島津忠恒
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ 島津忠恒 について、島津義弘
~ 島津忠恒 について、島津亀寿
島津 忠恒(しまづ ただつね、 1576年 - 1638年)は、薩摩国の戦国武将。島津義弘の三男。後年、島津家久と改名するが、同じ名前の叔父が居て大変紛らわしいので「悪い家久」「DQNな方の家久」とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
島津義久の弟、島津義弘の三男として生誕。幼名は米菊丸。長兄は早世していたが次兄の久保が家督を継ぐと決まっていた為、完全に精神がたるんでおり若い頃から酒と蹴鞠と和歌に明け暮れる毎日を送る。
剣術にも興味を示し、丸目タイ舎流を通信教育で学び「丸目タイ舎流2級」までは昇級する。しかし、多趣味であるが故に飽きっぽい性格でありそれ以降は昇級に全くやる気を見せる事は無かった。
忠恒がそんな生活を送る一方である出来事が起こる。当主である義久には子が娘しか居なかったので、義弘の息子を婿に迎えてそれを跡継ぎにする事になり義久の三女、亀寿と久保の婚姻が結ばれる事になったのである。
それでも兄の話なので、我関せずとばかりに蹴鞠三昧の毎日を送り続けていたが、その兄である久保はわずか2年で病死してしまう。更に豊臣秀吉が後継者問題に口出しし、忠恒を後継者に指名して来たのである。まさに島津家始まって以来の危機が迫っていた・・・
[編集] 覚醒編
しかし、家督相続には条件があった。島津義久の嫡女である亀寿、すなわち兄のお下がりと結婚する事である。これには凄まじい抵抗をしたが義久と義弘に怒鳴られ渋々これを受け入れる。
当初は器量を心配されていた忠恒であったが、家督相続で多少は責任感が芽生えたのか真面目に取り組み、政務に関しては才覚を見せ始めた。
また、義弘と共に出兵した慶長の役では8000の兵で数十万とも言われる明軍を打ち破るなど武勇を見せつけ多少は家中での評価も変わりつつ・・・あったかもしれないが、実は基本的にDQNな部分は何ら変わっていなかった。
朝鮮でも「蹴鞠を蹴りたい!」と駄々をこねて戦が無い日は蹴鞠に明け暮れ、遂に半島側の記録に「しまづのわかとのというのがぱかなおかげでこっちにはドンドン逃亡者がやってきて勝手に捕虜が増えるニダ」<丶`∀´>などと記録に残されてしまうという歴史に残る屈辱的扱いを受ける。
ただ、以前のうつけ丸出しの姿は少しづつなりを潜め始めており、秀吉死後は早い段階で徳川家康に接触するなど政治的に大局を見据える事には長けた一面を見せ始めていた。
[編集] 庄内の乱編
家康とお近づきになろうと企んでいた忠恒であったが、それには豊臣と懇意であった重臣の伊集院忠棟が大変邪魔であった。そこで忠恒は適当な理由を作って京都伏見の島津屋敷に伊集院を招待する。
主君の御前という事で刀を置いて礼をする忠棟。すると忠恒は「突然だが伊集院よ、『死合い』をしようではないか。」と言い放った。何事かと忠棟が顔を上げると忠恒の腰の太刀から銀色の閃光が煌いているではないか。驚いた忠棟だがその瞬間にはもう斬られていた。要するに丸腰の相手に不意打ちを食らわせたのである。
これにブチ切れたのが忠棟の息子の伊集院忠真である。「おのれ、島津め!」とばかりに居城に立てこもり公然と反旗を翻し、徹底抗戦の構えを見せた。ここまでは忠恒の狙い通りであり、すぐさま3万の鎮圧軍を率いて伊集院を攻める・・・しかし城が落ちない。見かねた義久までが出撃するがそれでも落ちない。逆に島津側に多数の死傷者が出るなど散々な目に合わされる有様であった。
そこでネチネチと兵糧攻めを食らわせながら、降伏の使者をしつこく派遣するといういやらしい戦法に切り替え、「降伏すれば今までどおりの待遇を約束します☆」という胡散臭い条件付で降伏させ、この反乱を鎮圧する。降伏まで9ヶ月を要する大規模な反乱であった。
[編集] 関ヶ原編
しかし、この反乱が終わった半年後にまた大事件が起こる。関ヶ原の戦いである。当時、京都には義弘が居たが家康支持をしようと思って鳥居元忠の援軍に来たら「いや、聞いてないから。帰って。」と言われそうこうしている内に石田三成の軍勢に囲まれていたのでやむなく西軍に参加する事に。
義弘は「西軍に付くから援軍出して」と要求するが忠恒は「いやいや、予定と違うから。本当マジで有り得ない。何やってんの?人っ子一人派兵しねぇから。」と言って完全無視を貫く。しかし、義弘には人望があったので勝手に島津豊久ら1000人くらいが援軍に向かってしまったのである。
で、かの有名な敵中突破をやって義弘が帰還すると「チッ、やっぱり家康殿に付くのが正解じゃんよ。何で生きて帰って来た訳?言い訳どうすんだっつーの。」と心の中で毒づいたという。その後、薩摩は討伐軍に囲まれるなど相当ヤバイ状況であったが取り合えず義弘が謝罪をした事により討伐軍が去ると家康との交渉役として働く事となる。
[編集] vs家康編
さっさと和平したかった忠恒だが、義久の「外交では先に折れた方が負け」という方針を受けて「全ての元凶は親父を城に入れなかった頑固ジジイ、鳥居元忠。鳥居はアホ。」、「石田を支持したのは父義弘の独断。本家的には徳川支持。」、「一人も援軍は出してない。豊久とかが勝手に出てっただけ。」と色々な方面に責任を擦り付ける超理論で家康との交渉でも一切折れずに実に2年間も言い訳し続けた。
ゲンナリした家康は「もう60万石安堵でもいいよ・・・」というと忠恒は態度を豹変させて貢物を持って家康の元に現れるとジャンピング土下座をかますなど突然、腰の低い態度を取り始めたという。とにかくこれによって島津家の領地には手が付かなかった。
ホッと一安心した忠恒は伊集院忠真を鷹狩に誘い早速、暗殺する。実は忠真は妹婿だけどそんな事は忠恒には一切関係ないのである。理由は「手が滑って鉄砲が当たった。」と言い張った。また忠真の弟も何者かに槍で突き殺されたが「手が滑って槍が彼を刺してしまった。悲しい事故。」と言い張った。更に生き残っていた忠棟の母や幼い兄弟も暗殺されていたがそれも「手が滑って毒が茶に混じった。誠に遺憾。」とごまかし抜いた。
[編集] 島津家中三国時代編
1606年に島津忠恒から島津家久へと改名。(以降家久)関ヶ原も去り世間では戦国の空気も薄れつつあったが、薩摩は時空が逆流し三国時代が到来していた。義久派・義弘派・家久派の三つ巴の険悪な空気が漂う薩摩には、かつて島津四兄弟が協力し合って築いた国の姿はもう無い。
やはり2人の偉大な男達の影響力は家督相続後も絶大で有り、勢力的には義久4:義弘4:家久2ぐらいの比率であったという。家久はこの状況が不満であったがそれを表面に出さず、蹴鞠などに興じながら静かに日々を送っていた。
しかし、1611年に義久が死ぬと勢力図に変化が起こる。今まで大人しくしていた家久は邪魔な義久派の老臣を殺し、残りを裏工作で手なずけて義久派を壊滅させて家中最大勢力へとのし上がったのである。また、同時に義久の娘であった亀寿とも清々したとばかりに別居した。
この頃になると義弘の忠告も全く聞かなくなり遂に島津家は家久の思うがままになっていく。
[編集] 三国統一編
もう家久は止められない。亀寿への仕送りを完全カットし「早く死ね」と言わんばかりの対応をすると大量に側室を囲い検閲により削除やアーン♥ ♥三昧の日々を送り、亀寿との間にはちっとも生まれなかった子供を量産すると、それを重臣の嫁や養子に次々と押し付けて行く。
40代に差し掛かっていた家久であったがその性欲は底なしであり、側室は次々と身篭り次々と子供が産まれたのでとにかくその子供を使って義弘派っぽい人物の子の嫁などに押し付けて義弘派も切り崩しに掛かっていった。時には既婚者を無理やり離婚させてまで、強引にねじ込んだりしたが家久を恐れて誰も文句は言えなかったのである。
ボケ始めた義弘の事は完全にほったらかしで工作に勤しみ続け、義弘が死ぬ頃には重臣の縁者には殆ど必ずと言っていい程に自分の孫や外孫が混じっており、遂に島津家中の不穏な空気は一切無くなった。
家久派が薩摩の天下を取ったのである。色んな意味で島津家は遂に「一つ」になった。
[編集] 晩年編
平穏が訪れた薩摩に安堵した家久は、やはり幼少より好きだった蹴鞠や和歌に興じたり、江戸へと呼ばれ茶会に出たりしながらゆったり雅に余生を過ごした。
立地が悪く、白蟻が大量発生してミシミシと悲鳴を上げる鹿児島城と、同じく財政赤字で別の意味で悲鳴を上げる島津家の経済を見ても終始、「そろそろ死ぬので我関せず」と穏やかな笑顔を絶やさなかったという。
そして、大量に生まれた孫や、更に鼠算式に増えた曾孫達に囲まれながら薩摩の安泰を確信しつつ、ひっそりと波乱の生涯を終えたのである。享年63歳。また、気に入った人間には比較的優しかったらしく、家久の後を追って9人の殉死者が出た。
[編集] 人物
- 上記の事項はほぼノンフィクションである。彼の人生はそれだけ嘘を加える余地も無いくらいに濃かったと言えよう。
- 馬鹿ではあるが悪い知恵は大変良く働くもっともタチの悪いタイプのDQNであり、多くの人物の人生を奈落の底へ叩き込んだ。
- 間違いなく、島津家が減封されなかった立役者の一人なのだが彼について触れられる事は殆ど無い。むしろ意図的に避けられている。自業自得か。
- 義弘から手紙で「アレ」呼ばわりされる。
- 義久、義弘との仲は最低最悪であった。また正室の亀寿との仲も最低最悪である。家族愛?読めません by忠恒。
- 幕府にハーレム公認の許しを貰うときに「うちの家内もいいかげんババアなので勃つモノも勃ちませぬ。」とほざいた。
- 41歳から子作りを始めたという遅咲きの男だが、そこからが凄まじく死ぬまでの22年間で男女合わせて33人もの子供を残した。よほど溜まっていたのだろう。
- 人情に厚い薩摩隼人のイメージを根本から覆す冷徹・薄情・時に卑怯なリアリストであり、関ヶ原の時は本気で義弘を見捨てていた。
- 自分の意にそぐわない重臣を次々と適当な理由で始末したり、時には罪無き部下に理由無く斬りかかったり上意討ちを命じたりと色々と人格的に欠陥があった模様。
- 後年、DQN四天王「南の忠恒」という全く有り難くない異名を付けられる。彼の精神的に後味の悪い、胸焼けのするような出来事だらけの人生を知れば選出も納得である。
[編集] 島津亀寿の憂鬱
忠恒に関わったのが運の尽き。祟神にでもなってもおかしくなさそうな程に死んでも報われない女性である。
- ①前夫・久保との夫婦仲は円満だったが突然の病死。全く歓迎されていない忠恒へと嫁ぐ羽目に。
- ②結婚後も冷遇。子は一人も無く冷え切った夫婦関係。
- ③義久死後に追放・軟禁。正室なのに。
- ④追放後に仕送りカット。毎日の食事にも不自由するような惨めな立場に追い込まれる。あまりに哀れなので義弘が家臣に対策を命じる。
- ⑤ハーレムを作った家久(悪)から次々に届く「またまた子供生まれました^^v」などの報告で精神的にも土俵際に追い込まれる。
- ⑥義弘が死に、いよいよ生活苦に。もはや囚人扱い。
- ⑦「島津家の重宝はアレには渡さないで下さい!必ず又三郎(家久の長男)殿に渡して下さい!」と泣きつきながら死ぬ。
- ⑧死後に「あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな」という酷い一首を送られる。意訳するとこう[1]
- ⑨墓を建ててもらえない。正室なのに。現在の墓は、亀寿の祟りを恐れた⑦の又三郎こと島津光久が建てたものである。
- ⑩後世の人間にブス扱いされ、それにちなんだ風習が現在でも鹿児島県に残る。
[編集] 関連項目
- 薩摩藩8代藩主。江戸末期を代表するDQNの中のDQNで、この人の我侭で無駄な血が多く流れた。その上毛利元就並の絶倫。しかし、戦国時代の人物ではないため、戦国オタク達の関心が向けられる事はない。篤姫の親父。
[編集] 脚注
- ↑ 亀寿は10月にこの世を去ってしまった。妻の死に袖も絞れるほどに泣いてる…というのは嘘に決まってんだろw m9(^Д^)プギャーーーッ
