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姑(しゅうとめ)とは、伝説上の生き物。昭和時代後期までには、その生存が各地で確認されていたが、郊外ニュータウンでは、ほとんど発見することが出来ない今や貴重種。場所によっては絶滅種

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「姑」とは何か[編集]

読んで字の如く「女」の「古」いものである。となると「(ばばあ)」とも近縁種のようであるが、その存在感や破壊力は並みの「婆」を軽く凌駕する。もしかすると「山ん婆」に近い生き物であるとも、想定されている。しかし近年、「「女」と呼ばずに「女性」と呼べ!」といったジェンダー理論の普及からして、「女」を自ら名乗るものが減少し、併せて「古」いことを隠すようなエステや化粧や整形、例えば佐伯チズによるもの、が広範囲に影響したため、いわゆる「女古」はその生体個数を著しく減らしたと考えられている。

「姑」の黄金時代[編集]

しかしほんの30年前まで、日本各地全国津々浦々に姑は生存していた。週刊誌には「姑のしごき」や「姑とのソリが合わずに」「ああ鬼嫁、姑に熱湯攻撃」など、いささかセンセーショナルな見出しが踊っていた。女性の人生相談の八割が「姑」に関するものであったし、女性が三人集まって悪口を言えば必ず「姑」の名前が口をついて出たものである。かくして高度経済成長期までは、ウサギ小屋と呼ばれた日本の庶民の生活の中では、姑がそばにいることは至極あたりまえのことであったし、「姑の仇を嫁が討つ」という、嫁と姑の見事な連係プレーも見られたのである。

ババ抜きの時代[編集]

しかし時代が移り変わると、「姑」は一方的な悪役になり、旦那の月給が安いのも、息子や娘の学業不振も、厄介な隣近所とのつきあいも、時の政府が悪いのもみな責任は「姑」ということになり、時ならぬ「姑追放キャンペーン」が起こった。昭和末年のことである。この時期を境に、嫁姑同居という家族スタイルは忌避されるようになり、「三高の夫にババ抜き」の家庭だけが、進歩的で明るい家庭とされたのである。かつての「魔女狩り」は、魔女と見做した老婆を捕縛して焚殺したものであるが、今度の「姑狩り」は、姑と見做した老婆を、強制的に一人住まいにする、あるいは養老院・老人ホームにぶち込んでなきものにする、といった陰惨なものであった。つまり徹底的な忘却によって、姑を記憶から抹殺しようとしたのである。

メディアに見る姑[編集]

メディア・スタディーズ(メディア研究)の中でも、姑の映像化ないしは表象化は、時代の変遷とともに興味深いものとなっている。例えば国民的アニメである「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」、「ドラえもん」あるいは「クレヨンしんちゃん」では、姑は全く出てこない。出てきてもそれは「姑の属性」を持ち合わせていない。例えば、「サザエさん」のフネは「婆」ではあるが、「姑」ではない。季節ごとに特別に出演するマスオの母は、立場からするとサザエにとって「姑」であるが、常時大阪に住んでいて、戦う「姑」の属性を抹消されている。「ちびまる子ちゃん」のおばあちゃんに至っては模範的なおばあちゃん以外の何者でもなく、おかあさんの姑である事実は丁重に無視されている。このように「家族主義」なアニメですら、意図的に姑の存在を全く隠蔽し、闇に葬ってしまおうとする気配は濃厚である。

また実写のドラマであっても、いわゆる「トレンディ・ドラマ」には、全くと言っていいほど姑は出てこない。たまに「家族主義的なコメディ」で姑はピエロのような役回りを演じることがあるが、それは「恐るべき神」であった姑が零落した姿に他ならない。

例外的に「姑」がまだ活躍するのが、橋田壽賀子ドラマである。「渡る世間は鬼ばかり」は未だに姑や小姑が繚乱跋扈する怪作である。しかしこの10年以上も続くシリーズは、いわば「姑の時代」の神話的な叙事詩なのであって、リアルさをこれに求めることは難しい。姑の黄金期を追憶的に回顧し、古きよき時代を次の世代につなぐ、と言う意味では「イリアス」や「オデュッセイア」のような作品なのだと言うことができよう。しかしその橋田壽賀子ドラマですら、近年では姑よりもアラフォーリア充団塊ゆとり息子・娘の暗躍がよく目立つところである。

関連項目[編集]