小池百合子

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

「小池さんなら小沢一郎といい勝負ができる」
~ 小池百合子 について、小泉純一郎

小池百合子こいけ ゆりこ1952年7月15日 ‐ )は、日本政治家。「政界渡り鳥」、「シロアリ女王」、「風車のお百合」などの別名がある。美国エージェントも務めており、コードネームは「マダム・スシ」。

日本新党を皮切りに諸政党を渡り歩く中、小沢一郎小泉純一郎といったその道の大物の薫陶を受けた結果、才女、美人のビジュアルとは違って、壊し屋、潰し屋に分類されているが、公然と破壊活動を行う師匠たちとは異なった手法を用いている。

目次

[編集] 政界入りまで

かつて、石原慎太郎主宰で、「物質的な繁栄の下に国家民族の理念と目的を喪った日本に、新しい魂を与える」という、いかにもな綱領を掲げる「日本の新しい世代の会」という新党結成も視野に入れた政治運動があった。 神戸の貿易商だった小池の父は、同会の推薦で1969年の衆議院議員選挙に兵庫2区から出馬して落選しているのだが、その後、石原新党(笑)は、噂が出ては消えるのループを繰り返し、一度も実現されたことはない。 なお、後に小池百合子が政治家としての第一歩を踏み出すことになる日本新党を興した細川護煕も、この「日本の新しい世代の会」の誘いで政界入りしている。

芦屋市在住で甲南なんとかという名前の中学校、高等学校を出てくわんせい学院大学に通っていた小池であったが、父の落選後、一家でエジプトに移り住んだ。「アラビア語が世界の共通語になる」とのデマがきっかけで、カイロ・アメリカ大学でアラビア語を修めたのち、カイロ大学を卒業している。エジプト滞在中にピラミッドの天辺で寿司を握ったかどうかはわからない。

ジャーナリストとして、PLOのアラファト議長や、リビアカダフィ大佐への単独インタビューを敢行するなどして名を上げた後、CIAプロパガンダ番組である「竹村健一の世相講談」のアシスタントキャスターや、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを務めたことで、日本国内で有名人となった。

実績のない政党は、小池の僅かな関与で議席獲得すらままならなくなってしまう
ライス長官と会見するマダム・スシ

[編集] シロアリ女王

小池がこれまでに所属した政党は例外なくボロボロに朽ち果てて消滅している。

日本新党
1992年結党、55年体制を終焉させた連立政権で党首・細川護煕は首相に据えられたが、1994年12月に小選挙区制導入に備えて新生党などと合流するために解散、日本新党所属議員は新進党に参加した。小池は特に要職にあったわけではないが、知名度の高いマドンナ議員(笑)で、父と同じ兵庫2区から出馬してチア・ガールを使った選挙運動を展開するなど目立つ存在であり、日本新党ブーム、政権交代の重要な担い手であった。
新進党
壊し屋小沢一郎の側近として新進党解体に貢献した。
自由党
小渕恵三内閣に連立参加して与党となったが、その後、公明党が連立に割り込んできた。連立離脱を主張する小沢一郎に対し、小池は、二階俊博野田毅扇千景らとともに連立政権残留を主張した。自由党は分裂することになり、小池は小沢の慰留を振り切り、連立残留派の保守党へ移った。自由党はその後、民主党に吸収されて消滅した。
保守党
民主党から熊谷弘山谷えり子らを受け入れる際、比例代表選出候補を移籍させる方便として保守党解散・保守新党結成を行ったが、小池は公職選挙法の抜け穴を利用した解体手法が気に入らなかったらしく、野田毅らとともに保守党を離脱、自由民主党に復帰・入党した。保守新党は1年ももたず解散、所属議員は自由民主党に復帰・入党した。
自由民主党
自由民主党はまだ消滅していない。だが、消滅は時間の問題である。
幸福実現党
2009年幸福の科学エル・ア・カンターレ総裁が日本国難から救うために幸福実現党を設立し、8月に行われた衆議院議員選挙に大量の候補者を立てた。しかし、「会報発行数ベースで1100万人」という信者数にもかかわらず、議席ゼロに終わってしまった。同党が勝手に候補者を下ろして選挙協力した十数名の候補者の中で、唯一目に見える選挙協力を行ったのが小池であった。北朝鮮による拉致工作の拠点とされる東京・池袋のクラブ「ニューコリアン」跡地前で共同街頭演説を行うなどしている。小池側から選挙協力を打診したという説もある。

[編集] 女子の本懐―市ヶ谷の55日

アベ・ハートに取り入って防衛大臣に就任すると、役人のくせにシロアリ行為を働いていた守屋天皇を倒す。シロアリがシロアリを駆除した、という世にも珍しい出来事である。

[編集] 関連項目

Wikipedia
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