山村暮鳥

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山村 暮鳥(やまむら ぼちょう、1884年 - 1924年)は、明治大正期の詩人。「いちめんのなのはな」の詩(『風景』)ばかり有名である。キリスト教の伝道士であり、その思想に基づいた子供向けの寓話も数多くものしていて、ウィキペディアには詩人と並べて「児童文学者」と書いてあるが、そちらの方は今少しでも読まれているのかはなはだ疑問である。

生涯と作品[編集]

山村暮鳥は群馬県に生まれた。萩原朔太郎と同じである。彼より二年先に生まれ、十八年も早く死んでいることになる。暮鳥というのは他人につけてもらったペンネームで、出生名は「志村八九十(はくじゅう)」、父親の名前が「久」。ふざけた話である。七の次、きりのいい十まで全部くっつけているのでこれでもう子作りは止すつもりだったのかもしれないが、その後続々と兄弟が生まれている。暮らし向きは言うまでもない。両親は出奔、叔母は狂い死にして、暮鳥は祖父の家に預けられたが、後年「親戚のものどもに依って駄馬のように酷使されていた」と述懐している。両親と再会して一緒に住むようになってもそれは変わらず、飛び級になるくらい勉強ができたのに経済的事情で学校をやめて働かざるを得なかった。やがて小学校の臨時職員をしながら夜間学校(仏教の寺)に通えるようになるが、坊さんをぶん殴ってしまい追い出された。こんな生い立ちだから萩原朔太郎のように変なエリート意識に悩まされている暇などなかった。

さて、仏に見捨てられた彼を救ったのはキリスト教であった。教会の夜学で英語を習い、そこで女性宣教師と出会って感化され入信する。「ヒステリックだが親切」だったそうだが、どのくらい親切にしてもらったのだろう。ともかく神学校に入り、そこでの授業で詩に目覚め、懐にボードレールをしのばせたはみ出し伝道師となった。赴任した先々で雑誌に投稿したり、友人と同人誌を立ち上げてすぐつぶしたりしていた彼に転機が訪れる。島崎藤村に目をつけられたのである。実の姪の処女を奪ったこの変態親父は、暮鳥の処女初の詩集『三人の処女』の草稿をちらと見てその題名をいたく気に入った。「ほう、処女?しかも三人。イイネ!」ということで序文を書いてもらえることになり、わりと良い形でデビューすることができた。それにしても、出自がどうこうよりも近親相姦のほうがよっぽど破戒ではありませんかね島崎先生。ちなみに実際の表題作のほうは、

指をつたふてびおろんに流れよる
昼の憂愁、
然り、かくて縺れる昼の憂愁。

で始まる、いい感じにかぶれた詩であるが、ここにとどまらずどんどん変化していったのが山村暮鳥のすごいところである。作風は次第に尖っていき、仲間の朔太郎や室生犀星をたじろがせるほどになる。いちばんキていた時期を代表する一篇をここに紹介する。

『囈語』
竊盜金魚
強盜喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
涜職天鵞絨
姦淫林檎
傷害雲雀
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。

ダダイズムすれすれだがそうではない。めくるめくイメージの羅列。こういうものが、言われてみれば世の中にはあふれている。萩原朔太郎はあまり外の世界を見ないから、彼にはここまで書けなかったかもしれない。素晴らしいことに、ここにはほとんど意味も秩序もないようでいて、読めば確かに浮かんでくるものがある。ほら、「姦淫林檎」ですよ、島崎先生。姦淫林檎。しつこいか。

この時期のを集めたのが第二詩集『聖三稜玻璃』で、先の『囈語』はその巻頭に置かれている。あの「いちめんのなのはな」もこの詩集に収められている。そちらはあえてここには引用しないが、実際に読めば重要なのは「いちめんのなのはな」ではなく、各連に一行だけ(八行目)はさみこまれたそれ以外の言葉によってこの詩全体が冴え渡っているのが分かるはずだ。と、ここまで褒めておいてなんだが、当時は大不評だった。「酔ってんの?聖職者なのに?」などとくそみそな批評を書かれ、全然売れなかった。それに対して、このすぐ後に発表された萩原朔太郎の『月に吠える』は詩壇から大変高く評価された。それでも暮鳥はめげずに詩作や翻訳をやっていたが、仲間と作る雑誌はあっというまにポシャるし、印刷代などの借金が増えるばかりだった。そのうえ、アレな詩を書いているため教会に睨まれ、そのうち病気により休職を余儀なくされて、俸給もすぐ止まってしまった。妻と娘ふたりがいて、このままでは全員死ぬ危機にあった。生活は常に暮鳥をおびやかした。萩原朔太郎と違って幼い頃から苦労をし慣れているので自己憐憫に浸ることはなく、といっても今度は本当に動けないのでどうしようもなかった。

『詩人・山村暮鳥氏』
自分はいまびやうきで
その上ひどいびんぼうで
やみつかれ
やせをとろへて
毎日豚のやうにごろごろと
豚小屋のやうな狭い汚いところで
妻や子どもらといつしよに
ねたりおきたり
(中略)
よるはくさつたくだもののやうだが
さすがにこのしづかさ
自分はいま
戸棚から子どもの蜜柑を一つ盗みだしてきて
あかんぼのおしめを炬燵で干しながら
むさぼるやうにそれを頬張り
皮だけのこして
口髭の汁をぬぐつた
ふかいよるだ
(後略)

最悪である。親が子供の蜜柑を盗って食うほどの窮乏。しかもオムツの横でむさぼり食っているのである。このような夜をいくつも経て、暮鳥はついに決心し、生活のために童話や分かりやすいスタイルの詩を書き始めた。そこにはもう斬新さはない。内容が説教臭くないと言えばうそになる。ただ、文章に無駄がなくて、短い話が多いのは良心的だ。

『泥棒』
 泥棒が監獄をやぶつて逃げました。月の光をたよりにして、山の山の山奥の、やつと深い谿間にかくれました。普通大抵の骨折りではありませんでした。そこで綿のやうに疲勞れて眠りにつきました。草を敷き、石を枕にして、そしてぐつすりと。
 朝。
 神樣がそれを御覧になりました。これは、なんといふ瘻れた寢顏だらう。
 「おお、わが子よ」と仰せられて、人間どもの知らない聖い尊いなみだをほろりと落されました。
 それをみてゐた朝起きのひたきも、おもはず貰ひ泣きをいたしました。

これこそキリスト教のいちばん良いところではないか。こういうのをさらりと書ける人がキリスト者でなくてなんだというのだろうか。

それでも日本聖公会から給料は出ないし、病気は治らないし、稼ぎは少ないし、詩人仲間が彼のために作った救済組織は一年もたなかった。さすがは詩人である。

そして暮鳥は開き直った。貧しくとも幻想の世界に逃避することなく、生活を正面から見据え、なおかつ超然と生きようとした。さすがは詩人である。

かうもりが一本
地べたにつき刺されて
たつてゐる
だあれもゐない
どこかで
雲雀ひばりが鳴いてゐる
ほんとにだれもゐないのか
首を廻してみると
ゐた、ゐた
いいところをみつけたもんだな
すぐ土手下の
あの新緑の
こんもりした灌木のかげだよ
ぐるりと尻をまくつて
しやがんで
こつちをみてゐる

題名は『野糞先生』。そんなものを見据えないでほしい、お互いに。

『あるとき』(連作のひとつ)
うつとりと
野糞をたれながら
みるともなしに
ながめる青空の深いこと
なんにもおもはず
粟畑のおくにしやがんでごらん
まつぴるまだが
五日頃の月がでてゐる
ぴぴぴ ぴぴ
ぴぴぴぴ
ぴぴぴぴ
どこかに鶉がゐるな

もちろん自分でもする。

 
『読經』
くさつぱらで
野良犬に
自分は法華經をよんできかせた
蜻蛉もぢつときいてゐた
だが犬めは
つまらないのか、感じたのか
尻尾もふつてはみせないで
そしてふらりと
どこへともなくいつてしまつた

これに至っては、もう、何をしているんだ。お前キリスト教徒じゃなかったのか。法華経ってなんだ。犬も食わない田舎の不審者じゃないか。キリスト教もダメだったか。『ガリバー旅行記』の最後みたいに馬しか信じられなくなったか。完全に気が狂ってしまったのか。

『馬』
たつぷりと
水をたたへた
田んぼだ
代かき馬がたのくろで
げんげの花をたべてゐる
 おなじく
馬が水にたつてゐる
馬が水をながめてゐる
馬の顏がうつつてゐる
 おなじく
だあれもゐない
馬が
水の匂ひを
かいでゐる

おーい!戻ってこーい!

山村暮鳥は1924年に貧窮の中亡くなった。先に引用した四篇が収められた最後の詩集『雲』は死の翌年に出版された。そして今、彼が遺した「いちめんのなのはな」や、後期の「空が、雲が、お花がきれい」「子供がかわいい」「働く人は美しい」といった平明な内容の詩が、金子みすゞの詩などと並べられて、ものごとの上澄みだけを摂取する人々によってかろうじて読まれている。

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