少弐景資

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少弐 景資(しょうに かげすけ 寛元4年(1246年) - 弘安9年(1286年))は鎌倉時代の御家人、武士。武勇に優れ特に弓の名手として名高く、文永の役弘安の役における蒙古軍との戦いで多大な武功を挙げた。しかし弘安の役のさなか過失によって父少弐資能を射殺してしまい、これが遠因となって霜月騒動で兄の少弐経資に討たれた悲劇の武将である。その悲劇性と弓の腕から日本のウィリアム・テル及び鎌倉時代のウィリアム・テルという異名で知られる。

生涯[編集]

少弐氏は本姓を武藤氏と言う。藤原秀郷の末裔と呼ばれ、初代の武藤資頼鎌倉幕府から大宰府の少弐職に命ぜられたために少弐姓を名乗る様になった由緒正しい名門であり、景資は資頼の息子少弐資能の三男として誕生する。景資は雄偉な体躯と腕力に恵まれ、幼い頃から柿の木の柿を弓で射落として食していたと言われるほどの弓の名手であり、元寇においては父や兄少弐経資と共に菊池武房島津忠宗ら九州の御家人達を指揮して奮戦した。文永の役においては、日本軍が劣勢に追い込まれたところ、景資が放った矢が蒙古軍の主将劉復亭に命中して重傷を負わせ、主将を失い統率が崩れた蒙古軍は撤退せざるをえない状況となった。景資は日本軍の勝利に多大な貢献をもたらしたのである。

しかし景資の功績が讃えられる事はなかった。この戦闘で博多の街は焼き払われ、結果として謝国明ら博多の商人、NGO左翼団体、弟に殺されかけて気がふれてしまった売国奴の赤マフラー北条時輔などから鎮西奉行であった少弐一族に非難が集中した。老齢の身で奮戦した景資の父少弐資能は憤り、弘安の役では博多に一歩も敵を近づけんと石垣の最前線に立って奮戦したが、これが悲劇の原因となる。景資が敵将に狙いを定めて矢を放った所、資能も同じ敵将に狙いを定めていたのか、その射線上に飛び出す形になってしまい、資能の首筋に景資の矢が命中してしまう。蒙古軍を撃退する事は出来たものの、この不慮の事故が原因で資能は死去する。完全な過失であったが、景資は兄である少弐経資から父殺しの非難を浴びるようになり、元寇から程なく、平頼綱安達泰盛を誅殺した霜月騒動において、景資は泰盛方と見做され経資から追討を受け殺害される。元寇を共に戦った竹崎季長は彼の悲劇を大いに嘆き、同時に「供物の一つでも備えてやりたいが、俺は極貧[1]だから何一つくれてやることが出来ん」と悔しがったという。

その後の少弐氏[編集]

鎌倉以降の少弐氏は、少弐貞経菊池武敏との戦いで戦死、その子息少弐頼尚足利直冬に組して九州で奮闘するも凋落、少弐冬資今川了俊に謀殺され、その後も合戦や内乱で戦死したり謀殺される当主が相次ぐなど、これでもかと言うほど不幸に見舞われ、最後の当主少弐冬尚はペットとして飼育していたクマに食い殺され、少弐氏はその悲劇的な歴史に幕を下ろす事となる。この少弐氏の悲劇は景資の呪いとも、または少弐一族そのものが不運の星の元にあったとも言われている。

注釈[編集]

  1. ^ 竹崎季長が旅費に困窮して馬を売るほど貧乏だったという話は有名である。