小瀬甫庵

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小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年1640年)は、戦国時代から江戸時代にいた医者儒学者作家パンダホアンホアンの名付け親として有名。

生涯[編集]

侍医として[編集]

尾張国の人物であるが出自は美濃国守護土岐氏で、池田恒興に儒学者&医者として仕えたが実は無免許医師、即ちモグリの医者であった。恒興はそれでも召し抱えていたが、恒興が亡くなると、子の輝政は無免許医師を囲って警察に捕まることを危惧した為、解雇された。

ならばと、警察も手を出せないであろう豊臣秀吉の甥の秀次に仕えたが、恒興の元にいた居心地と比較してしまい出奔、同じく警察も手を出せないであろう五大老宇喜多秀家に仕えたが、同様の理由でそこも出奔し三中老堀尾吉晴に仕えた。

しかし、今度は長続きするかなと思ったのも束の間、その吉晴が死去し、次代の忠氏が解雇を言い渡す。 理由は、甫庵が以前、忠氏の脳内を手術した際に、そこに本来は双子として生まれて来るはずだったもう一人を見付け、これを人として再生し、自らの子小瀬素庵として育てていたのを忌み嫌ったことにある。この時代、双子が不吉とされていたばかりではなく、後に後継者争いに発展するのを危惧しての判断であった。

世は既に徳川政権下にあり、豊臣方とばかり懇意にしていた甫庵は、警察より庇い立てできる徳川方のツテを持っていなかったため、結局は廃業、浪人することとなった。しかし、後に子の素庵が加賀前田氏に仕えたため、そこに厄介になることとなった。

作家活動[編集]

甫庵は前田家で悠々自適な生活を送っていたのであるが、あるとき、武家の間でしか流通していない太田牛一の書いた、織田信長の事跡の覚書である『信長公記(『信長記』とも)』を目にする機会があった。甫庵はこれを読み「何これ、ツマンネ! バカ正直過ぎんじゃんよ。もっと、馬がダーッときて、槍がビュンッとなって、鉄砲がバンッてなるような感じの方が面白くね?」と思い立ち、織田信長をコミックヒーローと化した小説を執筆しようと思い立った。甫庵は、より信長がすごくなるよう、桶狭間の戦い今川義元が兵法を弁えず桶狭間山の谷間に布陣したとか、長篠の戦いで信長が鉄砲の三弾撃ちを使って武田勝頼を破ったなど、色々と盛り上がるように脚色しまくった。

作品は完成し、タイトルは当初『レジェンド・ザ・ヒーロー ノブナガーZ』にしようとしたが、あざとすぎてこれでは売れないと判断、「客が勘違いして手に取り易いようにすれば売れなくね? 一般人なんてみんなアッタマ悪いし~!」と、儒教信奉者特有の上から目線で思い立ち、タイトルをパクってまんま『信長公記』として売り出すのだった。 この詐欺まがい商法は平成時代にも使われており、『大奥』というテレビドラマの人気にあやかって、男女が逆転したトンデモ話にも拘らず、まんま『大奥』と名付けたよしながふみ作品にも用いられている。

『信長公記』は、本物が武家でしか読めなかったという理由も加味され大ヒット、これに気を良くした甫庵は、やはり太田牛一の書き残した『太閤様軍記の内』をエンターテイメント化した作品を執筆した。でも今度は「何このタイトル? 堅くね? もっとシンプルなのがいいっしょ、一般人なんてみんなアッタマ悪いし~!」という理由で『太閤記』と名付けて出版した。ちなみに、執筆当時に世話になっている前田家にコビて、中興の祖である前田利家の活躍を大幅に脚色して書き加えているのだが、どうやら後から思いついての事らしく、挿入部分がかなり不自然になっている。それはともかく、この小説もまた、儒学者・甫庵先生いうところの「アッタマ悪い一般人」にうけて大ヒットとなった。

パンダの名付け親[編集]

「ゆるキャラコンテスト」の控室にて

李自成の反乱と後金(後の)の侵入に苦慮する崇禎帝が、徳川幕府に救援を求めるにあたって、上野動物園パンダのカンカンとランランを寄贈し、日本中にパンダブームが起こった際、甫庵もまた、よろこび勇んで見に行ったクチであった。このとき「パンダに自分の名前を付けたら本の宣伝にもなるんじゃね?」と思い立ち、ランランが死亡し、次に送られてくるパンダの名前募集の際に大量に同じ内容のハガキを送りつけ、みごとホアンホアンと名付けることに成功した。以後、自らも小瀬ホアンホアンと改名し、ゆるキャラ的人気を狙った。流石にこれは思惑通りにはいかなかったものの、バラエティ番組でよく見かけるタレントとしてお茶の間には定着していった。

甫庵はこれ以上無い程の多幸感を味わいながら、天寿を全うした。

死後[編集]

ところが、タイトルパクリの影響が後世で問題となる。一般人は甫庵の『信長公記』を本物と信じ、260年続いた江戸時代の間に定着してしまったが為に、徳川幕府が崩壊後に本物を読む機会ができても、それを受け入れることが出来なくなったのである。

信じていたものが違うとなった場合、柔軟な人はそれを受け入れる器量があるが、そうじゃない人は何かと理由を付けてはそれを否定するものである。特にハンパに知識が有る人ほどその傾向は顕著であり、また歴史家の中には他の歴史家を貶めてでも自説を曲げない人も一部いるため(甫庵の内容を否定する側にもいるが)、未だ甫庵の『信長公記』を信じて疑わない人が老害化する始末となった。

そのため一部の人々には、どうせなら『信長軍記』とか『信長物語』とか、信長公記と名付けるにしても『信長公記演義』とか『信長公記(ちょっと大袈裟♡)』とか『信長公記(アンサイクロペディア版)』とかにしといてくれればよかったのにと、非常に残念がっていると言われている

関連項目[編集]