平通盛

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平通盛(たいらの みちもり 仁平3(1153)年-寿永3年2月7日(1184年3月20日))とは、平家の武将である。

生涯[編集]

平清盛の弟である平教盛(たいらの のりもり)の嫡男(ちゃくなん。私生児じゃなく、ちゃんと認知された息子)として生まれる。平清盛の嫡男である(つまり従兄にあたる)平重盛(たいらの しげもり)と共に平家の貴重な知行地(収入源)であった越前国の国司(こくし。県知事クラスの行政権を有する官職)を務めていたが、治承3(1179)年に重盛が病没してしまうと、後白河法皇は「今まで皇室と平家一門の橋渡し役であった重盛[1]がいなければ、もう平家に遠慮することはない。忌々しい清盛の力も殺げて一石二鳥」とばかりに越前の領土を没収してしまい、通盛も国司(越前守)の職を解任されてしまった。通盛は父(教盛)と伯父(清盛)に泣きつき、皇室に対し武力に訴えてもらった(治承三年の政変)おかげで越前守に復帰することができたが、これによって北陸各地の源氏勢力は「越前平氏は恐るに足りず」として、着々と反撃の機会[2]を窺うのであった。

後に北陸道(加賀国、能登国)で反平家の兵を挙げた木曾義仲と愉快な仲間たちによる謀反を鎮圧するために大将軍として従兄である平経正(たいらの つねまさ)と共に出兵するが、各地で執拗な抵抗に遭って苦戦してしまう。そこでやむなく弟の平教経(たいらの のりつね)や従弟の平行盛(たいらの ゆきもり)に援軍を頼んだお陰でどうにか勢力を盛り返し、更には重盛の嫡男・平維盛(たいらの これもり)を総大将とする北陸征討軍の加勢を得て退却する義仲を越中まで追撃する。が、それは義仲の罠であり、誘い込まれた倶利伽羅峠で惨敗を喫し、ほうほうのていで越前まで逃げ帰ることになる。

それ以降はひたすら敗走を繰り返し、越前の国府も自分の居城(津留賀城)も共に戦っている一族も見捨てて京都へまで逃げ帰ったものの、平家一門はとっくに都落ちしており、泣きながら彼らを追いかける事となる。が、湊川まで逃げて来たところで在地の土豪である木村成綱(きむら しげつな)や玉井助景(たまい すけかげ)に捕えられ、賞金首として引き渡され、源氏の武将・佐々木俊綱(ささき としつな)に斬首された。享年32歳。その首級は討ち取られた同族たち(弟の教経[3]業盛)と共に京都の三条河原に晒されることとなった。

家族[編集]

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通盛は従兄である平宗盛(たいらの むねもり。清盛の三男)の娘を嫁に貰っていたが、法勝寺へ花見に行った時に偶然出会った上西門院侍女に一目ぼれ、その後3年間にわたってストーカー行為に及んだ挙げ句、あまりのしつこさに折れた彼女を側室として迎え入れることに成功した。彼女はその美貌から小宰相(こざいしょう)と呼ばれたが、その本名は伝わっていない。その後、夫の通盛が敗戦に敗戦を重ねるようになると、事あるごとに陣中へ彼女を呼び寄せては夜伽をねだったが、そんなヘタレな書状に彼女は激怒。「そんな体たらくだから戦に負けるのです。ごらんなさい。勇猛果敢な木曾の武者どもが、女恋しさに泣いていますか。あなたを守る屈強な武者どもは、女恋しさに泣いていますか。総大将たるあなたがそんな事では、勝てる戦も勝てませぬ」と書いた手紙を使いに出すのももどかしく、自分で持って行って突きつけたと言われている。その上で「いいですか、あなたが勝利の凱旋を飾らぬ限り、今後いっさい金輪際、あなたとはアーン♥♥うふふもして差し上げません」と言い残して、自分はさっさと帰京したのであった。

その後、通盛が獄門となった報せを受けると、一人息子である平通衡(たいらの みちひら)を残して入水自殺した……と言われているが、彼女の性格からしてそれは後世の美談的脚色であり、実際は通衡を徹底的に鍛え上げ、いつの日か源氏に対して捲土重来(けんどちょうらい、リベンジ)を期そうと考えたに違いないが、その努力もむなしく、通衡は文治元(1185)年に残党狩りによって逮捕(吾妻鏡「越前三位通盛卿息一人被搜出之」)されてしまい、結果どうなってしまったのか、についてはお察し下さい

脚注[編集]

  1. ^ 当時実力第一であった清盛をはじめとする平家一門は、何かと皇室を軽んじて好き放題にやっていた。そんな中でも、重盛だけは偉ぶることもなく、皇室に対する忠誠を態度で示していた。
  2. ^ 以前に勃発した保元平治の乱では源氏・平氏それぞれの内乱であったにもかかわらず、源氏にばかり不利な処分が下されたため、当時源氏の勢力は見る影もなく衰えてしまっていた。
  3. ^ 実は影武者で、壇ノ浦の戦いで活躍した記録(『平家物語』)が残っている。

関連項目[編集]