平宗盛

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平 宗盛(たいら の むねもり、久安3年(1147年) - 文治元年6月21日(1185年7月19日))は平清盛の三男であり清盛の息子たちの中で最も笑いのセンスに恵まれたお笑い芸人である。清盛の息子達の中で態度は一番デカイがイチモツは一番ショボイ。基本的にヘタレであり合戦の際もボーッと突っ立ってるか狼狽しながら逃げ回ってばかりであった。その為平家物語とかだと散々に描かれている。しかしかえってネタキャラとしてお茶の間の一般人から愛され、存在自体がギャグであると誉め言葉を貰っている。こんな情けない男だが実は運動神経は抜群であり、トライタスクロンの大会では毎回優勝候補であった。とりわけ泳ぎの腕は一流であり、壇ノ浦の戦いでは荒れ狂う海を重い鎧をつけた状態で泳ぎぎった。並外れた身体能力が無ければ不可能な芸当である。その流麗なる水泳の腕は源義経が賞賛したほどだと言う。このため現代に生まれていたら水泳選手として北島康介ばりに活躍できたかもしれないのにねと言う同情の声も多い。

生涯[編集]

兄・重盛が清盛に先立って死去した事により清盛死去後の平家棟梁となるが、若年の頃から優秀な重盛と比較されてきたことが、彼の人格を偏屈なものにしてしまった。宗盛は重盛に対する羨望と嫉妬から、不幸の手紙を幾度となく送りつけたり、館の軒先に屠殺された豚の死体を放り込むなどの迷惑行為を執拗に行い、また重盛を貶めるべく政治工作をも行っていた。重盛が松殿基房との間に暴力沙汰を起こした殿下乗合事件は、宗盛が裏で糸を引いていたものだと言われている。それだけの熱意と政治手腕を己の身を高めるために生かさない辺りがいかにも宗盛らしい。「平家物語」によると、聡明な重盛はとうに宗盛の悪戯に気づいており、大人気ない宗盛のケツを百叩きにしてお仕置きしたと記述されている。しかし、重盛が亡くなると、宗盛は自分がしつこいまでに繰り返した迷惑行為でストレスが溜まり寿命を縮めてしまったのではないかとあらぬ不安を抱き、重盛の墓前でひたすら低頭しむせび泣きながら非礼を詫びていたという。そんなに悔恨の念を抱くのなら初めから嫌がらせなんかしなければよかったのに、というのは野暮である。

上記の墓前にひたすら詫びたエピソードが伝えるように宗盛は小賢しいながらも真の悪人にはなりきれない愛嬌さがあり、その頼りないながらも洒脱な人物像から平家のムードメーカー的な存在となっていた。源頼朝もこうした宗盛の人物像を面白がり、弟の源範頼に対して、内府(宗盛)は出来る限り生け捕りにすべし、度胸の無い人だから、自害もできず、捕らえるのは容易であろうと書状を記している。

情けないイメージばかりが先行する宗盛だが、実は卓越した運動神経の持ち主である。一ノ谷の合戦においては、多くの一門が討死し、重衡が生け捕られ、知盛も愛息知章の尊い犠牲の上何とか船まで逃げ延びたのに対し、宗盛は奇襲を察するや真っ先にその韋駄天の駿足で船まで逃走してしまった。平家終焉の地となる壇ノ浦の合戦では、知盛や母時子などが次々と入水してゆく中、自らも命絶つ決心を固めたが腰が震えて飛び込めず、遂には呆れ果てた家臣に突き落とされたが結局助け出されてしまった、というのが通説だが、実際には宗盛はこの時酷い船酔いに苛まれており、合戦が始まって早々に船酔いに耐え切れず真先に荒海に飛び込んでしまった。しかし水泳の達人である宗盛は合戦が終結するまで泳ぎ切り助かってしまったのである。荒波の中を一日あまりも泳ぎ続ける辺り、やはり宗盛の運動神経は尋常ではない。これほど高い身体能力がありながら、戦の場で前線に立って戦えない辺りがまたいかにも宗盛らしい。

源氏の兵に助け出された宗盛は鎌倉に送られ、その場で頼朝と面会を果たす。かねてから宗盛のヘタレ振りを耳にしていた頼朝は、面白半分にこの場で裸踊りをすれば命を助けてやると言う。すると宗盛は本当に裸踊りを始めてしまった。もはや平家の棟梁としての矜持どころか、人として最低限備わっている羞恥心さえもかなぐり捨てたこの行動に頼朝は憐れみを感じてしまい、助命を考えるほど心が揺らぎ、逡巡していた。そしてとりあえず一度京都へ送還するように命じた。

しかし、頼朝の弟源義経が宗盛の処遇に異を唱える。知盛や教経、はては女に至るまで平家の人々自ら命絶ったというに、総大将でありながら未だ生に執着する宗盛は見苦しい事この上なく、斬首するつもりが無いなら処遇を自分に委ねて欲しいと迫ってきたのである。無論頼朝は弟の勝手な言い分を却下したが、腹の虫が収まらない義経は郎党に命じ、京都に送還される途中の宗盛を捕らえて処刑してしまったのである。この義経の勝手な行動と、宗盛の処遇を巡る対立が、後の義経討伐に繋がったと言われる。散々平家の足を引っ張ってきた宗盛だが、最後に己の命を以ってして源氏の絆に楔を打ち込むことに成功したのである。

人物評[編集]

伝記によって人物評は様々であり、政治、軍事の手腕に欠乏しているものの善良な凡人として描かれたり、はたまた見栄だけは一人前の慢心に塗れた愚物として散々に描かれたりしているが、いずれにせよ「無能」「ヘタレ」と言う点ではどの伝記物でも共通している。しかし、平家の失敗、汚点の全てが宗盛に擦り付けられてしまったと言う一面もある。しかし宗盛の人物像から「無能」「ヘタレ」を捨象するとどうだろうか、何とも人間としてつまらない存在となってしまう。政治手腕に長け、勇敢に戦の指揮を取る宗盛など、何の面白みも無い。やはり宗盛はヘタレの小物であってこそ宗盛なのであり、その愛嬌のある小物全開振りが全国のヘタレ愛好家達からの人気を得ている。宗盛は平家の終焉を鮮やかに彩った魅力的な人物と言えよう。

また、源仲綱に対して同性ながらも愛情を抱いていたのだが、膝を屈したとはいえ源氏ゆえに平家を敵視する仲綱が相手ではその恋心が報われることはなかった。宗盛は、仲綱が自分に振り向いてくれないのは、仲綱が愛馬に気を取られているからだと思い込んだ。そして、父親の圧力を頼りに仲綱から愛馬を強奪したのである。しかし、この一件でますます仲綱からは敵視されるようになってしまい、ついに宗盛は仲綱とホモセックスに及ぶ夢を果たせなかった。「平家物語」は、宗盛が仲綱の馬を奪いたいという物欲から馬を強奪したと記述しているがこれは平家物語作者の思い込みから生じた誤謬である。