応仁の乱
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
応仁の乱(おうにんのらん)とは、足利義政、日野富子、細川勝元、山名宗全、畠山兄弟、斯波兄弟ら、当時の権力者達が一致団結して展開した焦土作戦。その目的は、偉い地位にある連中が無能揃いになってしまったため、下賤の身分であるゆえに台頭できず、燻っている逸材が頭角を現しやすく土壌を作ることにあった。いわば、一種の地ならしであり、日本の戦国時代の幕開けとなった大事件である。この事件がなければ、下剋上の風潮が日本に急激に浸透することもなく、日本の発展が遅れて18~9世紀頃には列強の植民地になっていたかもしれない事を顧慮すると、画期的な出来事であり、偉業と言えるだろう。
目次 |
[編集] 経緯
15世紀中頃、日本は退廃の一路を辿っていた。権力を掌握する武士、公家、寺社は皆腐りに腐って堕落しており、日本人の教養は低下、不正取引や密貿易、犯罪が横行していた。そんな堕落した日本の現状を憂いだ山名宗全は、日本が活力を取り戻すには、戦争しかない、と勝手に解釈していた。畢竟、宗全は戦争屋であった。
同じ頃、怜悧な人物として知られる細川勝元も同じことを考えていた。しかし、彼は山名宗全とは別のやり方で、戦争を起こそうとしていた。宗全が戦争屋であるのに対し、勝元は裏から手練手管を用いて煽動、教唆する謀略家気質の人間であった。
たまたまこの頃、有力守護大名の斯波氏、畠山氏は跡目争いの様相を呈していた。勝元はこれに介入し、両者の不和を煽って合戦にもつれ込ませた。
一方、宗全は主体性の無い優柔不断な足利義政を隠居に追い込み、烈女として畏れられた妻の日野富子を女帝として推戴しようと画策、そんな折、運よく富子に子が生まれたた。宗全は渡りに船とばかりに大義名分を得て欣喜雀躍し、義政に圧力をかけて隠居を迫った。
ところが、これに待ったをかけた人間がいた。義政の側近である伊勢貞親である。貞親は堕落と頽廃を好む人間であり、彼からすれば宗全や富子は醸成された退廃的風潮を払拭させかねない不倶戴天の敵であった。貞親は守護大名や公家達に協力を呼びかけた。その中には細川勝元もいた。奇しくも戦争を望んでいた勝元は、貞親らを逆に煽動する事で戦争を勃発させようとした。
各々の顕在化し、混乱の様相を呈してきたところで、さらにニューカマーが登場した。義政の弟で、出家していた義尋(足利義視)である。義視は混乱に便乗して迅速に還俗の儀式を執り行い、実は子供の頃、兄貴から俺は早漏で子供が出来そうに無いからお前に将軍職譲ってやる、と約束されたから俺が次の将軍だ、と、虚偽の約定をでっち上げで将軍になろうと画策し、鳴り物入りで表舞台に現れた。これを聞いた富子は激昂して義政を殺そうとし、鉈を持って室町御所を徘徊、義政を執拗に追跡し、義政は命からがら勝元の屋敷へ逃れた。そしてこの騒動を勝元が逆手に取り、宗全と富子は畏れ多くも将軍を殺そうとした、奴らは逆臣だ、と檄を飛ばしたことで、戦争が勃発したのである。
[編集] 戦況の推移
当初、趨勢は互角であったが、宗全は流石喧嘩っ早いだけあって戦争上手で、軍団を巧妙に駆使して勝元を追い込んでいった。さらに、日野富子が自ら鉈を携え先陣に立ち、獅子奮迅の活躍をしたことで士気も昂揚しており、勝元は劣勢に立たされた。
そこで勝元は挽回の為反則ともいえる手段に出る。勝元は呪術、錬金術、陰陽道に造詣が深く、この時代にあって、なんとタイムマシンやホムンクルスの開発に成功していた。勝元は屋敷の地下で培養液の中に育てていたホムンクルスを一斉に解き放った上、タイムマシンを用いて過去や未来から平将門、平景清、織田信長、三十年戦争で活躍した伝説の傭兵隊長、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル、ジネディーヌ・ジダンなどを召還、さらに、自分を演じた俳優が野村萬斎である人脈を利用して安倍晴明らにも協力を要請した。これによって軍事力を大幅に増幅させた勝元は一気に逆転したが、タイムマシンの技術は宗全の側にも流出していたようで、宗全もタイムマシンを開発し、時空を超えて歴史上の英雄を召還し、日本は一種の無双状態となった。
[編集] ピンクの悪魔達の参戦
戦況は膠着状態に陥っていたが、早期の決着を望む山名宗全が、八雲紫と折衝して西行寺幽々子を助っ人として呼び寄せた事で戦況は一変する。幽々子は雲霞の如き軍勢を一口で飲み込んでしまい、合戦における兵力の差を一瞬で逆転させるなど大車輪の活躍を見せた。一方、細川勝元は大食いには大食いで対抗するしかないと、かつて料理番組で共演した縁からプププランドに生息するピンクの悪魔を呼び寄せ対抗した。
[編集] 深刻な兵糧不足
しかし、この二人のピンクの悪魔は大食いゆえかかる食料費が尋常ではなく、両軍は兵糧不足に陥った。兵士達は栄養失調で次々と餓死し、戦争どころではなくなった。そんな中、宗全と勝元が相次いで病気に罹患して没してしまい、両軍は戦争の大義名分を失った。統率者を失ったことで歯止めの利かなくなったカービィと幽々子によって日本中の食物が食い荒らされることを危惧した両軍は迅速に和睦交渉を執り行い、カービィ、幽々子に対して包囲網を敷き兵糧攻めを展開した。
[編集] 結末
これより先は史料が散逸してしまい、結果として応仁の乱がどのような結末を迎えたのかは分からない。しかし、二人のピンクの悪魔によって日本中の食料が食い荒らされた事の弊害として生じた飢饉は16世紀初頭まで続いたらしく、将軍足利義政すら食料不足による栄養失調で死んでしまうほど日本は困窮していた。そんな悲惨な戦争を尻目に、戦争の後のことを見越して食料、武器を備蓄し、雌伏していた一部の聡明な連中が、戦国大名として雄飛してゆくこととなる。
[編集] 主な勢力
[編集] 年表
- 1467年:将軍邸にピザの配達と称してロケット団をはじめとするテロリストが乱入。将軍は重傷を負うも救出される。
- 1468年:戦闘形態が塹壕戦に移行。織田家は参戦出来なかった。と言うかこの時代織田家は大名じゃなかった。てか何で徳川家が参戦しているかが謎。
- 1469年:ドラえもん、コロ助らのUMAが確認される。どうやら徳川家はドラえもんからタイムマシンを購入していた模様。
- 1470年:足利義尚がフランス語を完全習得。修行のスタートラインに立つ
- 1471年:ドラえもんが『北条時宗はモンゴル語も話せたから元を撃退できたんだよ、戦わなきゃ現実と』と義尚を説得する。
- これに対しモノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾが『バイリンガルってレベルじゃねーぞ!!』と反論。
- 1472年:太田光に自分の身長の低さを馬鹿にされたhydeが西軍に寝返る。
- 1473年:東軍、ネクロマンサーのレザード・ヴァレス氏を雇い、源頼朝を蘇生させる。ジダンのストレスによる抜け毛が深刻な問題となる。
- 1474年:ダウンタウンが将軍邸でネタを披露。西軍一気に優勢へ。
- 1475年:足利義尚が意を決し帰国。戦いに参加する。しかし、ドラえもんがほとんど片付けてしまい、敵はあまりいなかった。
- 1476年:アドルフ・ヒトラー総統閣下が東軍諸大名に玉砕命令を発令。ドイツ空軍が京都市街地を大規模爆撃。
- 1477年:パティシエの義尚がフランス菓子で西軍をねぎらう。西軍は息を吹き返す。
- 1478年:東西休戦協定。応仁の乱終結。
[編集] 戦後処理
戦争のルールとして、戦争が終わった後は、戦争に巻き込まれた人達の溜飲を下げるためにも、誰かに戦犯の烙印を押し、全責任を擦り付けて処刑することが慣例となっていた。しかし、戦争の引き金を引いた勝元と宗全は既に没しており、戦争責任を追及する人達は振り上げた拳の落とし所を失い鬱屈していた。日野富子を戦犯にしようという動きもあったが、夫の義政が「女に責任を擦り付けてを咎人として糾弾するのは紳士の道に反している、日本はいつから紳士のいない蛮族の国に成り下がったのか」と啖呵を切ったことで富子が戦犯になることはなかった。情けない男としての評価が定着している義政が男を見せた数少ない場面である。京都の公家達は「お前が言うな」と冷ややかな目で義政を見ていた。
戦犯についてであるが、意外と早くでっち上げる事ができた。戦犯にされた男の名は骨皮道賢という男で、足軽を率いて武功を挙げながら、略奪を行っていた男である。身分は大して高くなく、責任を擦り付けて処断したところで、誰一人悲しまないし、不利益を被る事が無いだろうという日本国民の総意により、十字架を背負わされた骨皮は「応仁の乱のA級戦犯」として処刑された。また、東軍として参戦し、戦時中に西軍に与した宿敵マテラッツィに頭突きをかましたジダンはあまりの凶暴さを危険視され白亜紀に追放された。
[編集] 応仁の乱についてのさまざまな人々のコメント
「一体なんなのよ!あたしが何をしたというの!」
~ 応仁の乱 について、日野富子
~ 応仁の乱 について、セブルス・スネイプ
~ 応仁の乱 について、西行寺幽々子
| 人はこの応仁の乱の事を嘘だとかいい加減とかいうかもしれない。 でも、見たんだから仕方がない。行ってきたんだから仕方がない。 間違いない、太鼓判。 (Portal:スタブ) |