悪代官

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「悪代官」の項目を執筆しています。
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「そちもワルよのお…」
越後屋 について、悪代官
「いえいえ、お代官様ほどでは…」
悪代官 について、越後屋
一般的な悪代官。

悪代官(あくだいかん)とは江戸時代に設置された幕府の役職である。諸々の悪事を引き起こし、太平の世をかき乱す事を業務としている。職業上、幕府の部下という意味では同僚であるはずの奉行所と対立しているが、江戸時代の治安を守る目的上、不可欠な必要悪的存在である。

概要[編集]

元来、武士とは軍人であるとともに為政者であり、戦国時代以前の武士は不正な蓄銭をしたり、手荒い連中をけしかけて略奪したり、商人と結託して彼らから金銭を受け取ったり、農民から過酷な年貢を取り立てたりといった悪事は日常茶飯事であり、それによって武士の社会的地位が上昇したといっても過言ではない。日本での「悪」の文字は「強い」の意味をなすこともあり、悪事こそが武士の面目と地位を保つ唯一の方法であった。伝説的な武士である武田信玄はあちこちで残虐行為を働いていた実の親父武田信虎を追放してクーデターを起こしたのはあまりにも有名であるが、この他にも義理の妹に子供を産ませたり、嫡男・義信をうつ病に落ち込ませて自殺させたり、黒川金山の収入を不正着服したり、敵国の捕虜を市で売り飛ばすなど、数々の悪事によって強大な権力を得ている。神仏に対しても「拙者の願いを叶えてくれれば、賽銭をもっとはずみますぞ、領地を増やしますぞ、グフフフフ」という黒すぎる願文を書いて、歴史家から批判されているほどである。(マジ)

しかしながら、幕府が招いた太平の世ではサラリーマン武士が増加、「責任不在」の「できれば腹を切りたくない」武士が横行し、武士の経済力はそれに反比例して小さくなっていく。経済感覚の無い武士達のお陰で武士・諸藩・幕府ともに財政が困窮し、次第に町人や農民にナメられてしまうようになった。失われたプライドを取り戻すため、幕府は「悪代官」の職を創設、優秀な悪代官を育成し、全国に派遣することになる。悪代官は一般的に頭が切れ、ある程度年配の武士の中から選出される。

悪代官は、職務として武士元来の悪さをする事が求められる。例えば悪徳商人との不正な取引は根本的な重商主義的経政策であり、重農主義の問題に陥っていた領内の経済活動の活発化を促す意味があった。現代では山吹色のお菓子のような賄賂は悪代官の専売特許であるかのように言及されることが多いが、実際には江戸幕府の慣習的なものであり、悪代官の責任ではない。

重い年貢についてもある種の合理性がある。というのも、江戸時代の年貢は基本的に額面石高に対して取り立てられるもので、仮に年貢率10割にしても百姓の手元には米が残り、そのほかの畑作で採れる作物は無税である。実際に江戸時代には年貢8割以上の重税を課した藩(例えば天下の副将軍水戸光圀のお膝元の水戸藩など)も多くあった。これは幕府収入の増加を図る上で必須の増税であり、また農民に経済感覚を養わせるなど副次的な効果も期待できた。税を納めない農民・町人の所に殴りこみにいくのも、現在でいう税務署の取立てを先駆けたものと評価できるし、払えない農民の税務処理を手伝う(娘をカタに連れて行き、吉原で換金)などのフォローも万全であった。

時に幕府ご禁制の薬物火薬、鉄砲などを取引することもあり、商業的な面でのニッチ的な拡大政策も多い。こうして集められた金は、浪人や「先生っ!」と呼ばれる剣術家を雇うなどの目的に使われ、武士の失業対策にも寄与している。武士の経済感覚を教育するために過激な経済活動を行う、一種の反面教師的な役割を担っていたのである。

甲府勤番のように懲罰的な役回りと言われる時もあるが、これは間違いである。実際には旗本・御家人に優れた経済感覚を養わせる名誉職であり、任務中の死亡率が高い危険な専門職でもある。悪代官からの出世ルートはさまざまであり、親類の藩主を毒殺してのお家乗っ取りによる大名職への就任や、松平康任のように栄転して老中まで成り上がったものさえもいる。気合の入った悪代官は征夷大将軍就任寸前まで行った人物も徳川吉宗期には非常に多かったが、残念ながら将軍就任にはいずれも失敗している。なぜか。後述するように悪代官を襲撃する一派が引きも切らなかったからである。

悪代官への妨害[編集]

このように江戸時代に必須の悪代官であるが、世間からは忌み嫌われ、というか誤解され諸悪の根源とされる事がある。

幕府内からの嫌がらせ[編集]

上様の名を騙る偽者じゃあ!

幕府の密命により私腹を肥やす悪代官は、食うや食わずの貧乏幕臣の多くから妬まれ、命を狙われる事になる。江戸時代最初期の嫌がらせとして有名なものは、越後のちりめん問屋こと水戸光圀水戸黄門)である。天下の副将軍という地位にいながら多くの悪代官の職務を妨害し、手下二名とうっかりもの、複数の忍者入浴シーン担当含む)と共に悪代官を攻撃した。水戸藩の藩風である空気読めない具合が具現化された存在とも言えるだろう。

将軍の座争いに破れた徳川家光の弟徳川忠長の息子と名乗る者による幕府への逆恨みによる妨害行為も盛んに行われた。その一部始終は「ご免ご免」と謝りながら趣味の日記に書き記されている。

八代将軍徳川吉宗の治世にはこれらの粛清が最もひどく、多くの悪代官が彼らの凶行に倒れた。これは、経済の変遷をよく理解していた徳川宗春・荻原重秀を頂点とする悪代官グループが統制経済(塩や米などの買占め・卸値吊り上げ)やインフレターゲット政策(偽小判の流通)などの先進的政策を行おうとしていた所を、守旧派の吉宗に襲撃されて殺害されたものが大半である。なかでも大岡越前として知られる大岡忠相は、いい加減な裁判と職権濫用で名立たる悪代官たちを苦しめた。大岡のバックについていた人物は当然のことながら、偶然将軍の座に転がり込んできていい加減な制度で世間を混乱させたことで有名な徳川吉宗と考えられている。吉宗自身も「徳田新之助」などと言う偽名を語り、自ら悪代官の屋敷に突入して無差別殺傷を行う凶行に及んでいる。当時の悪代官の職務日記からは「悪代官に対する幕府の密命すら理解していないバカ将軍」「とんでもない暴れん坊」「上様の名を騙る偽者」「腹を切るのは(先進的経済政策を行なっている)拙者ではなく、(悪政を敷いて民衆を苦しめる)上様の方じゃ」「我ら幕閣(幕臣、幕客)あっての上様ではないか」と記されており、受難の時期でもあった。吉宗の悪逆非道さは、悪代官が初代将軍・徳川家康の交付した正規の悪代官免許状を掲げた場合ですら一家皆殺しにしていることからも明らかであろう。庶民の多くはケチな吉宗を忌み嫌い、盛大に金を使ってくれる悪代官側に付いていたのだが、記者クラブ日本銀行東映の陰謀により、その事実はなかったことにされている。

江戸時代後期に悪代官と敵対した有名な人物に、遠山景元遠山の金さん)がいる。信長の野望に出てくるイマイチ冴えない顔とステータスの武将の遠い子孫に当たり、景元自身ももともと博徒のような刺青を彫ったDQNである。このような人物を当時の警視総監である町奉行に任命すること自体、とんでもない暴挙であり、当然空気読めない景元は何故か必要もないのにもろ肌を見せては悪代官の屋敷に殴り込み、毎週のように業務妨害をやらかしている。その一方で鬼平犯科帳でおなじみの鬼の平蔵こと長谷川平蔵は、悪代官に対して嫌がらせを行った記録がない。こうしてみると火付盗賊〆方は悪代官に寛容な組織と言えるだろう。

この他にも隠密でやってくる奉行もおり、悪代官の敵は数知れない。また岡引や目明しといった当時の下級官吏も悪代官に対して何らかの恨みを抱いていたようで、十手で殴りかかったり、小銭を投げたりという嫌がらせを繰り返していたようである。

幕府外からの嫌がらせ[編集]

このように庶民の嫌われ役を受けているため、幕府以外からも無用な攻撃を受けることが多い。

代表的なものは流れ者の浪人である。自分たちの能力不足・努力不足が原因で浪人の身にやつしているのに、それが悪代官のせいだといわんばかりに悪代官を攻撃した。彼らは円月殺法を操る剣術家であったり、どこかの冴えない旗本の次男坊(退屈そうな)であったり、子連れでやってくる非常識なバツイチ侍などの悪漢ばかりであった。三人ならぬ三匹で殴りかかるような卑怯な小悪党までおり、また勝手に大江戸に捜査網をしかれ、迷惑した悪代官も記録にある。

また武士以外にも暗殺を生業とするアサシン集団(必殺仕事人)にも意味無く付けねらわれている。

悪代官の文化[編集]

一方、悪代官は様々な文化を残してきた。例えば賄賂は山吹色のお菓子と表現するが、これは代官を任されるような上級武士なりの雅な言葉遣いである。田沼意次が喝破したように、ワイロで公共事業をすることは経済活動を活性化させるためにむしろ必要なことであった。女性の服を脱がすときに帯をクルクル回す儀式、すなわちあ〜れ〜も上流社会の作法と考えられている。ただし、恋は秘してこそ趣がある、ということで、服を脱がせるこのテクニックに決まった名前はないようである。なお、悪代官は文人も多く、ヘンタイ浮世絵など、今で言う萌えも理解していたとされる。

また、悪代官の手下たちは、任務のために喜んで汚名を着る上司の滅私奉公、もとい男気に付いていく決心をしたエリート武士ばかりであった。彼らは悪代官を慕い、一生の忠義を誓っていた。そのため、相手が奉行であろうと将軍であろうと関係なく、命がけで斬りかかっていったという。たとえ幕府には腰抜けサムライしかいなくとも、悪代官の配下にはこのような勇猛で忠義の士が集まっていたのである。これはやはり悪代官の人徳の賜物であろう。

だいたい、幕末を見ても分かることだが、正義の味方の子孫たちは概ねぶざまな行動を取っている。

  • 十二代目遠山の金さん(遠山友禄)…遊びすぎで破産。藩士全員の給与をゼロにして騒動を起こされる。腹いせに領内の仏像を破壊。
  • 十二代目松平長七郎(松平信謹)…新政府に寝返り、「日頃正義の味方を名乗っているくせに!」と一揆を起こされ、落城。滅亡した。
  • この他、水戸黄門の子孫、町奉行所などもはかばかしい抵抗をせずあっさり寝返った。

いかに彼らが正義漢気取りのくせに、急場に臨んでお粗末な行動を取っているかは火を見るより明らかであろう。後述のように悪代官やゴロツキたちのほうが遥かに江戸幕府に忠義を尽くしたのである。

また、悪代官の残した文化は大久保長安の南蛮文化、荻原重秀の貨幣改鋳、徳川宗春の名古屋めし、田沼意次の手賀沼・印旛沼干拓、小栗上野介の横須賀造船所など数多い。善玉とされる徳川吉宗や松平定信が何の文化も残していないのに比べれば、悪代官のほうが遥かに時代を進歩させてきたのである。

悪代官の歴史[編集]

江戸時代初期を彩った名悪代官に大久保長安がいる。彼は武田家臣から徳川家に移り、金山開発を請け負って莫大な富をもたらし、幕府の発展に寄与した人物である。 さらに側女を70~80人抱えていたとされ、まさに悪代官の文化の礎を築いた人物である。

しかし彼の死後、頭のボケた徳川家康によって、「あいつはとんでもない悪代官だった。許せん!」と息子7人含む一族全員が粛清され、 長安本人もすでに故人にもかかわらずわざわざ墓から掘り起こされて斬首されて晒し首にされるというあんまりな目に遭ってしまった。(史実)

なお、あの大久保彦左衛門は名悪代官大久保長安の一族である(史実)。 すでにこの頃から悪代官の受難は始まっていたのだ。

江戸中期には前述の悪代官の元締めの尾張藩主徳川宗春、勘定奉行荻原重秀の悪代官育成が奏功。「悪代官四天王」とされる関東・美濃・西国・飛騨の四郡代制も整備され、ここに悪代官は全盛期を迎えた。悪代官四天王の一人飛騨郡代・大原亀五郎正純など、名悪代官が陸続と現れたのである。しかし、ほとんどが徳川吉宗松平定信の悪代官大虐殺により死に絶え、史料もほとんど残っていない。いわゆる「悪代官冬の時代」を迎える。1792年(寛政4年)3月9日、悪代官四天王の一角・関東郡代も廃止された。これは幕府の悪代官弾圧策によるもので、「正義の味方」の襲撃を受けて11代悪代官・伊奈右近将監が死亡し、領民の嘆願にも関わらず代官そのものが廃止されてしまったものである。幕閣で賄賂政治を行い、悪代官制度を支えていた側用人・老中の田沼意次も失脚し、「正義の味方」が跳梁跋扈する、庶民には暮らしづらい悲惨な世の中になってしまったのである。

しかし、明和7年(1770)に生まれた塩谷大四郎(速水右近)が、悪でありながら善も行う最凶の悪代官として復活。長崎奉行・深川奉行・西国筋郡代を歴任、ワイロで私腹を肥やしながらも大規模な新田開発を行い、後世に名を残した。時の老中と結託し、「鯨船」などの正義の味方を返り討ちにするギミックを駆使して江戸末期まで江戸世界に君臨した「闇奉行」塩谷大四郎こそ、悪代官中興の祖であった。

そして幕末。幕府のために最後まで戦ったのは、三多摩の農民のセガレやヤンキーなどで組織された新選組などの幕府歩兵隊と、悪代官であった。「悪代官四天王」の飛騨郡代の息子が山岡鉄舟、関東郡代(復活)の息子が小栗上野介であることからもそれが明らかであろう。

 小栗上野介は勘定奉行時代に徳川家の大金を着服した(糸井重里が血眼になって掘っていたいわゆる徳川埋蔵金である)という理由で処刑されたが、これがいわゆる「悪代官」冤罪の最後であった。未だに『偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる』という顕彰碑がその場所に立っている。

偉大な悪代官たち[編集]

  • 大久保長安…「日本一のおごり者」と言われたキングオブ悪代官。悪代官四天王の「美濃郡代」。南蛮渡来のアマルガム法による金の採掘で有名。
  • 徳川宗春…なぜか悪者にされているが、名古屋の繁栄を築いたのは彼である。
  • 荻原重秀…「石ころでも瓦でも信用さえ有れば貨幣に出来るんですよ!」という名言で最近再評価されている。
  • 大原亀五郎正純…悪代官四天王の一人「飛騨郡代」。
  • 伊奈右近将監…悪代官四天王の一人「関東郡代」。
  • 塩谷大四郎(速水右近)…悪代官四天王の一人「西国郡代」。


関連事項[編集]