意識の流れ

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「意識の流れ」の項目を執筆しています。

意識の流れ(いしきのながれ)とは、主に文学を中心に行われる、狂人製造を主な目的としたテクニックである。

一言で言い表すならば、いわゆる文章というものに内在する構成と呼ばれるものを破棄することによって、作者が持つ表現方法とリズムを最大限まで引き出すことで、それを受け止める読者の精神力を完膚なきまで破壊することを目的とする。多くの場合、作者の全てを受け止めてしまった読者の精神は、良くて混乱、悪くて破壊、ひどいときには精神錯乱。実際、18世紀にこの技術が文学において発見されてからというもの、確実に精神病患者は増え、なおかつ文士たちに自殺するやからが増えていく。

無論、慣れない連中がいきなり、この技術を食らっちまったら、その気持ちがよく分かる。よく分かるようになる。それぐらい、各人が有する無意識というものはろくでもない。

概要[編集]

そもそも、文学というものを人間は理解していない。それは、文を使った表現であるように見える。しかし、文とはなんぞや、という事から思い描くなら、目に見えて、意味を通じる言葉という何かが組み合わさることで文をなしえているわけで、そもそも、文以外の何か別の眼に見えるものがそこにあれば、人はそこからも意味を探ろうとする。歴史・時代・空気・そしてメロディにリズム。これは、人間の持つ本能である。それらは、意識化において反応するものもあれば、無意識でしか分からないものもある。表現のリズムなんてものを読み取るなんてことは、意識的にやれるものではない。

けれど、無意識に表現のリズムが変わったことを感じることも多い。もちろん、どこぞのドラえもんサカユメンの回のように、絵柄がいきなり変わったおかげで、読み手のリズムがいきなりおかしくなることが実感できるなんて場合もあるけれど、そういったものは普通なら隠される。アノ回はちょっと普通じゃなかっただけで。

が、そこに大きな落とし穴、罠の仕掛けどころがある。なぜなら、人間は無意識下にリズムに乗せるどこまでもどこまでもついていこうとする性質があり、それが少々絵柄が狂った程度でいつまでもいつまでも思い悩むことが出来る。それは歴史だったり、時代だったり、空気であっても同じである。そこに何か通常とは違う要素を落としこむことで、歴史から見て・時代から見て・空気から見て、その作品を大きく深く人の心に落としこむことが可能になる。これが意識の流れという技術の怖い部分である。

そして、意識の外にある無数の何かについて、色々と分かっている連中によって作品が創られるとき、場合によっては発表当時はなんら意味を持たなかったり、まったく別の意味を持っていたものだったはずの作品が、まるでそこらじゅうに仕掛けられた爆弾が一斉に爆発したかのように、それまでとは別種の評価を得ることがある。なんら意味をなさなかった文章や写真、絵画、に歌曲ひいては異性に対するの感情までもが、いきなり意識を占拠するレベルのどでかいものになる。いわゆるつり橋効果なんざ、その最たるものである。

無意識というものは表現と結びつく[編集]

文学でもなくでもない。しかも、普通に意味が分かる作品であるにも関わらず、多くの人々がそこから違う意味を受け取ったという話は2000年代に入ってからも数多く存在する。

中でも、2003年にリリースされた平原綾香の「Jupiter」という作品は、通常にリリースされたときすでにそれなりにヒットし、いい曲だという程度の評価をそれなりの人、それなりのファンに与え、そのまま消えていき、何も残らないはずの作品と思われていた。にも関わらず翌年の10月に新潟県中越地震が発生した後、復興の最中に被災者が元気になる歌という評価を得た直後に人気が再燃。一気に100万枚を売り上げNHK紅白歌合戦にも出場するほどの大ヒットになる。しかも、2011年に東日本大震災が発生したら、再び評価されるぐらい、この歌は復興という時代の空気と相性がいいことが明らかになる。

これは、復興という人々の無意識にある思いと作品が結びついた結果である。思いっきり偶然であるけれど、そもそも、表現というものにはそういう話がつきまとう。

このような偶然の震災を契機とした評価は、少なくとも作者が意図してできるものではない。けれど、先の時代を見据えて作品を生み出すことは出来る。ただ、そういった先を読む行為の多くが狂気を伴う。と言うより、狂気を伴わないと、作品を通して未来を語れない。

しかし、そういった先の時代における作品の評価については判断が難しい。そもそも、全ての表現は、今と未来とでは別の評価を得るものと思っていい。そこに、意識の流れというテクニックが幅を利かせるスキマがある。

時代というものと表現は結びつきすぎて困る[編集]

そもそも、意識の流れと言っているわりに、意識とか無意識とか以外の外部的要因を取り入れることが、この技法の根本に存在する。リズムやの韻やの律やのといった技法は、時代の先を見通す力よりも下であり、全ては作者の手のひらのうちである。当たった場合は。外れた場合については、まぁ、だからこそ、気が狂うという話になるわけだな。無論、作者が死んだ後、再評価される可能性もなきにしもあらず。実際、そういった作品は存在する。もっとも、作者の死が作品を彩るなんて話は文学においてはようけありすぎて見飽きた光景でもある。

つまるところ、意識の流れという技法は、無意識だの未来だのといった確定していない要素に関して、先立ってツバをつけるという行為にすぎない。しかし、それが見事に当たった瞬間、読者はそこに恐ろしさを感じる。いわゆる、神だの預言者を見たときのような感覚を得る。それぐらい、全てを見通したということには破壊力がある。

実例の前に[編集]

以下に、意識の流れを実際に使用した作品を紹介する。その前に、これさえあれば、ワケのワカラン作品と相対しても平気になるという、文学上の兵器を紹介する。

それは、古代中国の思想家荘子の残した言葉の一つに、「人は皆、有用の用を知るも、無用の用を知らず(人は皆、有用であるものの価値は知っているが、無用であるものの価値に気づいていない)」というものがある。これは、無用で価値がないものがなければ有用なものの価値が生まれないという教えであり、春秋戦国時代において各国が覇を競った中、君主という立場は庶民や奴隷がいなければ成り立たず、孔子老子といった聖賢の立場もバカがいなけりゃ意味がないといったように、実に分かりやすい対比を用いることで、何が有用であるか、何が無用であるかと区別するのではなく、有用と無用は一緒であるという概念で物事を判断するよう、弟子たちに伝えた言葉である。

これは、およそ2300年前に生まれた古い思想である。けれど、この教えを駆使しないと、意識の流れというテクニックに耐えることが出来ない。それぐらい、何の準備もなしに無意味の海、無用の洪水とも言える言葉をぶちまけられると、精神的にそういった言語を受け入れることが難しくなっていき、ある日突然、その言葉が真実性を持ったときに耐えられなくなる。

クソ面白くない学校の授業というものと同じである。けれど、ある日急にワケの分からなかった数学について爆発する可能性もあるため、それはそれでガマンしとけという話のほか、んな無意味から急激に意味が湧き出ることがあるから、注意しとけという話も含まれる。特に歴史関連の授業の爆発性と中毒性は、それまでまったく無意味だと思った日本史やら世界史が、人生を賭けて立ち向かうべき山というか課題にまで昇華する。

それと同じことが文学でも起こると思えば、いかにこの技法を食らうまえに、そういった無意味と思われる部分をスルーせずにしっかりと受け止めるかを考えておかないといけない。

ま、日本の戦国時代に狂う連中ってのは、たいがいそれまでの日本史を無意味と思ってたやつらだってえことを思えば、先に縄文時代から通じる日本の歴史の流れを理解して、戦国バカにならないよう努力しておくのは大事である。そもそも、室町時代から勉強しないで戦国時代だけを楽しもうたってそうはいかねえ、という話でもある。

実例[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「T・S・エリオット」の項目を執筆しています。

以下に、意識の流れを存分に駆使し、英文学史上における重要なピースとして知られるT・S・エリオット荒地という作品を日本語訳したものと英語の本文を、第一章だけ貼り付ける。とりあえず、読むと頭が痛くなる人は幸運である。読んで、そこから何かを見出せる人よりも、よっぽど幸運である。なぜなら、そこにあるのはイメージの積み重ねであり、リズムであり、意味を求める人間をとことんまで排除するという、キョーレツな実験的精神なのだから。

そのため、人によっては意味のあるイメージが目に見え、違う人には単なる言葉の羅列がだらだらと続いていく。

で、単なる言葉の羅列が、急に意味を持ち出すことがある。それは、単純に人の精神が成長した=年をとった、ぐらいならまだいい。まだまし。ひどい場合、戦争やらなにやらといった、国家を揺るがす災厄が起こって、それまでこんな文字の羅列と蔑んでいた世相が、いきなりこの作品は実は戦争を暗示していただの、将来に来る禍いを喝破していただのと、勝手に騒ぎ出したりもする。

ぶっちゃければ、ノストラダムスの大予言なんざ、まるでこの手法である。全編に渡って無意味にしか見えない文章が延々と並べられていたら、そこから自分勝手な意味を見出すバカどもと、それを商売にするもっとバカが現れた。だから世の中は怖いんだ。

幸いなことに、晩年のノストラダムスが、作品の中身を語らずに亡くなったのとは違い、この作品は作者がまだ若い時代に書いたものであるため、詰め込まれる限りの悪ふざけやら読者をバカにするようなサンスクリット語、そして文学者どもを騙すかのごときホメロスのようなギリシャ悲劇を混ぜ合わせていることについて、彼よりも権威のある文学者がちゃんと説明をし、彼自身、預言者ぶることもなく、一線の文学者という立場でこの作品を説明。神格化をなるたけ防いでいる。けれど、ちゃんと韻を踏んで、詩としての形式を維持して、なおかつそれまで英文学が築いてきた詩の文化というものを破壊することに成功しているんだから、この若い詩人が時代の寵児となるは仕方がないし、同世代の連中から一目置かれることもしょうがない。

若いって、いいよね。特に、こういった作品が霊性を持たないっていうのは、素晴らしいよね。

なんせ、意味なんざないのが意味だから。そして、そこから意味を見出させることは、一つの技術でしかないのだから。結局、この作品は1922年に書かれた当事はまったく話題にも上らなかったにも関わらず、1930年代になってこの作品は再発見された後、筆者の名声は格段に上がり、最終的にノーベル文学賞を受賞するまでに高まる。

荒地[編集]

Ⅰ. 埋葬

四月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。
冬は人を温かくかくまってくれた。
地面を雪で忘却の中に被い
ひからびた球根で短い生命を養い。
シュタルンベルガ・ゼー湖の向うから
夏が夕立をつれて急に襲って来た。
僕たちは廻廊で雨宿りをして
日が出てから公園に行ってコーヒーを
飲んで一時間ほど話した。
「あたしはロシア人ではありません
リトゥアニア出の立派なドイツ人です」
子供の時、いとこになる大公の家に
滞在(とま)っていた頃大公はあたしを橇(そり)に
のせて遊びに出かけたが怖かった。
マリーア、マリーア、しっかりつかまって
と彼は言った。そして滑っておりた。
あの山の中にいるとのんびりした気分になれます、
夜は大がい本を読み冬になると南へ行きます

The Waste Land(あ、読む必要はねっす。ただ、韻を踏んでいることだけ見てもらえりゃいいんで)。[編集]

I. The Burial of the Dead

April is the cruelest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
Summer surprised us, coming over the Starnbergersee
With a shower of rain; we stopped in the colonnade
And went on in sunlight, into the Hofgarten*,
And drank coffee, and talked for an hour.
Bin gar keine Russin, stamm' aus Litauen, echt deutsch.
And when we were children, staying at the arch-duke's,
My cousin's, he took me out on a sled,
And I was frightened. He said, Marie,
Marie, hold on tight. And down we went.
In the mountains, there you feel free.
I read, much of the night, and go south in winter.

作品の持つ裏面[編集]

この作品が発表された1922年という時代は、いわゆる第一次世界大戦が終了した直後の「狂乱の20年代」と言われた、一種の興奮状態に似た世相の只中だった。そのため、何をいってるかまるで分からないこの詩はまったく世の中から無視される。意味が分からない。暗い。読者をバカにしていると思われて当然な作品だった。しかし、1930年代になってこの作品が再発見されたとき、世界は大恐慌の真っ最中で、欧米各国がボロボロに疲弊、ファシズムの台頭や共産主義への恐怖の中、少しずつ少しずつ戦乱の声が聞こえ始めていた時代だった。つまり、この作品が再発見されるような世相になってしまったということである。

実際、1922年の詩であるにも関わらず、冒頭だけでも10年後の読者をひきつけるフレーズがたくさんあった。むしろ、ドイツやロシアといった言葉は、その時代、まさに英語圏の人々が真意を求めたくなる言葉の代表格だった。

そらあ、冒頭だけでこれだけひきつける言葉を用意できたら、作品化けるわ。そもそも、1922年の段階で10年先の世相に向けて詩を残せたとしたら、それは詩というよりもほとんど予言である。ノストラダムスなんぞよりも、よっぽどレベルの高い予言である。

なお、エリオット自身の言葉でこの作品を補間するなら、「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それは個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する」と、意味があるように見えるけれどさっぱり意味が分からない言葉を残している。が、とりあえず最後の部分、「印象や敬虔が予期せぬ状態で(読み手の中で)結合する」と言っている以上、単に偶然だった、ということである。

けれど、その偶然を、しかもノーベル文学賞までたどりつくような偶然を成立させた以上、意識の流れという手法はとてつもなくタチが悪い。

詐欺師[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ボブ・ディラン」の項目を執筆しています。

あわせて、ボブ・ディランについて語るとするなら、この記事とこの項目において他はない。歌手という立場でありながら、ノーベル文学賞の候補にのぼるほど文学の歴史に大きな足跡を残している彼だけれど、その文才の根本に確実に存在するのが意識の流れである。間違いないもくそもなく、そこにある。とにもかくにも、まともに聞こうとすると何を言ってるのかさっぱり分からない彼の作品はしかし、個人のインスピレーションを掻きたてることに関しては、アホほどに極上であり、実際、なにいってんだかさっぱりわからんのだけれど、歌詞とメロディと声から、強烈なイメージが襲い掛かってくる。で、読み解こうとすればするほど、深みにはまる。

とりあえず、彼の作品を理解しようというのなら、文学史や神学、さらにはその時々のニュースまでを網羅しておかないといけない。

時代という一瞬の空気を背景にした創作[編集]

そもそも、彼自身の創作活動や演奏活動が異常で、まず、録音ごとに内容が異なるどころではなく、演奏ごとに内容を変えて歌うスタイルを長年駆使している。そのため、たとえ1曲であったとしても、内容が多岐にわたるなんてざら。しかも、場合によっては1度録音したものの、内容に価値を見出せずボツにし、テープを死蔵していたたところ、それをあろうことかスタッフが横流しして販売、ファンが飛びついた結果、海賊版が大ヒットしたなんて話もある。

それぐらい、彼の一曲には信奉者がおり、場所ごとの演奏にも意味を求める人が大勢いる。

しかも、彼の最高傑作とも呼ばれる作品「ブラインド・ウィリー・マクテル」すら、一度録音したものの内容が気に入らず、ずっと死蔵されていたなんていう話も存在。

これは、意識の流れという手法を使って未来を歌い、なおかつその時代その空気も鑑みて発表しようなんてすると、とてつもないほどのレベルで創作が可能になる代わりに、どれがよくてどれが悪いかが分からなくなる、という話でもある。今売れる作品と、先に売れる作品が同じだったら苦労しない。そのため、先に売れる作品を模索し続けるために、一曲ごとに作品内容を変えるなどという、暴挙が1960年から2012年にかけて延々と続けられている。

実際、彼の代表作と言える「風に吹かれて」や「ノッキンオン・ヘヴンズドア」といった作品も、大ヒットしたものとは違うバージョンが多すぎ。むしろ、大ヒットした作品と同じ演奏をしない。同じように歌わない。それだけ表現に厳しいとも言えるが、それはすなわち、聴く側にとっても相当ハードだったりする。

けれど、そういうやり方が一番、未来の連中に受け入れられる可能性が高い。クソ高い。

その結果、彼の歌については早々に離れていくファンと人生をかけるファンの二極化が進んでいく。しかも世界中で、創作を仕事にする人間にとって、もはや神様レベルで崇拝されるわりに、実際のファンの数は頭打ちという奇妙な現象が起こる。そらそうだ。聴けば聴くほど、気が狂いそうになるんだから。そもそも、ン千曲におよぶその作品群を、彼の信者は全て網羅しようとしたくなる。気が狂うに決まってるのに、したくなる。して何になるかといえば、何にもならないんだけれど、したくなる。しかし、それが出来ない信者はやはり、途中で脱落する。けれどもその伝説を知るものは、また、狂気に沿って彼の作品を聴こうと努力する。

その結果、ファンの数は一定であるのに、彼の評価だけうなぎのぼりという、わけがわからん状態になる。

彼の創作の源[編集]

ちなみに、ボブ・ディランの創作力の源にあるものは、とっくに信者たちによって解析されており、若い時分にはとにもかくにも、フォークソングの伝統に則った正々堂々としたメロディの模倣、さらには時代背景からくるドラッグ麻薬ドラッグドラッグ麻薬麻薬による強烈なインスピレーション、そして意識の流れによるむやみやたらな分量の増量、そして何よりもファンにこびずに自分のやり方を貫きまくったそのスタイルであることが知られている。

そのおかげで、声はひどく、顔もブサイクなのに、才能だけで、あっという間に業界のトップに上りつめたんだからやはり伝説である。

で、何がきついって、本人が正々堂々ファンを騙していると語っている。けれど、多くのファンはそんな彼の話をガン無視。彼の作品を聖域化し、その作品の一つ一つの真意を探ろう、探り続けようと努力し続けていく。

ン十年にわたって。

だーかーらっ、ドラッグで得たインスピレーションに意味なんざ求めると、ろくなことにならんて。その上、このろくなことにならん話は30代以降、ドラッグの恩寵から離れてからは、より見事に悪化。正確に言うと、神学やら歴史やらといった、マジで知識を総動員しなければ理解できない要素を大量に詰め込み始め、その結果、アメリカの近代史の知識がなかなか得られない日本の愛好家を地獄に突き落とす。

このように、彼独自の世界観を形勢しつつ、さっぱり何もかも、何がなんだか分からなくなっていく。無論、ストーリー性を持ち分かりやすい作品もある。あるんだけれど、そういった作品ですら多種多彩な言い回しを駆使して、なるべく分からないようにしているんだから、もはや詐欺師以上の何かであるといいたくなる。

ファンにとっては実にたちがわるい。

そのため、多くの大作家と呼ばれる人々と同じように、彼の作品というものは一つの答えではなく、まったく逆の答えも内在し、その解すらも次の作品にはまったく当てはまらない。そもそも、演奏ごとにインスピレーションに従って内容を変えていくスタイルを続けていくかぎりファンという名の「理解しようとする生き物」はいつまでもどこまでも彼に従うことが分かっている以上、大変に素晴らしい方法であるとしか言いようがない。

この生態を知らしめただけでも十分にノーベル文学賞ものである。で、そういうファンをあざ笑うかのごとく、2012年現在も新曲を発表し続け、別の方式で歌い続け、何十個ものファンごとの解を持ってくる。そういう意味では、とにもかくにも長年のファンを飽きさせないというエンターテイナー精神に満ち溢れた存在であるといえる。

もっとも、そういう追いかけっこを一歩はなれて眺めれば、表現者は創作の尻尾つかまれたら終わりだ。という、よくある話も見えてくる。彼のスタイルは、この一言に集約できる気がしなくもない。

最後に、彼の作品の一つ「Changing of the guards」の冒頭を紹介する。これでも、かなり分かりやすいほうの作品である。

Changing of the Guards[編集]

16年
16の旗がいい羊飼いたちが悲しむ土地の上で統一した
やけになった男達
やけになった女達はばらばらになり
落ち行く葉の下で翼を広げている

タロットの運命が呼ぶ
オレは影から市場へと前へと進む
商品と泥棒
空腹のものへの権力
最後の取引
彼女が夏至の前日に生まれた
塔の近くの草原のような
甘い香りが彼女から漂う

ぼやき[編集]

この作品には、詩の中身以前に、彼の一曲ごとに違うという作品制作スタイルの一部を垣間見ることが出来る。というのも、ろくでもない話として、冒頭の一言である「シックスティーン・イヤーズ」を、思いっきり「セックス・ティーンイヤーズ」と歌っている。そのため、最初の一文から続く、まったく意味の分からない歌詞が、シックスがセックスと聞こえてしまった人間には、本当にたまらない文章になる。10代の未成年と思いっきり性交したと歌っているんじゃねえかという邪推を、聞き違いでイの一番で脳内に刷り込むんだからタチが悪い。もちろん、違う録音のときにはちゃんとシと歌っているんだから、さらにたまらない。

そして、こんなイタズラは彼の作品解読のためのとっかかりの一つにすぎない。それ以外にも様々な解読の鍵が残されており、この曲が、彼がデビューして16年目に歌っただの、最初の妻との離婚について歌っているだの、タロットカードの意味が織り込まれているだの、様々な解が彼の研究者たちから出されている。

本当に、彼の歌詞には研究者が存在し、しかも本格的に文学を専攻した人がその任に当たっている。

が、そもそも、本人も言っているように、彼の作品には意味がないというのが正しい、のかもしれない。と思わないとやってられない。それに、明確な意味はないのに、長年のファンを振り回そうという明確な意図については、ありすぎて困る。もはや彼の歌詞が意味するものを読み解くことが、そのまま文章力のアップやら、読解力のアップにつながるとまで文学関係者は思っている考えている感じている。なんせ、彼らが子供のとき、すでにボブ・ディランは神様のように思われていた。そして、50年にわたって、その座を失っていない。

それが、1990年代に英音楽界の楽しい話の楽しい素地になったりもする。

詐欺というもの[編集]

彼の作品を紐解けば紐解くほど、文学者たちからの高評価が間違ってはいないというのもある意味恐ろしい。歌謡曲が彼によって文学にまで高められたというのは、真実である。

けれど、そもそも、文学などというものは、各個人の意識の形成に役立たせるものであって、明確な意味を持たない何かから、各人ごとの答えを見つける&見つけさせるという技術を育てるには、ボブディランのような作品を上手に使うほうがいい。楽。上手に使わないと気が狂いそうになるけれど、幸いなことに彼の場合、おっそろしく、歌が下手という素晴らしい利点があるため、シャガレ声で見た目も悪く、スタイルもいけすかない彼の歌のほうが、ビートルズよりも知的に見えやすく、真意があると思わせやすい。

熱狂を伴わないというのは、けっこー大事な話である。特に、知的に考えるというスタイルを持つ人々にとっては、難解さこそが、一つの解である。意味なんざどうでもいいというのは、2010年代、文学にとっても音楽にとっても、もはや常識と化している。どうせ、未来にならなきゃ分からないのなら、何を表現してもいい。そう思わせたことが、いかに表現の世界を変えていったか。

とりあえず、これは世界中を騙したという点で、最高の詐欺である。もっとも、騙された側が、騙されたと思っていないため、詐欺ではない、かもしれない。

日本の場合[編集]

このような意識の流れを用いた創作スタイルは、およそ日本という風土ではおいそれとお目にかかれないものが多いのだけれど、別にできないわけではなく、日本人に向かないわけではない。実際、あそこまでひどいというかいっちゃっているスタイルは珍しいものの、歌詞の一部に取り込んだり、さらには言い間違いや聞き違い、翻訳の間違いといったささいな話から、創作を始めるというパターンもわずかながら存在する。これは、ある意味、意識の流れという技術の派生といえる。無用の用、価値のないものから、有用なものを見出すという話は、むしろ、そういったささいなきっかけから発想があふれ出す、あふれ出させることを重要視する。そういう点で、いつの世でもインスピレーションというものはタチが悪いといえる。

以下に、こういった創作スタイルを長年続けている日本人の、とある作品を紹介する。

夜の盗賊団[編集]

というわけで、THE BLUE HEARTSの夜の盗賊団である。別に歌詞の内容におかしいところなんてものはなく、淡々と情景が繰り返し述べられていく作品である。そして、作中唯一といえる「夜の盗賊団」という意味の分からないフレーズについても、多くのファンは盗賊団=ファンを騙して金を巻き上げているヒロトマーシーのことだろうと思っている。それについてはまったく問題はない。問題はないのだけれど、ここで、上記にあるような、何かの間違いから始まる創作方法を思い返して、夜の盗賊団というフレーズを読み解くと以下のようになる。

夜の盗賊団 =The Night Robbers =ナイト・ラバーズ =The Night Lovers =夜の恋人たち

こういった創作のトリックを念頭においてから再度歌を聴き返すと、もうなんていうか、全てがまるで違って聞こえてきて愕然とする。無論、こんな適当な話を真に受けてはいけない。きっと、単なる偶然にすぎないから。

きっと。

十四才[編集]

夜の盗賊団が、ワンフレーズだとすると、こちらは3番まである歌詞の1番で意識の流れを使用した作品である。というわけで、ハイロウズの十四歳である。これは、まったく内容がつながらないフレーズを寄せ集めて寄せ集めて、最後の最後で「リアルよりもリアリティ(現実よりも現実性)」と答えを提示した後、2番と3番で1番の無意味だった箇所を説明するというスタイルをとっている。そのため、構成というものをほとんど破棄する意識の流れに則った作品とは言いがたい。しかし、無意味の言葉の羅列から意味へ、しかもとんでもなく深い意味へと吹っ飛ばすその技術は意識の流れでよくある光景である。

何がろくでもないって、2番で歌われてる金星のパイロンをかすめるって、思いっきり意思やん。カモメのジョナサンやん。あいつ、最後には宇宙飛んでたやん。無論、こんな適当(略)。

本命、満を持して登場[編集]

日本語の歌手の中でもっとも意識の流れという技法を使ったのは、たまである。1990年にメジャーデビューした曲「さよなら人類」の時点で、すでに意味という枠組みから自由になっていた彼らは、2003年に解散するまで他の追随を許さないパフォーマンスを積み重ねていく。けれども、残念なことに彼らはあまりにも真摯すぎて、表現に対してまっすぐすぎた。そのため、彼らのパフォーマンスを先導できるような評論家モドキを育てることが出来ず、客層の新規開拓は常に失敗。気づいた人間のみ取り込んでいくスタイルでは、やはり活動を続けていくのはきつくなる。結果、世間からはデビュー曲のみの一発屋として認知されることになる。けれど、日本語の歌詞というジャンルでまとめを作った場合、確実にたまという項目が出来上がる。

他の楽曲と隔離するために。

けれど、彼らの13年に及ぶパフォーマンスが残したインパクトはものすごい。それこそ、いつの日か、彼らの再評価が行われることは間違いない。けれど、歴史や時代が彼らに近づかないかぎり、まず無理である。そして彼ら以降、メジャーなバンドで意識の流れを積極的に多用して楽曲を発表し続けるチャレンジャーはいない。そもそも、2000年代後半より、業界自体が縮小。ヒットする曲が固定化。歌謡番組軒並み全滅の憂き目にあっている。そんな中では、歌詞の中にある文学的手法なんてものを受け入れる素地、余裕、時間、空間、スキマすら存在しない。

つまり、いつの日か文学的手法が受け入れられる素地が復活したとき、たましか目標とできるバンドがないということは、ある意味、悲劇である。けれど、彼らの実力的に見れば当たり前の話である。

ま、そうとう先の話である。

評論家というもの[編集]

意識の流れという技法が生まれてから、文学に欠かせなくなった存在がある。それが、いわゆる評論家という職業である。文学崩れというイメージが強いこの職業はしかし、売れそうにない作品を客に売るという、文学が発展するためにとても大事な役割を果たした功績がある。それは音楽というジャンルでも映画というジャンルでも、しまいにはモードであったりスポーツだったり政治だったり、全て客に紹介するという点では同じである。世間にはまったく認知されない作品を発掘したり、創作の裏側をレポートしたり、さらには国の行く末を至極かってに論じたりする人間がいて、初めて客は代弁者というものの存在を強くしていく。

まぁ、金つかまされてクソな作品を紹介するようになってから、そういった職業の持つ影響力は廃れていく。無論、真摯な評論をすれば評価されることは間違いないけれど、インターネットなるものが出来上がってしまうと、代弁もクソもない、その場そのときその日の気分が全てを流しさってしまい、表現の世界から評論というジャンルが消え去りかける。まぁ、消えはしないけれど、その神通力は薄れていく。

おかげで、どうしたって作品の真意だの内容の解説が必須な意識の流れという技術が売れないものになっていく。人間には、どうしたってワケがワカランものを忌避する傾向がある。

意味を越え、歌詞を越え[編集]

1990年代に入ると、どこぞのボブさんが開拓しちまった意識の流れによるワケガワカラン歌詞というものが、しっかりと文化に根付き、より一層ひどく複雑になっていく。特にアメリカにおいてラップヒップホップといった新しいファッションと結びついた音楽が発生したことは、それまでメロディに乗せるために存在した歌詞というものを一変させ、ひいては英語自体を変貌させるにまで至る。第一義にリズムに乗せることを目的にした作詞と、やはりというかなんというか、ドラッグが深く関わったインスピレーション重視の作風が合いまった結果、英音楽に新たな潮流が生まれる。

それは、文法やスペリング、単語の意味を破壊するというムーブメントである。その結果、文法がおかしすぎて理解できないけれど、曲の雰囲気から何を歌っているか感じることができる、というまさに意識の流れにふさわしい、かどうかは知らない光景がアメリカ文化の先端部分で繰り広げられ、各国に波及。波及はしたけれど、そっから先が止まる。これについては、後述する。

しかし、英語のスラングの量がわずか数年で倍増。どころではなく激増したことについては、ものすごい意味が存在する。場合によっては、同じ英語なのに西と東で会話が成り立たないなんて話がそこかしこで繰り広げられるレベルで言葉が先鋭化し、それに合わせて様々な若者文化がアメリカに根付くことになる。60年代のロックンロール以来となる、アメリカ発のムーブメントはしかし、アメリカ以外では大きなうねりにはならなかった。特に日本においては厳しかった。

というのも、このような英語文化の危機に対して、各国においてそれなりの有名人や知識人たちが声を上げたためである。美しい日本語だのなんだのという話とラップやヒップホップは受けが悪かった。なおかつ、アメリカと世界では事情が違った。なんせ、アメリカではそういった連中が崇拝していたのがボブ・ディラン。彼が英語文化を守っているなんて話は聞いたことがない上、意味が分からないものに世情やら時代といったものを込める作風は、そのまま文法も英語もろくに分からないギャングだの麻薬の密売人たちの言葉が、強烈なリズムに乗って若者達の間で大流行する素地にもなる。

このような文化背景が存在したアメリカでは、わずか20年で英語自体が変化していくのは仕方がない。これは、意識の流れという方式が捲いた「意味が分からなくても、無意味でもまったく問題ない」という言葉の楽しみ方が、ついに英語というジャンルを大きく変化させるところにまでたどり着いたね、万歳、おめでとう、やったぜイェー、という話である。

が。

これはあくまでも、文法はまだしも、意味がまだ通じる世界。世の中、いっちゃってる連中と書いて、気づいちまったやつらは、今度は文法を乗り越えて、言葉も乗り越えて、歌詞そのものを破壊することに気づいてしまう。その結果、ボブ・ディランがいたおかげで文法ごと英語を変質できたアメリカとは違い、日本ではまったくといっていいほどラップもヒップホップも言語を変質させることが出来なかった、にも関わらず、変な日本語の歌が強烈に愛され始めていく。

破壊された歌詞というもの[編集]

ラップという文化がなしえたこと。それは、言葉をリズムに乗せることで、ベースやドラムにギターのリフを乗せる感覚で、声質もまた楽器の一部だということを深く音楽文化に浸透させたことである。ボイスパーカッションとかいう話ではなく、サッチモのシュビドゥバやジェームス・ブラウンのゲロッパ、ブルーハーツのリンダリンダリンダリンダリンダといった具合に、意味が分からない言葉でも、リズムに乗せると気持ちがいい。さういえば、日本にも俳句和歌といった、短いセンテンスをリズムに乗せて謳い上げる文化があったっけなあ、関係ないけど。

なんにせよ、意味が分からないんなら、意味いらないんじゃね?てゆうか、歌詞もいらないんじゃね?という話になると、やけに日本語は強かった。

なお、この方式には既に前任者がいて、1980年代にヘビーメタルが開拓し、デスメタルが行き着いた場所である、歌詞に意味有るけど別に客が聞き取れなくても、リズムに乗せさえすれば気持ちいいよね、が存在。むしろデスメタルの歌詞をしっかり歌ったら危なすぎるからこそ、こういうスタイルが根付いたとも言える。

それが行き着いた結果、マキシマムザホルモンのスタイルが出来上がる。むしろ、文学的観点で彼らのスタイルを説明することが出来うるという時点で、文学のほうが恐ろしい。意識の流れという技法には、さすが、ノーベル賞を生み出すだけの力がある。なお、マキシマムザホルモンの大きな特徴として、彼らは英語を無理やりに日本語として間違うことで歌詞という概念を破壊しつつ、英語で別の意味をしっかりと残すという技法にも長けている。そのため、無意味は日本語の部分だけであって、ところどころ日本語で込められた英語の歌詞などにはちゃんとした意図があり、そういう点において大変に手が込んだ作品が創られている。

ただし、それ以上に、ファンを引っ掛けてやろうという、ある意味、表現者として正しい思想がしっかりと見てとれ、よりファンの無意識に眠るマゾっ気を刺激している。