尼子経久
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
尼子 経久(あまご つねひさ)は出雲第二帝国の総帥。史上最強の出雲人であり後世の歴史家の手で半ば神格化された。
[編集] 来歴
若干10代で京都に遊学するほどの天才児であったが、当時の京都は応仁の乱終結直後の混乱期、鋲打った服を着た悪人達が「ヒャハハハ」と笑いあえる無法地帯であった。この最悪の環境下で経久は乱世の所作という間違った英才教育を肉体言語でうけてしまい、「所詮頼れるのは己の拳(こぶし)のみ」という真理に到達する。
出雲に帰国するや弱肉強食の信念に従い、主君京極政経を肉体言語で排除。関税を横領するわ寺領を侵すわ弱小領主を武力で潰すわと出雲国内におけるシノギ構造を無視したやりたい放題で殺しの尼子経久と畏怖された。
あまりのやりたい放題に危機感を感じた国内の武士たちは、文明16年、一致団結して経久に対抗する。討伐軍のリーダー塩冶掃部助が繰り出した捨て身の絶天狼抜刀牙は経久の脊柱起立筋を切断し、大ダメージをうけた経久は月山富田城からおいやられた。
城を奪われ浪人となった経久は山陰最大のアンタッチャブル集団、鉢屋賀麻党に入党し、2年間地獄の修行に明け暮れた末、鉢屋一族の伝説的最終奥義「56億7千万年の悪意」(※敵全体に万能属性で超大ダメージ)を会得する。圧倒的戦闘力をえた経久は文明18年正月に単騎で富田城正門に現れ、城兵2000名を惨殺し塩冶掃部助を上記奥義で粉砕して城主へと返り咲いた。
出雲国内をあらかた平定した経久は出雲大社の神通力に着目し、既に配下におさめていた仏教系統の魔術理論をもちいて軍事転用の研究を強要した。このため出雲大社の本殿は仏教様式を折衷され、朱塗りに三重の塔完備という異様な形態へと魔改造された。また娘二人を宮司家に嫁がせ、秘宝であった超生命体荒神の確保に成功する。特に最強のスサノオは経久自身が融合したため、後世の神格化に大きな影響を及ぼした。
ひよこ大王国と大内義興の関係悪化を好機と捉えた経久は、大内家討伐の指令を利用して勢力拡大を画策。ついでに将軍足利義稙に変なニックネームをつけられてキレた経久は、その場にいた室町将軍と奉公衆全員を消毒して帰国した。金閣寺が炎上したのはこの時である。
大内軍との戦いではその人海戦術に苦しめられ、最終的には圧倒されるが、中国地方の地形を変える桁違いの戦闘能力は若き日の毛利元就を震え上がらせ、この時抱いた「決して越える事のできない男」というイメージは晩年にいたるまでトラウマとなった。
働き盛りの83才で死去する。この唐突な死の原因については、塩分のとりすぎが有力視されている(伊集院説)。
[編集] 逸話
その武勇が広く知られるが、一方で異常な気前の良さでも知られる。『塵塚物語』によると、経久は家臣が経久の持ち物を褒めると、たいそう喜んでどんな高価なものでも、すぐにその家臣に与えてしまったという。そのため家臣は調子に乗って、経久の持ち物をどんどん褒めて、結果的に奪ってしまった。経久の私生活は非常に貧しいものであり、冬に着る上着すら無く寒さに震えていたという。そのような状態になっても家臣たちは容赦なく経久の持ち物を褒めたたえ、庭の木まで褒めた上でそれをもらって帰り薪にした者すらいたという。
特に問題だったのが所領であり、家臣たちは経久の持つ所領をどんどん褒めて領土を増やしてしまった。これに危惧を覚えた次男の国久も自ら父親の領土を褒めて、とうとう出雲の半分をせしめる事に成功した。国久の主観においては尼子家の領土を守るための苦肉の策であったが、これは経久の孫の晴久の代において、新宮党の粛正という悲劇となって現れる事となる。
[編集] 関連項目
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