平重盛

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平 重盛(たいら の しげもり 保延4年(1138年) - 治承3年閏7月29日(1179年9月2日))は平安時代末期の武士。 平清盛の長男。文武両道の名将であり、そのうえ一族の皆に慕われる人格者で、父清盛は平家の将来を嘱望し、平家にバランスをもたらすものと呼んだが、その父に先立って死去した。平家側のスターであるが、晩年は不幸。

能力値[編集]

コーエー史観では武力S・知略S・人徳Sの、非の打ち所がない若武者であり、平家のエースとして、何をやらせてもこなせる万能ネギであり、繁栄に多大な貢献をしたと言われる。清盛を諫止することが可能なのは重盛一人と言われた事からも、いかに彼の存在が平家の中で大きかったかが伺えるであろう。

しかし、武勇については平治の乱で、年下の源義平から散々追いかけまわされて逃げまくり、同じ場所を行ったり来たり七往復も逃げているので弱かったという人もいる。ただし、そのソースは後代の平治物語なのでお察しください。

豪胆[編集]

礼節をわきまえた人格者という評判のために、冷静沈着で低血圧っぽいイメージもあるが、重盛19歳の時に勃発した保元の乱では、剛勇と名高い源為朝(義経の叔父)の凄さを見せ付けられながらも無謀にも戦おうとし父清盛に止められるという血の気の多さも見られる。22歳の時の平治の乱では同じく剛勇と言われていた義経の異母兄源義平と張り合っている。(負けたけど)

やられたらやり返す主義[編集]

1170年には殿下乗合事件と呼ばれる暴行傷害事件を引き起こしている。

あるとき摂政藤原モトフサご一行様の黒塗りのベンツの車列が、交差点で信号待ちをしている女車(女の子が乗ってそうな可愛い牛車)に出くわした。モトフサのガラの悪い子分たちがドライバーを運転席から引きずり出して「ダッセェ~~~wwwww」とドツキまわしたところ、その女車の持ち主は、重盛の次男スケモリだった。

重盛は息子がヤンキー集団に泣かされたと聞いて激怒し、モトフサは重盛の息子だったと知って青ざめる。 モトフサはあわてて使いの者を送って謝り、子分を引き渡します!と申し出るが、重盛は受け入れずに使者を追い返した。 震え上がったモトフサは、騒動に参加した従者たちを全員クビにして、首謀者を警察に突きだすが、重盛は許さず、モトフサの行列を手勢に襲わせて、5人を落馬させ4人のチョンマゲを切って、「これでノーサイドだぞ!」と爽やかに言い放ったという。

ちなみに平氏を悪玉にするフィクション平家物語では、原因については、スケモリがモトフサに欠礼したので、モトフサの手下がスケモリをリンチしたことに改変され、オチについては、父清盛が激怒して報復したことにされている。しかし、重盛はここでも「スケモリも悪い」と判断する常識人という役割になっている。

じつは苦労人[編集]

「驕る平家」の中にあって豪胆な人格者だったと言われる重盛だが、平家のなかでは苦労は絶えない。

重盛の母は、清盛の正妻平時子ではなく、宗盛知盛重衡らとは異腹兄弟であり、一門の中でも悩みを分かち合える相手がいなかったと唱える者もいる。唯一血のつながっていた一歳年下の弟基盛悪左府の怨霊のせいで24歳で夭逝してしまった。

実家が名門の嫁をもらったことで立場が固まるかと思ったら、義兄が平家打倒の陰謀を企ててタイーホされ、重盛も巻き添えで表舞台から退くはめになってしまう。

失脚後は外戚もいないため一門の中でも孤立気味であったり、自分の代わりに四番打者を務めるべき宗盛が使えなかったり、ストレスが募って寿命が縮まるほどだったと見られ、40代で胃潰瘍で亡くなるなど、かなりの苦労人である。胃潰瘍だからね。

「夭折」という表現について[編集]

早世、夭折等とよく言われるが、重盛は享年42歳、確かに短命でこそあれ、摂関家の平均寿命が60歳頃の当時としてはものすごく珍しいわけではない。ただし、前述の1歳年下の弟も早世しており、彼等の息子も大半が短命なので、彼等の外祖父の高階家の血筋はあまり長生きしないのかもしれない。