宣化天皇(箭羅奈胆加大王)
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
箭羅奈胆加大王の肖像。 服装、および冠の存在は無視している。 | |
| 基本資料 | |
| 本名 | 阿部高和(あへのたかやまと)皇子 |
|---|---|
| 通り名 | 箭羅奈胆加(やらないか)大王、屎噌男色恋愛技巧者 |
| 身体情報 | ゲイをカミングアウトしている |
| 職業 | 天皇 |
| 好物 | いい男 |
| 嫌物 | 男后、男妃の男相手の浮気 |
| 出身地 | 日本 |
| 出没場所 | 飛鳥 |
| 所属 | 朝廷 |
| 親戚等 | |
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道下正樹男媛(男后) | |
~ 宣化天皇 について、道下正樹男媛
宣化天皇(せんかてんのう)は大和時代の大王。
目次 |
[編集] 略歴
宣化天皇は、実は日本書紀初稿や古事記では、箭羅奈胆加(やらないか)大王、という諡をもらっていたが、真相発覚にて権威が大幅に低下してしまうことを恐れた奈良時代の朝廷(というか、聖武天皇)が、のちに日本書紀改訂版で諡を漢風に改めてしまい、真相を封印してしまった。
[編集] 皇子時代
皇子時代の諱は阿部高和(あへのたかやまと)皇子といい、まさに箭羅奈胆加大王という諡に相応しい名前である。阿部高和皇子時代、のちに男后として日本書紀初稿にのみ記される道下正樹男媛(みちのしものまさいつきのおのこひめ)<当時、齢16。まさに破瓜の年齢。しかし男>と厠(かわや)で知り合い、瞬く間に契りを交わし会う仲となった。
[編集] 即位の経緯
535年末、日本書紀改訂版においては実兄と記されている安閑天皇による麻雀大会でのチョンボ事件が遠因となった退位を請けて即位。
即位の経緯としては、宮廷麻雀大会で安閑天皇がチョンボをした不祥事の直後、「チョンボの秘密をお墓にまで持ってきます。その代わりに『事をなさせてくださいませ』」と阿部高和皇子が安閑天皇の耳元でささやいた。そのとき阿部高和皇子に耳元でささやかれた安閑天皇は無意識に怖じ気づき、「それだったらチョンボをばらされて大王を退位した方がまだましだ」と叫び宮殿から逃げ出した。安閑天皇はノン気であった。また、阿部高和皇子と安閑天皇は深酒をしており、泥酔していた安閑天皇がつい熱くなりすぎて犢鼻褌一本の姿になってしまっていた。安閑天皇が逃げ出したとき阿部高和皇子は彼の犢鼻褌をつかみほどいた。その後の顛末は安閑天皇の項に記してある。
こうして安閑天皇は大王の座をあっさり手放したために、阿部高和皇子は現場にいたもう一人の大王一族だという理由で、仕方なく即位させられたと言われている、とのことが日本書紀初版に記されていたという。なお、阿部高和皇子は、麻雀の技術の確かさを持った安閑天皇に惚れて、近寄りたかっただけという。
[編集] 性的傾向とそれに関する難題
箭羅奈胆加(やらないか)大王(宣化天皇)は真性ゲイのため、后や妃は娶らなかったと言われている。しかし、その代わりに男后(彼は道下正樹男媛(みちのしものまさいつきのおのこひめ)という名が知られている)や多数の男妃を娶った。
箭羅奈胆加大王に娶らせるためにケータイ天皇(笑)が募ったはずの后や妃らは、義弟の欽明天皇(欽ちゃんジャンプが得意技)や臣下の蘇我稲目と代わりに契りを交わすことになり、それによって日本書紀改訂版で宣化天皇の皇子や皇女らとして記されるところの子女をもうけている。 その当時の契りに関する会話が、日本書紀初稿に掲載されていたと伝わっている。内容は以下の通り。
欽明天皇「稲目殿、男が好きな男が大王なので、大王様の代わりに実際娶っている妃以外にも我々が美しい后や妃と逢瀬を重ねられますね」 蘇我稲目「そうでございますね皇子様、おたがい、なんて役得でしょう。この幸せが永久に続くことを祈らずにいられません」
なお、この時の会話について男妃から報告を受けた箭羅奈胆加大王は、蘇我稲目にバックバージン剥奪刑を執行しており(単に箭羅奈胆加大王がたまにはノン気でも食ってみたかっただけという説の方が有力だが)、当然のごとくノン気の蘇我稲目にトラウマを与えている(その時の衝撃があろう事かDNAに刻まれ、ひ孫の代になって、一説には真性ゲイであるといわれている蘇我入鹿となって現れた物と推測される。なお、その蘇我入鹿は女に興味はなく、終生、古人大兄皇子LOVEであった)。
[編集] 崩御とその後
史書では后扱いされる皇女と蘇我稲目が為した子女の方で、なぜかバイセクシャルの上殖葉皇子と尋常ならざる契りを交わしている最中に箭羅奈胆加大王は腹上死という恥ずかしすぎる死因で崩御した。
そんな彼、箭羅奈胆加大王は勅命で、自らとその男后や男妃、そして重臣たちを模した全裸の埴輪を作るように命じたといわれている。その遺言を受け、昼夜問わず寝る間も惜しんで作成されたその埴輪は、当時の倭国の造形では考えられないほど実際の人間の体格に忠実で、筋肉についても実物を模倣した型どりだった。その埴輪の具体的造形は、北欧神話で語られる神たちのある種の全身像かイギリス某所の原始的な砂絵がごとく、そしてさらに男性のシンボルを大きくそそり立たせていたという物だった。この説明のように箭羅奈胆加大王のため製作された埴輪達は個人の嗜好を追憶する目的を有しおり、また造形としても当時ではかなり進歩的な様式を持っている。
即位前の欽明天皇らは箭羅奈胆加大王のため製作された埴輪達の造形美に感心した。ただ、その裸像の埴輪があまりにも実際の重臣に似すぎたため、完成後、自らに似ている裸体の埴輪を見て衝撃を受け、そして当然のごとく怒りの感情を持った欽明天皇や物部尾輿らがそれらの埴輪を破壊した、と日本書紀初稿では記されていたという。その後、埴輪はヤマト王朝では二度と作られなくなった、とも記されている。
[編集] 欽明天皇即位とそれに関する箭羅奈胆加大王についての後始末
箭羅奈胆加大王の崩御年である539年に欽明天皇が即位したが、彼は、チョンボ事件の安閑天皇と箭羅奈胆加大王の在位の記録を黒歴史として同時に封印した。そのため、531年に継体天皇から直接譲位してもらい欽明天皇が即位したことになるという、パラレルワールドが発生している。ただ、箭羅奈胆加大王の魂は、倭国での自らの遺言の結果的な無視や史書での在位抹消といったそれらのことどもも尻目に、ユーラシア大陸をはるか西にアッー尻アッーや、尻アッーの上空を飛び回っているという。古代ギリシアの神々にあこがれ、遠くギリシアを眺めつつ。
[編集] 付記・道下正樹男媛について
箭羅奈胆加大王の男后として一部の史書に伝わる道下正樹男媛だが、一説によると、箭羅奈胆加大王即位時には存命していなかったという説がある。 それによると道下正樹男媛は、磐井の乱に兵士として徴用され、50を超えるの部隊のしんがりを勤め上げ、多くの敵を倒すも力尽き戦死していると言う。
その悲しい知らせを聞いた阿部高和皇子(後の箭羅奈胆加大王)は、彼の3回忌がくるまで毎日、男泣きに嘆き悲しみ続けた。 後日、阿部高和皇子が大王として即位したときには、その道下正樹男媛の生き写しの石像を男后(もしくはその代理)として取り扱ったという。その石像は公の儀式の時のみに姿を見せた。 道下正樹男媛の石像は普段は開かずの部屋に大切にしまわれており、重要な儀式の時のみ派手な衣服によって装飾された。この石像が箭羅奈胆加大王の遺言の裸形の埴輪の原型となったらしい。 なお、この石像にも記された道下正樹男媛への断ちがたい思いのため箭羅奈胆加大王は後添えの男后は迎えなかった、と伝わっているらしい。
[編集] 関連項目
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