山岳共和国

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3、2、1、ボンバー!この国は爆破されました。もうこの国は影も形もありません。
この国はもう無いのです。あなたがこの現実をどう受けるかは自由ですが、確か戦友であったこの国に態度だけでも敬意を称してやってください。
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山岳共和国(さんがくきょうわこく、Mountain-republic、1917年-1922年)とは、を愛する人々による部族国家である。

前史[編集]

不法投棄されたゴミ。

北部コーカサス地方の要衝であるチェチェンは険しい山々に囲まれた閉鎖的な土地であり、大小156を越えるテイプ(氏族)がひしめき合う部族社会であった。しかし18世紀になると帝政ロシアの侵略によって征服されてしまい、下級貴族や富裕庶民階級によるお手軽な避暑地[1]と化してしまった。かくして観光地となったチェチェンにやって来るのは品のない成金連中ばかり、カネにあかせた連日のどんちゃん騒ぎやゴミの不法投棄、おまけに氏族の女子どもにちょっかいを出したり……そんな現状に憤りを覚えたイマーム(イスラム教の宗教指導者)の一人、シャミーリ(1797年-1871年)が「我々の山を汚すな!」をスローガンに武装蜂起して30年以上におよぶジハード(聖戦)を展開するも、1864年に北コーカサス全域をロシア軍によって制圧され、シャミーリは逃亡先で病死する。しかし、それでも彼の遺志を継ぐ同志たちによって抵抗活動は続けられたのであった。

独立[編集]

我ら、山を愛す。

そんなチェチェンであったが、1917年に起こったロシア革命のドサクサに紛れて156のテイプが連合して独立を宣言したのがこの山岳共和国であり、ソビエト共産党ロシア帝政復古派をまとめて相手どって再び独立戦争を開始する。

政体[編集]

山岳共和国の行政は156の族長による合議制によって成り立ち、その代表をシャミーリと呼称した。立法についてはシャリーア(イスラーム法)を基本原則とした上での合議制が採られ、司法についてもまた同様に取り扱うものとした。が、これらはすべて同じ族長会議によって一元化されており、三権分立など夢のまた夢どころかさしあたって国家を存続させていくだけで精一杯の状況下でもあるため、たとえ独裁政治と言われても誰も気にしない

内閣メンバーは族長会議の総員であることは言うまでもないが、あまりにピーチクパーチク議論が紛糾してまとまらないため、実質的には議会において仕分け能力を発揮したタパ・チェルモエフ(Tapa Tchermoeff)をシャミーリ(首相)として、その補佐役としてシェイク(Sheikh)、アリ・アークシャ(Khaji Akusha)、ハイダー・バマット(Haidar Bamat)による寡頭政治が行われるようになったのも無理からぬところである。

経済[編集]

基本的に自発的な対外交易を行わず、対外収入はコーカサス地方の南北を行き交う商人からの徴税くらいである。産業はほとんど畜産業(あまり農業に向いた土地ではない)で成り立っており、良質なを産出することで知られている(が、彼らにとって主力な機動力であり兵力ともなる馬を輸出することはほとんどない)。地産地消、自主流通経済によって成り立つ小規模市場の集合体であり、チェチェン人の多くが経済的発展を望んでいない(or望んでいたとしても、その努力がほとんど見られない)ため、成長の可能性は低いと見られている。通貨はルーブルであるが、ルーブルが戦車によって保証されているのはロシア人に限った話であり、チェチェンの山奥では物々交換の方がよほど信用されている。

治安[編集]

のどかな昼下がり。看守の暇つぶしにぶち込まれる者もいる。

山岳地帯の厳しい環境で生きるためには人々は助け合わなくてはならず、人間同士で奪い合ったり殺し合ったりする余裕などない。むしろ狼の方がよほど脅威となっているものの、一部地域においては犯罪も発生しており、それらはすぐに露見する(田舎で隠しごとをするのは難しいのである)ものの、そのほとんどが微罪であるため簡単な裁判を経て懲罰房に叩き込まれるか、その場で処刑[2]されるかのどちらかである。

国防[編集]

志願兵による自主防衛であり、その任に当たることは男の中の男にとって最高の名誉とされていたが、テイプの経済状況や族長の方針によってその装備や手当はまちまちであったため、最高級の駿馬と最新鋭の銃器を支給される兵士がいる一方で、駄馬にまたがり槍しか持っていない兵士もいた。また、テイプごとに地域意識が強いためにそれぞれの連携はあまりとられず(時には内輪もめを起こす事もしばしばあった)、ソビエト軍に各個撃破されてしまうのであった。

併合[編集]

かくして放任自治主義を貫こうとしたために早くも苦境に立たされた山岳共和国に対して1921年、ソ連の民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンの「ソビエト連邦に加盟するのであれば、独立を承認してあげよう」という提案をアッサリ受け入れ、山岳共和国は「ソビエト山岳共和国」と改称した。しかし、ソビエト中央政府から派遣された共産党の民族問題人民委員の干渉によってテイプ各自の経済・軍事地盤を解体され、間もなく「山岳自治ソビエト社会主義共和国」と改称され、これにより独立国家から自治共和国への降格が宣告されたのである。この期に及んでソビエトの陰謀に気づいたテイプ族長たちは中央政府に抗議するもけんもほろろに却下され、1922年にはチェチェン自治州としてソビエトに併合されてしまうのであった。その後も抵抗活動は続けられたものの、1934年には西隣のイングーシ自治州との合併によってチェチェン・イングーシ自治州としてますます自治権を抑圧されてしまう結果となった。

「かくしてソビエトの術中に落ちてしまったチェチェン、一体どうなってしまうのか!?
山岳共和国 について、続きはWebで

脚注[編集]

  1. ^ 上流貴族や皇帝一族であれば、激しい暑さ(摂氏3℃前後)を逃れて遠くシベリアまで避暑に出かけるのが慣習であった。
  2. ^ 罪人の処刑は住民たちの娯楽ともなっており、人気が高いのは新しく打ったの試し斬り(斬首)である。

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 廣瀬陽子『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年7月22日初版

関連項目[編集]