平和勝次とダークホース論

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平和勝次とダークホース論(へいわかつじ - ろん)略してHKDH論とは、筋金入りのおっさんか、もしくはそれ以上の年齢の人々が、ほろ酔いと言葉に出来ない生き様をタバコの煙にたくす場所、そんなわびしい酒場における、一種独特な空気に思いをはせて、過ぎた時代をアアコリャコリャと語るための評論である。と同時に、少しずつ少しずつ自分が生きてきた時代が忘れられていくことを嘆くぼやきのことである。なお、ここで取り上げた平和勝次とダークホースについては、ウィキペディアを参照のこと。あわせて、この記事は場末の酒場で無学の肉体労働者やうだつのあがらぬサラリーマンたちが展開する、あの時代への羨望の想いと少々のわびさびを含んだ愚痴のようなものであり、少なくとも30歳以下の人間が考える俗な芸能論とは何の関係もない。

概要[編集]

今や多くの人間が忘れ去った日本のコミックバンド、1971年のデビューから一気にスターダムにのし上がった後、いつの間にか一部地域の人々の記憶にしか残らなくなった大阪ムード歌謡の重鎮、平和勝次とダークホース。けれど、その面影は、デビュー直後に吹き込んだ「宗右衛門町ブルース」が今でも関西に根強く歌われているように、そこかしこに残っている。

もっとも、200万枚という大ヒットである以上、残らないわけはないのだけれど。

当時、決して東京文化に染まらない大阪の風俗が東京はおろか、全国津々浦々に広がったことを喜んだ記憶のある、関西出身のおじ様、もしくはおば様がたは多い。しかし不運に不運が重なった結果、70年代を代表する大ヒットを記録してもなお1972年と1973年のNHK紅白歌合戦に出場ならなかったこともまた、大阪人たちの心に深く刻まれている。

こうした悲劇は、それまで寄席演芸場を舞台としていたコミックバンドがムード歌謡を引っさげて日本の芸能シーンを席巻していく、一種の秩序の破壊が巻き起こされた中、ある意味、必然のような形で起こったものである。何より、全ての始まりは1971年に、同じコミックバンドであるぴんからトリオが結成10周年の記念に300枚ほど自作レコードを作成したことに始まる。むさいおっさんが歌うその「女のみち」という楽曲はしかし、有線放送で徐々に火がつく中、翌1972年5月に本格的に発売したところ、日本歌謡曲史上に残る大ヒットを記録。むしろ、まったく似たようなジャンル似たような歌い手がいないという特異な状況の中、「女のみち」はシングル売り上げ数420万枚を売り上げ、日本の芸能界に革命をもたらし、1973年にコミックバンドとしては空前絶後と言える紅白歌合戦に出場を果たしている。そして、もう1つ重要な話として、ムード歌謡と呼ばれるジャンルが一気に全国の酒場を一色に染め上げていったことも忘れられない。

そんなメガヒットの裏で、第二のぴんからトリオを求めたレコード各社が、大阪で活動中の売れないコミックバンドに目を付けたことで、さらに世の中が面白いことになる。この記事では、平和勝次とダークホースという絶対に20代以下の人間が知らない自信のある歌手のたった数年の活動が、いかにその後の芸能界に影響を与えたかについて語ると同時に、100万枚を売り上げる大ヒット記録したにも関わらず、コミックバンドという枠組みからくる差別の中で紅白出場を逃すこととなった背景と、急な解散について検証すると同時に、彼らの忘れられない歌と生き様、何よりも時代の変遷という、3つのキーワードを元に語るものである。

宗右衛門町ブルース[編集]

この歌が流行ったきっかけ、それは当時の芸能界で見過ごされていた、しゃべりのできる歌手という金鉱脈が偶然に発見されたことによる。

なお、平和勝次とダークホースのリーダーである平和勝次氏は、コミックバンドとしてデビューしたのが26歳、大ヒットを記録した1973年にも28歳というあんちゃんでにすぎず、中学校卒業後、16歳で芸能界に飛び込んだ、いわゆるたたき上げに属する人である。彼は当初、浪曲漫才とまったく歌謡シーンとは無縁の世界を歩き、売れない芸人の悲哀を十二分に味わいつつ、その苦境を乗り越えるために何が何でもどんなことをしてでもという日々を過ごしつつ、後の財産となるしゃべり、さらには舞台度胸、何よりも気の知れた仲間たちを手に入れる。

けれど、売れないわけだわな。当然。で、結局、勝次氏と彼の仲間たちはどうやっても売れない現況を変えようと、グループサウンズブームに乗るかーぐらいの軽い気持ちで、1971年にコミックバンドを結成。もちろん、当初は、平和勝次とダークホースなどとは名乗っていない。漫才コンビ、平和勝一・勝次の余技として、仲間内で流行歌を笑いにつなげるコミックバンドみたいな形で活動していたにすぎない。もちろん、まったく売れず。しかし、それが良かったのか悪かったのか、まったく売れることがなかったおかげでさまよい続けることになった夜の盛り場の中、酔客の間で歌われた曲を何気なく覚えることとなり、そのおかげ後の大ヒット曲が生まれるのだから、世の中というものは面白い。

しかも、その大ヒット曲が、実は替え歌だったというところもまた、世の中というものである。それは、1960年代に活躍した歌手、北原謙二氏が1962年に歌った「さよならさよならさようなら」(作詞:星野哲郎、作曲:山路進一)という歌を元に作られ、宗右衛門町の中だけでひっそりと歌われ続けたもので、誰ともなく「宗右衛門町ブルース」と呼ばれていた歌だった。そんな、場末のキャバレーで酔っ払いの口ずさんだ替え歌でも持ち歌は持ち歌、早速、勝次氏はその替え歌を元にして自作の詞をつけ、その結果、宗右衛門町ブルース(作詞:平和勝次。作曲:山路進一)が完成。宗右衛門町での営業に欠かせない財産となる。そして、ぴんからトリオの女のみちように、まず自主制作版として300枚ほどレコードを制作。ごくごく身内に配るとともに、もちろん、願掛けの意味で各種芸能関係者にもレコードが送られることになる。

そこに、コミックバンドというしゃべりができて舞台度胸も満点という原石の塊を捜し求めた東京のプロダクション3社が目をとめることになるのだから、時代の波というものは恐ろしい。

その結果、1972年1月に発売されたこの曲をきっかけに、なんと、まったく、ぜんぜん、とにもかくにも、売れてない彼らがいきなり東京へ招聘されることになり、1972年11月にバンド、平和勝次とダークホースがクラウンレコードからデビュー。ちなみに、新たにレコーディングする際、運よく元の曲である北原謙次氏の歌の存在に気づいた人がいたおかげで、からくも盗作疑惑を免れるなんて話もあるけれど、自主制作版についてはお察しのとおり。けれど、ようやく原曲が判明、関係者、とくに北原謙次氏の了解も得た上で、宗右衛門町ブルースは大阪の場末の酒場から一気に全国へと羽ばたいていく。

もっとも、この躍進については、売れてないから安いからという理由のほか、基本、松竹芸能所属の芸人の余技みたいなもんであり、使いつぶしてもまったく気にならないという理由といえないような理由も存在している。けれども、そんなことはつゆ知らず、平和勝次とダークホースは第二のぴんからトリオを目指して積極的に夜の酒場へギター片手に繰り出すと同時に、有線放送へも積極的に売り込みをかけ、夜昼を徹した営業を押し付けていく。

そんな彼らが瞬く間に僥倖をつかみとるだから、世の中というものは恐ろしい。

1972年の11月に全国発売された宗右衛門町ブルースは、関係者の予想に反して異常な勢いで売れ始め、翌1973年に見事、夜の町、特に大阪を中心に席巻。彼らを第二のぴんからトリオ、もしくはぴんからトリオに継ぐ存在へと押し上げることになる。そして、場末の酒場で歌われ続けていた替え歌と売れない芸人を集めたコミックバンドが一夜にして、大ヒットバンド、平和勝次とダークホースによる宗右衛門町ブルースになる。この間、わずか半年。そして、この歌はその後も人々の記憶の中に残り続け、なんと小泉純一郎総理や麻生太郎総理が口ずさみ、発売から30年を経過した2000年代に入ってから、総売り上げが200万枚を突破するなど、とんでもなく息の長い大ヒットを記録することとなる。

が、どう考えても元が替え歌であり、許可を得ぬまま自主制作までやってしまった以上、しきたりを重んじる紅白歌合戦に出場という話は厳しいという件についてはいかんともしがたく、そこらへんは彼らもまた分かっていたようで、実際に平和勝次とダークホースは、宗右衛門町ブルースが大ヒットし、続く女の舟歌がヒットした1973年の紅白歌合戦の前に正式解散することになる。これは、ある意味、業界のルールを破ったことについて芸人としての矜持を正したと見ることもできると同時に、一度取った天下にこだわらない無欲さを聞く人々に強烈に印象付ける。

時代背景[編集]

ちなみに、こんな一部の地域でのみ細々と歌われた歌が大受けした理由を社会的背背景から探ると、まず1970年代という一種独特な空気から語らないといけない。元から強い東京への反発は当然として、1972年2月にあさま山荘事件を受けて学生運動が終焉を迎えたほか、1970年に開催され、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ大阪万博後の心地よい疲労、何よりも、グループサウンズフォークソングが切り開いた、若い才能にスポットライトを当てる売り込みが本格化した時代であることが重要である。当時の情勢を永六輔氏は、若者に誰しもがギターを抱えて芸能の世界に飛び込む権利が与えられ、あるものはそのまま頂点へと駆け上がり、あるものは業界を中堅として支え、そしてまた、大多数はひっそりと消えていくことが、一つの物語、現実におけるドラマとしてテレビラジオから視聴者へと伝えられ続けていくシステムが出来上がったと喝破。チャンスをつかめば誰でも成功できるという幻想が時代を動かしていた。

そんな時代、松竹芸能所属で初舞台が吉本興業うめだ花月という漫才コンビとその仲間達という、明らかに大ヒットするわけがないコミックバンドがそのチャンスを捕らえたことこそが、一つのエポックメイキングであり、彼らと、そして実際に彼らを支える人々を時代の頂点へと押し上げて、そして、ブラウン管や有線放送を通して多くのファンたちに支える喜びを与えることとなる。

実際、まったくオンナの影も形もにおいもないむさい男ばかりの5人組だからこそ、女の影を歌う場末の酒場の歌が心に沁みる上、成功するわけがなかった彼らが成功したように、自分達もまた努力するという想いを、聞く人聞く人に抱かせる。この相乗効果はこんな時代だったからこそ可能だったとも言える。

そこには、高尚な藝術なんてものはない。だからこそ、手に取りたい、足を止めたい、何よりも心に残したい言葉と時代が、ぴんからトリオの女のみちから始まり、宗右衛門町ブルースを経て、殿さまキングスなみだの操へと続いていき、さらにはあのねのね赤トンボの唄バラクーダ日本全国酒飲み音頭などといった、普通だったら歯牙にもかからないコミックバンドの言葉が全国に広がる素地が作られていく

これは、日本の芸能にとって大変に素晴らしい話であったと同時に、実は、後の時代に大きな禍根を残すことになるのが世の中の困ったところである。

垣根[編集]

しかし、こういったコミックバンドの面々がお笑いと歌手の間に聳え立つ垣根を乗り越えた時代、実は多くの業界人が「お笑いが歌ったヒット曲では価値がない」とその事実を軽く見ていた。

何故か?それは、すでに歌謡曲というものが、一つのシステムに沿って作られなおかつ、ヒット曲やスター、さらには芸能を司る各種書籍の編集部も含め、一つのシステムの枠組みに入っていたためである。歌が上手い若者は、高名な先生の下で修行し、プロダクションを経てデビュー、司会者が聴衆を言葉でひきつける中、歌手は人の言葉と人のメロディを自分の歌に乗せて人々に伝える。

それが当たり前だった時代はしかし、1960年代からぐらつくことになる。まず、アメリカから入ってきたフォークソングで一般的だった作詞作曲を歌手が兼任するシンガーソングライターの方式の導入で作詞作曲の大家に大ダメージ。次にコミックバンド出身の歌手という、司会者のいらないしゃべりのできる歌手という、さらに人件費を抑えられるやり方が発見されて司会者が大怪我。最後はスター誕生を初めとする、才能はブラウン管を通して集められ、ブラウン管の中で育てられるという、芸能人の育成を一つのドラマとして見立てたテレビ局の囲い込みの成功が、既存のプロダクションが築き上げたシステムを木っ端微塵に打ち砕く。

そのため、1970年代という時代は、ひとたび知らぬ世界から知らぬ才能が飛び込んできても、反応できなかった連中が軒並み没落していったという時代であり、世の中の動きのほうが、既存のスター育成システムを乗り越えて、新しいスターを自分達で選んでいった時代という話にもなる。

実際、当時の若手歌手は、時代の変遷を耐え抜くためにしゃべりを身につけることが、大手プロダクション所属の歌手でも当たり前となり、美川憲一森進一、さらには遠く長崎のキャバレーから羽ばたいた内山田洋とクール・ファイブなどの実力派もマイクを向けられれば面白い話芸をして当然、それに加え、大学生たちの圧倒的な支持を得ていたフォークソングの面々、吉田拓郎泉谷しげる、そしてフォークグループではかぐや姫グレープRCサクセションなどなど、全てが全てにおいて、歌謡曲以外の才能を身につけることで、時代を生き抜いていく。

まぁ、美川憲一は一度沈んだけど。

結局、業界がこの混乱から抜け出るには、80年代後半に奇才、秋元康がお笑い界の新人であるとんねるずと手を組んで、本格的に芸能の世界を壊し、なおかつ20年以上かけて新しい秩序を作り上げるのを待たなければならない。

特定地域[編集]

なお、平和勝次とダークホースが売れに売れた原因にはもう1つ考えなければいけない要素が存在。それは、宗右衛門町という大阪市の中央区にある本当に限られた地域の歌を人口に膾炙させる何かがその時代に存在したことである。もっとも、こういった話は過去に遡れば、昭和初期にいわゆる鶯芸者と呼ばれる人々が民謡で広めた佐渡おけさちゃっきり節黒田節といったご当地民謡が人々にまだ見ぬ場所への慕情をかきたてたという話が存在。けれど、1970年代においてなぜそういったご当地ソングが流行ったかというと、これは1964年に開通した新幹線によって日本の旅の姿が変わったことが大きい。この流れは1972年に田中角栄総理大臣に就任して後、日本列島改造論をぶち上げて、各地に高速道路を引きまくったことから、その後も長く続いていくことになる。

こういった時代の流れに上手く乗った歌として、前述の長崎は今日も雨だったの他、美川憲一の柳ヶ瀬ブルース新潟ブルース、森進一の襟裳岬竜鉄也奥飛騨慕情、ひいては1990年に大ヒットした米米クラブ浪漫飛行もまた、沖縄への想いを書き立てるご当地ソングであるように、旅が変われば歌も変わり、そして時代もまた変わっていくのが、世の中というものである。そこには、まだ見ぬ情感があり、実際に現地を訪れた後でも、ふとしたきっかけで記憶をたどれる歌が後世へと歌い継がれていくわけで、そういう意味では、宗右衛門町ブルースは40年かけて売れ続けるほど強い郷愁があり、まず、何よりも地元の人間に愛されたことが大ヒットのきっかけだった。

困った話[編集]

しかし、こういった時代の流れが、後々になって大きな混乱を引き起こすことになるとは、お釈迦様でも気づくめえ、という悲しい話がぴんからトリオから続く芸能史の流れに存在。特に、80年代の若者文化というものが、いかに既存の芸能プロダクションを破壊しつくしたかについては、枚挙にいとまがなく、その混乱は25年以上たった2014年にも延々と連なっている。

特に、お笑いの人間が歌謡曲へと進出した結果、ファンに愛されれば実力がなくてもいいという間違った認識が芸能界を埋め尽くしてしまい、いわゆるジャニーズ事務所の台頭が始まることとなったほか、アイドルの低年齢化の進行、さらにはファンの質の劣化などが日本の芸能に重く重くのしかかっていく。確かに、ヘタクソだからこそ上手くなっていく良さは存在する。しかし、それが良いものを良い歌を残す邪魔をするとなると話は別であり、最終的には、単に安いからという理由で日本語もロクに話せない韓国人すら大量に招聘するようでは、日本の芸能の質が急激に落ちていくのも当然である。そのため、改めて、質を維持するために必要だったジャンルの垣根というものが、なくなってしまってから大事であったことに気づいたと同時に、さして上手くもない歌が垂れ流される時代の悲しみがいたく身につまされるなんて話になる。

なんにせよ、1970年代、学生運動に疲れた若者を癒す様々な楽曲が求められた中、酒場という場所からムード歌謡と言うジャンルが隆盛していったことで、人より多くの挫折を味わった若者の受け皿が出来上がり、1つの時代を作り出していった。翻って、2014年。東日本大震災による心の傷を癒す歌が、まったく聞こえてこないまま3年が経過している。

困った話である。

表現のしすぎ[編集]

そして、ヘタクソが上手くなっていくというドラマには、どうしても熱狂という刺激物が多く取り入れられていったことも、後の世の弊害となっていく。

1980年代のジャニーズ、90年代の小室哲哉、2000年代のモーニング娘。、2010年代のAKB48とそれぞれの時代を席巻したビッグネーム全てに言える悲しい話として、表現のしすぎという、ただただ人々を熱狂させるしか能のない芸とはいえないナニカがその時代ごとに大氾濫した件については、ここでは深く語らない。ついでに言うと、彼らが何を歌ったかについてはどうも記憶があやふやである。とりあえず、熱狂の持つ深い毒性は、時代を振り返る際に特に邪魔になる。本当に邪魔になる。そのため、各時代にそういった熱狂から全力で逃げ出した人々の素晴らしさを語る際、やはり同じようにわずか2年で表舞台から去った平和勝次とダークホースを取り上げることができる。彼らが表舞台から去ったことで、次の芽が伸びる余地が出来たと同時に、その次の芽がどうやって辞めるかという話になった際に、大変に素晴らしい前例となっている。

それは、山口百恵THE BLUE HEARTSといった面々が、自分の積み重ねた成功に縛られずに次の舞台へと進んでいったことと大変によく似ており、彼らが時代を経てもファンから忘れられなかったのと同じ原理を持っている。

あわせて、平和勝次とダークホースが切り開いたコミックバンドをすぱっと終わらせる決断が、その後の歌謡シーンに与えた影響は大きく、彼らが追いかけたぴんからトリオも、彼らを追いかけていった殿さまキングスの面々も、彼らと同じようにやめ時にきっぱりやめていった結果、ムード歌謡ブームは1980年代にしっかりと終わることができ、日本の芸能界には次のブームを受け入れる素地が出来上がっていく。そして何よりも自分の意思で辞められないという悲劇を後世に残さなかったという意味でも大英断である。

が、それが引き継がれなかったのは、日本の芸能の歴史における汚点である。

その後[編集]

1973年のバンド解散の後、平和勝次氏はソロ歌手に転向。仲間達もそれぞれ新しいバンドや作詞作曲の道を歩むこととなる。勝次氏も自前のバンドを率いて長く活動し続けるものの、決して一度取った天下を振り返るようなことはせず、兵庫県伊丹市で自前のラウンジを経営。半ば兼業のような形で芸能活動を続けていく。そして、1993年に一度モダンチョキチョキズの楽曲博多の女に参加するために再結成した直後の1995年、なんと阪神大震災で伊丹市のラウンジが被災、そのまま店をたたむことになり、その後は歌手一本で活動、2014年現在もボランティアとして老人ホームの慰問活動など積極的にこなしている。

ちなみに、関西出身のロックバンド、ウルフルズの結成について宗右衛門町ブルースが深く関わっていて、メンボーカルであるトータス松本が歌う宗右衛門町ブルースをバンドリーダーであるウルフルケイスケが耳にしたことから、バンドが結成され、その後、ええねんなど数々のヒット曲が生まれていくことになる。

あわせて、2005年にも平和勝次とダークホースは再結成され、主に懐メロを扱った番組に出演している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

なお、この項目を作りたいがためにこの記事を書いたことは秘密である。