徳川家治

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徳川 家治(とくがわ いえはる、1737年–1786年)は江戸時代のプロの将棋棋士である。江戸幕府10代将軍。祖父は暴れん坊将軍である。

概要[編集]

将軍より将棋棋士としての彼の方が有名である。非常に高い才能を持つが、将軍としての仕事すなわち政治などはほとんど田沼意次にブン投げ状態でありその放任主義が後に田沼が好き勝手やってしまう結果となった。つまり将軍の才能だけは無能!と言う事になるが彼の中では将棋棋士が本業、将軍は副業なので何ら問題はないのである。将棋を普及させる為に、四人の将棋の棋士と共に「社会の風紀を大いに良くする将棋棋士の団」を結成する。

ちなみに将棋だけでなくチェス囲碁もプロ級の腕前でありヒカルの碁月下の棋士にゲスト出演したこともある。また現代の有名将棋棋士羽生善治氏の「治」の文字は家治から取ったとされる。しかし平成中期にソフト指しではないかという疑惑がもたらされた[1]

田沼意次から貰った薬を服用した直後に死亡した事から田沼の薬が毒だったと言う説と死のノートに書かれたと言う説がある。

生涯[編集]

九代将軍徳川家重の長男として生まれる。家治は生まれながらの天才だが、父家重は基地外であったため、祖父吉宗は彼を次の将軍にする事を悩んだが家治がいるので多少幕政が乱れても良くなると考え、家重に将軍職を譲った。少年時代の家治が習字で「龍」を書いたときに、紙いっぱいに書きすぎて、畳にはみ出てしまったことに、祖父吉宗が親バカならぬ祖父バカにも「実に雄大だ!!」と絶賛したことが大きい。家治の生母は家重と不仲になって死別したが、それでも家重は家治を廃嫡にすることはなく、その後、父家重から将軍職を譲られ、翌年に父は死去した。

しかし家治は将棋の腕を極めるため日夜将棋をやり政治を放置し、周りから「政治してくれ」と言われたが「政治は全て田沼に任す!俺の楽しみを邪魔するな!」と言い、祖父吉宗の期待は早々に裏切られた。これまでの将棋の名人徳川家康以来、将軍に将棋を指南し、将軍の御前で将棋の対局を披露するというお役目を与えられていたものの、これまでの将軍は将棋に興味がないので指南することもほぼなく、将軍が将棋の対局を観戦することもほぼなく(老中がときどき観戦に来るだけ)、もはや有名無実のお役目と化していたが、150年経過して、ようやく将棋の名人が「あるべきお役目」を果たせることとなった。将棋名人としても、ようやく徳川将軍が十代目まで来たところで、初めて将棋に興味を持ってくれたので、興味を持続してもらうためにも手加減して勝たせたり、家治が「待った」しても黙認してあげたりしていた。

ちなみに家治には、万能の天才と言われた一人息子の家基がいたが、ある日の狩りの後、死亡した(田沼意次に毒殺されたという説、徳川家斉に毒殺されたという説もあるが、単に狩りの獲物をよく火を通さずに食べたが故の食中毒が原因との説もある)。彼の死を聞いた家治は、一晩男泣きに明け暮れたと言う。その後、田沼の推薦で親戚の徳川家斉(後の子だくさん将軍)を次期将軍とし、更に将棋に励んだと言う。そして将棋を十分に楽しんで、病死した。なお田沼は、自分が推薦してあげた家斉が将軍になるや、すぐさま罷免されて失脚し、恩を仇で返されることとなる。

著書一覧[編集]

将軍様が自分の趣味の本を出版するというのは、日本史上非常に珍しい。

  • 『将棋巧格』
  • 『徳川流でみるみる強くなる将棋』
  • 『萌える将棋戦士』
  • 将棋無双
  • 灰色の一手
  • 『チェスの良さ』
  • 『盤上絶対論』
  • 『大衆将棋』
  • 『成金の良さ』
  • 『将棋から何を学ぶか』
  • 『日本将棋を見る』
  • 『将棋棋士の立場』
  • 『将棋芸術論』
  • 『小将棋・中将棋・大将棋』
  • 『歩の隠れたる強さ』
  • 『盤上遊戯の祖 チャトランガ』
  • 『近代将棋』
  • 『モノポリーの魅力』
  • 『一人でもやれる将棋』
  • 『見落としやすい禁じ手 二歩』
  • 『脳を鍛える大人の将棋』
  • 『不滅の将棋』

参考[編集]

先代
徳川家重
江戸幕府将軍
-
次代
徳川家斉


Korsk.png この項目「徳川家治」は、執筆者が途中でサジを投げてしまったので、今はまだクソの山です。スプーンを曲げてくれるエスパータイプのポケモンを求めています。 (Portal:スタブ)