志摩スペイン村

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志摩スペイン村(しますぺいんむら)とは、近鉄王国に属するスペイン人入植地である。

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基本データ[編集]

  • 人口は299人。ただし、観光業を継続するために志摩市民の移民を大量に受け付けており、実際は1000人を超えている。
  • 面積は113ha
  • 村旗は中に緑色の点を入れた赤いハートの下に青色で小文字のmを書き、mの隙間に黄色い点を打ったものである。
  • 村歌は『きっとパルケエスパーニャ』(作詞・作曲 / Don Harper)である。これを来場者が容易に聞くことのできる機会は、近鉄王国支配の名残である志摩磯部駅につく前の車内チャイムである。
  • 元首は駐日スペイン大使夫人が歴任している。ただ、政治に介入することはなく、イギリスにおけるエリザベス二世的な位置を確保している。スペイン村の政治はスペイン人の血をひく現地住民たちによって行われている。
  • 観光客は年平均210万人ほど来ている。

歴史[編集]

戦国時代[編集]

志摩スペイン村の起源は、大航海時代に未知なる大陸を求めたスペイン人たちが志摩国(今の三重県志摩市)に流れ着いたことに由来する。スペイン人たちは初め日本列島にたどりついたことに気づかず、インドと思って現地住民に商売を展開しようとしたが、外国人を見たことがなかった志摩国の武士たちはスペイン人に斬りかかった。それにキレたスペイン人一行は鉄砲を使って志摩国を制圧した、武士はもちろん、地元民衆すらも抵抗したが当時の最新技術である鉄砲には敵わず、一時的に主権をスペインに奪われることとなった。

ただし、漂流してきたスペイン人はそこまで数が多くなく、わたって来たスペイン人の大半はビタミンC不足による壊血病で死亡、または瀕死であったため、正直駒不足であり、志摩の国を完全に制圧することは敵わなかった。とはいえ、志摩国側も人海戦術を使うにはスペイン人は強すぎ、他国に増援を頼もうにも、当時は戦国時代であり、他国に弱みを見せればスペイン人と結託、または半島ということを利用され、背水の陣を取らされてつぶされてしまう危機に陥る可能性もあった。仮に頼めたとしても、隣接する陸側が伊勢神宮の神領地であったため、むやみに兵を入れると現状以上の大問題になる可能性が大きく、海を渡って連絡しようにも海岸線だけはスペイン人に完全に制圧されていたため、どうすることも出来なかった。しかもそれにより、国の主要産業である漁が軒並み停滞し、スペイン側が意図したことではなかったものの、志摩国は兵糧攻めにあう形となってしまったのだ。まあ、兵糧攻めにあっていたのは初めのうちは食べ物の略奪に成功したものの、それに志摩国側が気づいていたかはともかく、野菜などのビタミン成分を摂取するための食料をろくに奪取できなかったスペイン側も同じ状況だったのだが。

そうしたスペイン側・志摩国側双方の事情もあり、お互いにだいぶとくたびれてきたタイミングで和睦交渉がなされることとなった。その際重要となったのは斬りかかった武士たちの処分と、スペイン人がスペイン文化を満喫できるような居住地確保である。元々は志摩国側が悪かったこともあり、スペイン人たちが暮らしていくための十分な土地を、本国からの援助が来るまで与えること、初めに斬りかかった武士以外、互いの犠牲は不問とすること、和睦の後は互いに協力し合うことを条件として和睦が成立した。そこで与えられた居住区が後のホテル志摩スペイン村に、お祭りなどの居住以外の用途に使われたスペースがが後のパルケエスパーニャとなる。

江戸時代から戦時中まで[編集]

初めは血塗られた関係から始まった両者であるが、このころになるとお互いに助け合ったことで生まれた結束が生まれていた。志摩国が他の戦国大名に制圧されなかったのもスペイン人の援助によるところが大きい。スペイン人たちのほうも、気候があったらしく本国から援助があった後も志摩のスペイン人居住区に残った。志摩国側も出島を抱えていた長崎と同じ権益を持つことになったため、それはそれは丁重にスペイン人たちをもてなした。そのうちの一つに温泉を掘ろうというのがあり、幸いスペイン人居住区の近くに源泉があったため、スペイン人が育てたヒマワリ畑や、海岸線の絶景を見られる場所に温泉を掘った。それは後にひまわりの湯と呼ばれることとなる。

こうした蜜月状態を江戸幕府は快くは思っていなかった。織田信長の時代からスペイン人の居住はばれていたのだが、信長は外国との交易はもっとやれという態度であったし、豊臣秀吉は下手に志摩国に手を出すとスペインとの関係が悪くなると、半ば黙認状態であったため大きな問題には発展していなかった。江戸幕府が出来た時からいつかはまずいことになるだろうと、スペイン人側や志摩国側も考えていたのだが、悪い予感ほど当たるもので、ついに徳川家光により鎖国政策が実行されることとなってしまった。別に志摩半島に居住しているスペイン人が宣教師であったわけではないのだが、強制的に本国に帰還することとなってしまったのだ。彼らに残されたのはわずかな時間を精一杯楽しむことだけだった。

当然ながらそんな最高の時間はすぐに終わりを告げた。両者ともに長い付き合いがあり、志摩で生まれ育ったスペイン人や、現地住民と結婚し子供を授かった人すらもいた。志摩国側では日本人の血が混じっている一部住人は何とか幕府から匿えると考えたものの、スペイン人全体を残すのはさすがに無理があり、このような苦汁の決断をすることとなった。志摩国領主とスペイン側代表は別れのあいさつを行った後、熱い抱擁を交わしたという。スペイン人が去った後、スペイン人居住区は何とか志摩国に匿ってもらったハーフとスペイン文化を知った志摩国領民によって守られていくことになる。

幕末に入り、アメリカなどが日本に日米和親条約を締結したが、その頃スペイン帝国は斜陽の時代に入っており、日本まで行く余裕、志摩の入植地まで行くことは敵わなかった。明治維新に入ってもスペイン入植地にスペイン人が帰ってくることはなかったが、スペイン人と仲良くしようと明治政府に受け取られたらしく、政府に公認されることになる。そのため、細々とではあるがスペイン人との交流が出来るようにはなったが入植は認められなかった。ただ、それは一時の夢と終わり、日本が軍国主義に入ると、スペイン人たちは本国から帰還命令が出て、名残惜しみながら帰って行ったという。再びスペイン人が志摩の地を踏むのは第二次世界大戦が終わった後であった。

戦後[編集]

戦後の日本が荒廃していたことは周知のとおりであろうが、志摩も例外ではなかった。ただ、近くに師団や軍事工場が無かったこと、伊勢神宮やスペイン人入植地跡など、連合国側が様々な理由で攻撃しづらい拠点があったことなどにより、壊滅的な被害は受けずに済んだのであった。後にわかったことであるが、スペイン人たちが恩のある志摩の地を守ろうとし、連合国側に志摩を攻撃対象から外してくれという嘆願をしたようである。そのような嘆願が出たのも、自分たちの先祖が去った鎖国時も、軍国主義化して外国文化排除に動いた時にも、その他様々な時代、組織に圧力が加えられても、スペイン人の文化が詰まったスペイン人居住区を、スペイン人の血が混じった人々を中心とした現地民が守りきったからだと推察される。志摩民の思いが海を越えスペインに伝わったのだ。例え、人種が違っても、初めの出会いは最悪でも、人である限りはわかりあえることを示したのだ。GHQによる植民地支配から解放された後は、スペイン人を迎えて新たに交流を深めようとしたのだった。

そんな幸福な時代は長くは続かなかった。今度は日本国から独立を果たした近鉄王国が志摩半島を制圧しに来たのだ。近鉄王国の鉄道網を利用した圧倒的な武力の前では、スペイン人入植者と現地住民の混成部隊程度では敵わなかった。スペイン本国もその事態は大いに悲観したものの、下手に動けば内政干渉に当たるため、動くことが出来なかった。こうしてスペイン人入植地を含め、志摩半島は近鉄王国に併合されることになった。

ただ、そんな状況にも屈しないだけの力が、何百年もの歴史でつながった志摩スペイン連合にはあった。植民地支配されてからも志摩民たちは、志摩半島のあちこちでゲリラ戦を展開し、近鉄王国側を大いに困らせた。それを見たスペイン側もかつて無敵艦隊が全世界に恐れられていたような頃の勇敢さを取り戻し、闘牛をけしかけたり、踊りで挑発したりと近鉄王国相手にやりたい放題やったとされる。近鉄王国側も初めはそのような動きをぶっ潰す気満々であり、実際兵力的には大いに実行できたのだが、つぶしてもつぶしてもわいてくる抵抗勢力を構っているうちに、志摩スペイン連合対策の費用によって王国の財政を逼迫し、いつしか近鉄王国のお荷物とまで言われるようになってしまった。そのため、王国は近鉄王国所属という第一線だけは守ることを条件に志摩半島にかなりの割合の自治権を与えた。スペイン人居住区にいたっては近鉄王国に所属しているだけで、実質独立国と同じ程の裁量権を与えたとされる。この際、スペイン人入植地という名前では長ったらしいので正式名称を決めようということになり、志摩にある村ほどのスペースがあるスペイン入植地をまとめて、志摩スペイン村と呼ぶようになった。

現在[編集]

一時は近鉄王国と一触触発の状態であった志摩スペイン村だが、今では王国と和解し、困った時はお互いさまと、互いに援助をしあっている。これはまさに志摩民とスペイン人が和睦交渉を行ったときと同じパターンである。ただし、干渉は行わず、スペイン村では自力で、生活廃水処理施設、ごみ焼却施設、自家用発電施設、生ごみ処理施設を建て、生活に必要なことは全てこちらでやるという姿勢をアピールしている。ただ、スペイン村と志摩市の援助だけではとてもではないが村の生活を守るには至らなかった。近鉄王国からの援助を止めなければ真の自治権獲得とは程遠かったのである。

そのため、あちこちにある日本企業に村への観光パスを渡すことにより援助をもらっている。その中に近鉄王国内の企業や近鉄王国自身が入っているのはスペイン村のしたたかさを思わせる。スペイン村はこの路線がうまくいくことを確信し、観光産業に力を入れればさらに繁栄をもたらすのではないかと考え、今では村自体を観光都市化し、個人、団体、企業に多額のお金を落としてもらおうと画策している。

そうした来場者数を支えているのは、伊勢志摩地方の児童・生徒たちである。スペイン村上層部と学校による談合が行われ、小中学校の遠足や社会見学では出来るだけスペイン村に行ってもらうようにしている。一説には伊勢志摩地方の子供たちだけでスペイン村における歳入の一割を確保しているとさえいわれている。学校側にとっては利益は少ないが、下手にスペイン村に崩壊されると、また近鉄王国が戦争を仕掛けて志摩半島が荒廃する危険性があり、そんなことになったら授業どころではないため、消極的ながら協力している。

施設[編集]

ここでは観光都市化したスペイン村の施設を紹介する。

パルケエスパーニャ[編集]

直訳スペイン公園。安直ではあるが元は志摩国にあるスペイン人のための公園であったため、わかりやすいということで志摩市民、志摩在住スペイン人ともに納得している。公園と名乗っているが、実際はバチカン市国のようにスペイン人が暮らしていくための施設を全てここに詰め込んでいる。その中には、観光客のためのアトラクションも存在する。

ピレネー
吊り下げ型ジェットコースターで、元々は人をロープで吊り下げ拷問するために作られた。発想は同じだが、載せた人を吊り下げて、高速で動かすのはやはり拷問である。中にはそれを楽しむことが出来る者もおり、施設利用し放題のパスを利用して、一日に十回以上乗ろうとすることもあり、そのようなマゾヒストには大変好評である。
アルカサルの戦い
ライドに乗り4つのシーンからなる舞台上の敵をレーザー銃で攻撃して得点を競うシューティング型アトラクションである。敵の元ネタはもちろん近鉄王国の兵である。
エスパーニャカーニバル
直訳公園祭り、元々はスペイン人入植地でやっていたお祭りである。それを大げさに毎日開催するようになったのがこれである。毎日がどんちゃん騒ぎのため平穏な時間が無くなったことが、スペイン村を観光都市化した代償の一つであろうとスペイン村上層部は考えている。
カウントダウンイベント
毎日どんちゃん騒ぎするようになってしまったため、実質スペイン村のお祭りはスペイン村最大の行事であるこの日だけである。この日だけはスペイン村村民と観光客が一体となってカウントダウンを楽しむ。
VIPルーム
様々な意味でスペイン村にとって重要な人物のみを入れるための施設、めったなことでは使われない。

ホテル志摩スペイン村[編集]

元々ここはスペイン人居住区であったが、全国からやってくる観光客のために居住スペースの一部にホテルを建て、観光客に滞在してもらうことにした。これも自分たちのプライベート空間が縮小すると村民には不評である。

ひまわりの湯[編集]

元々は志摩民たちがスペイン人入植者をもてなそうと掘った温泉である。これを観光資源として提供するのはさすがに上層部も躊躇したのか、源泉かけ流しである元々自分たちが使っていた温泉は解放せず、循環ろ過型の温泉を新たに掘ってそれを観光客に提供している。

メディア進出[編集]

2000年から2002年まで、志摩半島に上陸した初めのスペイン人がモデルであるキャラクター『ドンキホーテ』や『ダルシネア』などが登場する歴史アニメ「ゴーゴー!!パルケキッズ」が放映された。ただ、登場キャラクターをデフォルメ化しすぎたため原型が無くなり、歴史物語とはだれも認識してくれなかった。しかもアニメオタクからは不評であったため二年で打ち切られるという憂き目にあった。こうしていらないキャラが大量に出てしまったため、パルケエスパーニャのキャラということにしようということになり、『サンチョパンサ』や『チョッキービビート』などのキャラクターを園のイメージキャラクターとして利用し、着ぐるみを作って子供を接待したり、お土産の宣伝に使ったり、園内放送のアニメに登場させたりと、キャラクターを不良債権化しないように必死である。黒歴史化させなかったのは、キャラクターの元がスペイン村の歴史において重要な人物たちであったからに他ならない。

アニメ化の一件に懲りた上層部だったが、実は過去にも同様の失態を犯しており、1996年に前述したキャラクターたちを使って絵本を書いていた。売上がさんざんだったのは言うまでもない。その時のど元過ぎれば熱さ忘れるなんて事態になっていなければ前述のアニメ化の惨劇は起きていなかったのだろう。

その他[編集]

  • 平成教育学院では海外短期留学でスペインへ行きたいと生徒から要望があった場合にはここに行くこととなっている。それは平成教育学院側が、ここは日本国ではないので海外短期留学の条件にあっており、なおかつ本場スペインよりもスペイン文化が凝縮されていて、勉強するべき深い歴史があり、短期留学であればヨーロッパに行くよりもここのほうが勉強になると判断したからである。

関連項目[編集]


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