岡田彰布
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ 岡田彰布 について、デイリースポーツ
~ 岡田彰布 について、原辰徳
岡田 彰布(どんでん、1957年11月25日 - )は、兵庫県に本拠を持つ阪神タイガースの2004年から2008年までの一軍監督である。もとは二軍監督、その前は同球団の選手、更にさかのぼれば阪神ファンと、筋金入りの阪神色人物である。
職業は阪神タイガースの監督や、巨人・竜退治、便所掃除、報復予告など。
また、自分が入学した大学の後輩をどんなに成績が芳しく無くても1番打者として使い続ける、いわゆる学閥野球推進派でもある。
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[編集] 人物
- 言わずと知られた、首振り野郎。試合中ベンチにいる時はブンブン首を振りまくる。
- あだ名だが、ある人曰く「藤山クン」。←藤山寛美に似てるからだってさ。
- 現役時代のあだ名は禁則事項です。
- ニューハーフと禁則事項ですしてるところを週刊誌に撮られて、一度オリックスに左遷された。
ちなみに、審判に文句を付け退場処分になったのは生涯で2度目だそうだ。しかも同じ年に2回で、これは阪神の監督として初めてのことで、セリーグ日本人監督としても初めてのことのようだ。
試合中の点が入ったときや、相手がエラーした時の喜びようはスタンドのおっさんと変わりない。また幼少時代、阪神の優勝パレードの車に乗せられた事から、基本的には阪神ファンが阪神の選手になり、阪神の監督になれただけであるという事が判明。最も幸せな阪神ファンと断定して良い。
[編集] どんでん と阪神タイガース
[編集] タイガースとの出会い
黄色いバカ騒ぎお祭り騒ぎを楽しむ集団が ひしめく大阪府に生まれた どんでん少年は、当たり前のようにお祭り騒ぎに染められて育った。しかも、父親からの影響もあって、その色は濃くなった。
1962年、ご贔屓の阪神タイガースが2リーグ分裂後としては初の優勝を飾ると、10月5日にはパレードが催され、ユニフォーム姿の選手たちがシボレーのオープンカーに分乗し、喝采を浴びた。
ところが、その先頭車両に当時4歳くらいの アホまる出しの どんでん少年が乗っていたというのだ。
信じられない幸運である。
[編集] 憧れから一員へ
北陽高校では1年からベンチ入りメンバーに選出され、甲子園へも出場したという。
だが高校時代よりも、リーグ三冠王を獲得しちゃったバカ田大学の隣に在る大学での活躍の方が注目され過ぎて、6球団からの1位指名を受けた1979年のドラフトは過熱化してしまう。それでも どんでんは、思い描いていた阪神からの指名を受け、晴れて入団する事が出来た。
ルーキーイヤーの1980年、出番の無かった どんでん観たさに、お祭り集団が暴れちゃったんで、早々と監督が交替。おかげで育成方針まで変わってしまった為、出場機会が突然激増。最終的には18本塁打を放って新人王に輝いた。
着実にプロ選手としての歩みを進める どんでんに試練が訪れたのは、4年目のこと。
2塁手として出場していたが、2ゴロ処理の際 「公開股裂き処刑」を味わって、1983年の残り試合を棒に振ったのである。
翌1984年には回復するも、お気楽芸人・ミッキーの躍進に伴う内野陣の大変革と、足の状態を案じる 当時の安藤統夫監督の配慮もあって外野手としての出場が多くなった。なお、この年限りで退任となった安藤に替わって、あのムッシュが監督に再就任した。
[編集] 奇跡の年・1985
新監督のムッシュによって、再び2塁手として呼び戻された。
ムッシュとは、現在においても並ぶ者の無い「タイガース史上最高の内野手」である。ただ尊敬に値するだけでなく、どんでんにしてみれば幼き頃のパレードで、万来の喝采を中心で浴び続けたという正真正銘のスーパースターに他ならない。そのムッシュによる内野再起用に奮起したのか、この年を生涯最高成績で駆け抜けた。
4月17日、この年を象徴する神事・「バックスクリーン3連発」ではオクラホマから降臨した現人神に始まった禰宜職の3人目を見事に務め上げ、黄色いお祭り集団をアタマのネジが吹っ飛んでしまうほどの熱狂に巻き込んだ。
8月の月間MVP、9月の2試合連続サヨナラ打など、ラストスパートへの苦しみに耐え続けるチームを救うと、最終的には打率.342、35本塁打、101打点の成績を叩き出した。どんでん達による驚異的打撃の産物である球団記録219本塁打などの為に、「ダイナマイト打線」という懐かしい球団の古称も復活。チームは 21年ぶりのリーグ優勝、そして球団初の日本一に昇り詰めた。
なお、有頂天のまま留まるところを知らない お祭り集団の騒ぎはウッカリ、禁忌を犯した為に、チームはジワジワと厄災に見舞われていく。
[編集] 暗黒の入り口・1987
バチ当たりな厄災の効果が、この1987年から顕著に現れた。
前年の骨折が祟った掛布雅之の不調に合わせて、どんでん自身も不振に陥った。現人神の孤軍奮闘では勝利もままならず、チームは崩壊。勝率.331、首位とのゲーム差37.5というドン底を、日本一の栄冠からわずか2年で味わった。
しかも、ドン底はこの期5年にも亘るという、恐ろしい時代に突入したのである。
[編集] 選手としての衰退期・晩年
1988年限りで掛布が引退。現人神もオクラホマへ去ってしまった。
そこで、バカ田大学時代の3塁へコンバートされ、チームの沈没を食い止めようと勇んだものの 無駄な努力、報われなかった。
1991年、プロ12シーズン目を迎えたこの年を境に、急激な衰えを見せた どんでん。試合出場の機会を若手に譲るケースが目立ち始めた。
翌1992年、怖いもの知らずの若手が台頭。先発陣の粘投でチャンスを待ち、中軸を担う助っ人外人の一打で辛うじて勝ちを拾うというチームには「優勝しちゃうかも旋風」が吹き込んだ[1]為、ふて腐れていた黄色いお祭り集団も久々に活気付いた。
若手と助っ人の活躍によって、どんでんのようなベテランの起用は、代打に限られていった。しかし、盛り上がるチームの機運とは対照的に、大縄跳びに入れないドン臭い子供のような打率.189、2本塁打の成績でシーズンを終えた。
チームも10月10日からの、ツンデレのジジイに率いられた神宮に居座る、ふにんきのツバメ球団との直接対決2連戦での初日で、容易くボッコボコの公開処刑に晒された為、バンザ~イ・・・、無しよ!で呆気なく終わっちゃった。
翌年も振るわず、阪神を退団。涙ボロボロでオリックスに売られていった。仔牛のように・・・。
オリックス在籍の2年間でも成績は上向かず、どんでんの現役生活は1995年限りで、線香花火のように消えちゃった。
[編集] 指導者として阪神に返り咲く
[編集] コーチとしての どんでん
1998年、オリックスでの指導力が評判を呼んだのか、再び阪神のユニフォームを着る。役割は、打撃コーチも兼任する2軍の助監督である。しかも翌年からは監督に昇格ときた。
トントン拍子で出世した上に、1軍監督のツンデレジジイも2001年に失脚。ぼた餅が落ちてくるところだった。
ところが、である。
名古屋の味噌カツ球団を厄介払いされた鉄拳の恫喝悪魔が阪神に転がり込んで、居候を決め込んだ。何でやねんっ!!
仕方ないので もう1年だけ、2軍監督を続ける羽目になる。
2003年、鉄拳にも人の心が残っていたのか、罪悪感を持っていたのだろう。どんでんを3塁コーチャーに起用した。
この年は お祭りの年で、グルグル手を回すどんでんの仕事は忙しさを増していた。とても楽しい1年を過ごすと、オフにはグルグルの御褒美として鉄拳から監督の座を譲られた。
[編集] 監督としての どんでん
[編集] 二軍監督時代
ヘッポコな一軍とは対照的に2000年当時、世界最強の二軍であった、阪神タイガースの2軍監督として、2000-2002年の3年間で無意味なのに2回も日本一になった。ちなみに、どんでんを2軍監督に抜擢したのはムッシュであり、ツンデレジジイである。鉄拳の星野は、どんでんの順番に横入りをしたに過ぎない。
でも、さすがに悪いと思って1軍へ、どんでんを2003年に召還している。
つまり、ムッシュもツンデレもさせなかった1軍・2軍の両方を経験させたという、本当の意味で星野が育てたのは、もしかしたら どんでんのみかもしれない。
[編集] 一軍監督時代
5シーズンを戦い抜いた内、4シーズンで優勝争いに絡んだ どんでん。
もっとも就任直後から、阪神タイガースファン的には微妙な評価をすでに受けていた模様(←俺の周りでは手放しで歓迎するやつは誰もいなかった)。
監督としての采配は、一旦打順とローテーション、中継ぎ、抑えを決めたら特に何もしない、左右病オーダー、がデフォルトである。選手の調子が見ていていい加減にせんかい!と言うほど悪くならないと絶対に取り替えない。それで選手から信頼はされているんだろうが、ファンからすれば情けない敗戦を重ねた2007年度の前半戦は、毎日「岡田やめろ!」の大合唱であった。
[編集] 2005年
就任2年目の、この年にはシーズン中盤から首位を堅持するも、味噌カツ球団からの猛追を許すほど窮地に立たされる。しかし、直接対決の大一番での競り勝ちが決定打となって、セリーグ制覇(87勝54敗5分、2位の味噌カツに10ゲーム差をつける)を果たした。
底力を見せ付けたシーズン終盤での戦いぶり、そのままのスタイルで勝ち抜く事を期待された日本選手権シリーズではあったが、フタを開けてみれば、4試合で4点しか挙げられなかったのに対し、第3戦まで毎試合10点を奪われた、という呆れるほどの大炎上ショーを展開した。終わってみれば『チーム打率.190、チーム防御率8.63』というシリーズ汚点成績で、それまでのワーストをあっさりと更新。出番の無くなったコバマサが唖然とするほどであったという。
[編集] 2006年
『日本シリーズ打てない病』が癒えないのか?というくらい、得点が前年より130も下回る貧打に蝕ばまれていたチーム。それでいて84勝58敗4分という、前年に匹敵するほどの好戦績を挙げている。でも、3.5ゲーム差の2位に甘んじた。
よくやった、とも言えそうだが、内実は『圧勝を接戦にまで、もつれさせた』・『競り合いを無策で落とした』などなどであり、拙攻の数々を見せつけている。そのため、「もっと勝てただろう(怒)」というのが多くの黄色いお祭り集団の正直な想いである。その数例を以下に挙げる。
- 5月28日、所沢でのチャラ男がいるけど、全体的に地味なチーム戦。4-4同点の8回表、1死1・3塁での打者フジモンキー。
スクイズと見せかけ、チョロチョロさせてる間にカウントを悪くし、結局三振。次打者の、逆転弾を放っていたシェーン・スペンサーへの代打、桧山進次郎も空振り三振で逸機。9・10回でも2死から走者を出しながら三振逸機。延長10回ウラに、とうとう久保田智之が打たれて4-5のサヨナラ負け。挙句に翌朝の1部スポ紙には、どんでん発言が載る。『藤本のアホ』と。責任転嫁か? - 6月7日、札幌ドームでの北の果て球団戦。満塁4度を含む17残塁(球団記録は18残塁)、2-3で惜敗。先発の杉山直久を完投の見殺し。ちなみに前日はいなかっぺが完投負け。
- 翌週6月14日、仙台での老齢者再雇用促進施設を兼ねる野球チーム戦。延長10回表、1死満塁から今岡誠の併殺崩れ、桧山のハーフスイング内野安打で3-1の辛勝。ただし延長とはいえ、12四死球をもらいながら、前週を上回る19残塁。
だがそれより何よりも、9月16日にラジコンおじさんから食らったノーヒット・ノーラン敗戦に象徴されるナゴヤでの味噌カツ戦10連敗が、優勝の望みを断ち切ったのである。
[編集] 2007年
前述のとおり、2007年度は前半戦から主力選手の故障、大不振などで大変な苦戦を強いられてきたが、JFKの神懸り的な大活躍と若手選手、二軍で飼い殺し状態だったベテラン選手の起用がズバズバ当たりまくり、首位から12ゲーム差をひっくり返して優勝する勢いだった。ところが、先発をすぐに降ろしてJFKにつないできたツケが回ってきたのか、10連勝後にJFKそれぞれのリリーフ失敗が相次ぎ、さらに前半戦の打てない打線に逆戻りしてしまい8連敗を喫し、最終的に3位でシーズンを終えた。
そして迎えた公式戦2位の中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ第1ステージは、いつもどおりの野球をして、いつもどおり負けた(球児を召喚することなく負けてしまった)。ここで2勝すれば次にいけるのに、普通の野球をしているところが監督としてどんでんが一皮むけない原因である。
なお、どんでんは現役時代でもなかった退場を、この年に やらかしている。
- 1回目の退場は2007年6月8日の交流戦・対オリックス・バファローズ3回戦(甲子園)で、お稚児さんがバントしたときに、オリックスの捕手の日高剛が走ろうとする鳥ちゃんに突撃したことが、鳥ちゃんの守備妨害になったことに激怒、現役、コーチ、監督通じて初めての退場を食らった。
- 2回目の退場は同年8月16日の中日ドラゴンズ戦(京セラドーム大阪)で、またしても鳥谷さんの打席。セカンドゴロを放った際、どう見てもベースカバー井端が間に合っていないのに、一塁走者がフォースアウトになった事に腹を立て、ベンチから飛び出し2塁塁審に向かい禁則事項ですと暴言を吐いた。
- 本来なら包丁でバッサリ捌きたいところだが、2塁塁審は優しいので退場処分だけで済ませてあげたらしい。新種の虎とは言え、虎はもうちょっと厳しくしてやってもいいのではないだろうか。
[編集] 2008年
前年の反省(もしかしたら、退場反省のみ?)からか、2008年は天敵や味噌カツのチームなどの不調を尻目に、序盤から快調にすっ飛ばすチームをつくりあげると、7月には優勝マジックを点灯させる。これはさすがに、星野仙一の2003年と同じ劇的な大差優勝を達成する、と思われた。
ところが、どんでんに匹敵する顔芸の達人が率いる巨人による驚異的なドン底からの伸びに対して、阪神はここから大炎上してしまう。それでも、ゲーム差をジワジワと縮められながらもマジックを7回も点滅させ、逃げ切り優勝を目前にまで手繰り寄せた。とは言え、投手陣の踏ん張りを打線が見殺したり、しおれた打線が奮起しても疲労を溜めた投手陣が吐き出すなどチグハグな凡戦を重ね、黒星を積み上げ続けた。極めつけは、終盤における巨人との直接対決で7連敗。最終的には13ゲーム差をヒックリ返される劇的な敗戦大将として名前を残すことになってしまった。
この汚名をズッポリ被っただけでは終わらないのが、この年のどんでん。
公式戦2位なのに、それもかなりゲーム差を空けたはずの3位の中日にクライマックスシリーズで敗北。それでいて試合終了後には、記録的敗北を喫した監督が敗戦で胴上げされるという、この年の阪神を象徴するどんでん返しを最後に演じて阪神を去った。
いくら通称がどんでんとは言え、こんな結末は無いだろう(怒)
[編集] オリックス監督時代
2009年から、それまでの魔法が解けたように、単なる阪神ファンに戻った。ところが、この秋にはオリックス監督に招聘された。
早くも秋季キャンプから現場に復帰。
など、来季に向けた意欲を見せている。でも、監督が後から入団しといて、選手の名前を変えさせるくらいなら監督の登録名を始めから『どんでん』にしとけば良いじゃないか!!というのは禁則事項です。
その一方で、フジモンキーのFAや今岡誠の移籍先未定問題など古巣に関する話題へのコメントを求められても、『今岡さらしもの発言』で遠慮なく応じている。おかげで阪神の坂井オーナーが「今岡に悪いことした」と、後日に謝罪コメントを発表するほど問題を膨らませている。
[編集] 検証・どんでんが育てた選手
なお、前監督の遺産を最大限に活用して、胡坐をかいていると言う意見もあるだろうが、そもそも現在生え抜きで活躍している選手は二軍のコーチ・監督時代に自分が育てた選手がほとんどなので、そこは褒めても差し支えは無いだろう。
とまぁ頭がちょっとアレな、どんでん信者にはそう思われているが、実際はどうなのだろうか。
- CS最終戦のスタメンを元に何人育てた選手がいるのかカウントしてみよう。1試合とはいえスターティングメンバーは年間通してほぼ固定されており野口⇒矢野になるぐらいなので大きな問題はないだろう。(←いや、ある一日のスタメンだけ出されても…)[要出典]
- 1(遊)鳥谷敬…育てたも何も、入団前からスタメン確約。サルなんてポイ捨て。
- 2(中)赤星憲広…どう見ても育てたのはツンデレ爺さんです、ルーキーからずっと1軍定着。
- 3(一)シーツ…鯉のものは虎のもの、その2。サヨナラアンディ。
- 4(左)金本知憲…鯉のものは虎のもの、その1。
- 5(三)今岡誠…ツンデレ爺さんに嫌われたものの、基本的に1軍レギュラー選手。
- 6(右)林威助…2004年入団。よって育てたのは木戸。
- 7(捕)野口寿浩…ハムからの借り物。さらにもっと元を辿ればこの人を育てたのもツンデレ爺さん
- 8(二)関本健太郎…このメンバーでは唯一2軍監督時代に育てたといってもいいだろう。
- 9(投)上園啓史…新人。育てましたね1軍で。
- ここ数年、上位打線は固定されており2軍監督時に育てたといえるのは関本ぐらいであるといえる。今年1軍で活躍メンバーで該当年に2軍にいたのは狩野、浜中、藤本、桜井、藤川ぐらいである。しかし、藤本、浜中はこの頃にはすでに1軍に昇格しており、2軍の選手かというと微妙なところである。(藤本は入団前から縁が深いが、その辺はウィキペディアで)そして桜井は高卒ルーキー1年目のみ2軍監督であり、林同様、後任の木戸が育てたと考えても問題ないだろう。藤川は劇的に成長したのは2004年以降のことである。
ってか2軍監督時代に一体誰を育てたの?
[編集] 脚注
- ↑ この1992年シーズンは、最終的には最下位までが9ゲーム差、5割越えの4チームに優勝の望みがあったという大混戦。中でも唯一、防御率3点未満の安定感を強みとしていたのが阪神で、一時はホントに優勝できそうだった。
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
- 甲子園
- プロ野球
- 阪神タイガース
- 中村負広(バカ大の先輩。こいつにオリックスへ放出された。)
- 野村克也(2軍監督時の1軍監督)
- 星野仙一(1軍コーチ時の1軍監督)
- 原辰徳(同年代の選手→監督で一球団一筋。どんでんと違って他球団のユニフォームを着ていない)
- ランディ・バース(85年の優勝を共に演出)
- 掛布雅之(同上)
- 真弓昭信(同上。ついでに言うと岡田の後継監督)
- 桧山進次郎(チームの後輩。どんでんのお気に入り)
- 坂田利夫(どんでんにとって真の相方)
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