平頼綱

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「平頼綱」の項目を執筆しています。

平 頼綱 (たいら の よりつな、? - 正応6年4月22日 (1293年5月29日))は鎌倉時代の武士、政治家。北条得宗家の身内人、つまり執権の愛人として権勢を振るうも、関係のもつれから最後は北条貞時に粛清される。ニューハーフでありオネエ言葉を話し、執権との閨以外では常に女装していた。

頼綱の出自[編集]

鎌倉時代草創期に、源頼朝によって源氏平氏などの本姓ではなく、北条、安達、足利などの苗字を名乗る事が求められ浸透していった。頼綱は鎌倉幕府末期に権勢を振るった長崎高綱の一族であり、この為頭の固い方などでは、項目名を長崎頼綱にするべきだとか、当時の武士の名乗りは「苗字+通称」だったのだから長崎新左衛門三郎にするべきなどと不毛な論争が巻き起こっている。しかし、長崎氏と言う氏族の呼称が使われるようになったのは頼綱の死後であり、また文献上からは頼綱自身が長崎氏を名乗った記録はなく、彼は名乗りに本姓ではなく苗字を使うことが慣例となっている中、あくまで平氏と言う本姓の名乗りを通し、それに拘泥した。

何故彼が平氏性の名乗りに拘ったか、彼の家系を辿ることでその理由を解明することができる。頼綱の父、平盛綱は、平清盛の孫、資盛の曾孫を自称していた。もしこれが事実ならば、伊勢平氏の嫡流ということになるが、所詮は自称であり、系図なども後からいくらでも改竄できることから、事実かどうかを確証する手立てはない。単刀直入に言えば、捏造の可能性が高い。真っ黒ではないにせよ、限りなくブラックに近いグレーと言える。

ならば、何故捏造をしてまで盛綱、頼綱は平氏の呼称を終生通したのか、そこで浮上してくるのが、盛綱、頼綱は素性すら知れない卑賎の身分の生まれであった、と言う説である。豊臣秀吉などにも言えるが、卑しい出自の者ほど得てして身分や家格に拘泥する。親子二代に亘って終生平の姓を名乗った事は、まさしく彼らが卑しい出自である事を暗示していることにもなる。この憶測は頼綱存命の頃からささやかれており、権勢を振るう頼綱に嫉妬した御家人達の悪意から生まれた中傷であるとの見解もある。しかし、時宗、貞時の寵愛を受け尋常ではない立身出世を遂げ、出世、権威に旺盛であった頼綱に対してこのような嫌疑がかかるのもやむ終えないと言える。NHKの大河ドラマ「北条時宗」ではこの説が採用され、頼綱は卑賎出身の暗殺者として描かれたが、品性に欠け不遜ながらも妙に愛嬌のある人間性と北村一輝の熱演が好評を博した。

上記の説に基く頼綱の生涯[編集]

承久の乱で武功を挙げたものの、賭博に溺れ土地を手放すことになってしまった没落御家人の家に生まれる。頼綱は容姿が優れていたため、家計のやりくりの為に博多ホストクラブや、女装癖と同性愛気質があることからゲイバーなどでも水商売をしていたが、ある時気晴らしの為に訪れた北条時宗に見出され、小姓として取り立てられる。裏社会で働いていた事から頼綱は人事の扱いや政務においてその才覚をすぐさま発揮し、時宗の寵愛を受けたこともあって飛ぶ鳥も落つ勢いで出世してゆく。

しかしその異端的な立場、人物から他の御家人との間に齟齬をきたすことが多く、特に北条氏の外戚であり有力御家人である安達泰盛との対立が深まり、時宗の死後、ついに武力衝突にまで進展。頼綱は色仕掛けを使って貞時を誑かし、安達討伐の大義名分を得て泰盛ら安達一族を粛清する。政敵安達をも滅ぼした頼綱は得宗家の被官として専横を極め、毎晩のように主北条貞時とホモ・セックスを行い悦楽に浸っていた。だがそれも長くは続かず、やがて貞時は次第に頼綱に飽食気味になり、頭を平らに(出家)して退き禅を組みながら余生を過ごしていろという意味合いで「平禅門」と呼ぶほど頼綱を煙たがるようになる。寂寥の念に耐えかねた頼綱は有休を取りモロッコまで船出して去勢を行い、貞時との間に子を作り次期執権に立てようと画策。しかしこの企みは貞時の知るところとなり、背筋が凍りついた貞時は頼綱の抹殺を速断。頼綱は去勢してモロッコから帰国したところを待ち伏せていた御家人達により粛清された。尚頼綱の遺体を死亡解剖したところ、「ついてなかった」そうである。貞時の貞操は危ういところで護られたが、やはり側近として貞時の政務を支え、閨では慰めの枕となっていた頼綱を失った事は痛手となり、貞時は頼綱への贖罪の意図もあって後に頼綱の一族である長崎高綱を登用している。

逸話[編集]

良く知られるのが日蓮との対立である。日蓮は頼綱がニューハーフである事に対し、男でも女でもない欺瞞の塊であると人物評を下し、また執権の寵愛を受けて立身したことを強く非難したことが頼綱の怒りの琴線に触れ、頼綱は日蓮をその場で斬罪に処そうとした。しかし、日蓮に後ろ回し蹴りで金的を喰らって悶絶してしまい、処断に失敗したと言われる。この一件は、後に頼綱が去勢を決意する遠因になったとも言われている。