書くのを生涯やめちゃったんである。だからクマーさんのたくさんのお手紙も、政治から園芸までいろんな雑誌に寄稿していても、自分でいろいろ雑誌を創刊しても、全部代筆なんである。
  • 隠居していた徳川慶喜に懇願してインタビューに成功し、幕末から明治時代までの歴史書『開国五十年史』の編纂に尽力したんである。英語版や中国語版も作成させて明治維新史を世界にアピールしたんである。
  • 日本自動車倶楽部の初代会長に就任し、当時の日本ではまだ珍しいマイカーの普及に尽力したんである。また帝国飛行協会の初代会長にも就任し、飛行機の普及にも尽力したんである。
  • 日本初の本格的百科事典『日本百科大辞典』の編纂に尽力したんである。その流れでアンサイクロペディア日本語版という本格的百科事典が現在あるのかもしれないんである!
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