戸沢盛安
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戸沢盛安(とざわもりやす、1566年~1590年)は、戦国時代のサムライ。秋田県在住。ご先祖様は桓武平氏で戸沢村第18代村長さんにして、村の面積を大きく広げた人物である。たったの24,5年しか生きられなかったが、武将としての評判は(奥羽のド田舎大名のわりには)頗る付きである。早世が惜しまれたりしているが、長生きしてても名を竹帛に垂れたかどうかは判らない。
[編集] 経歴
- 厨房時代
- 不幸にも早死しやすい家系(親父と息子を除く)のため、病弱の兄・戸沢盛重から厨房の年齢で村長の座を譲り受けた。
- その頃からケンカで地元じゃ負け知らずだったため「鬼九郎」だの「夜叉九郎」とあだ名を付けられ恐れられた。
- 智勇兼備の将と言われているが、大抵自分だけ真っ先に突撃する馬鹿(褒め言葉)だったため、猛将のイメージが強い。
- にも関わらず敵の怪我人や捕虜は絶対に殺さなかったと言ういい人ぶりも発揮している。
- 大学卒業後
- でも早死の家系が災いし、死にかけながらも猿の北条攻めにはちゃんと挨拶に行って褒められた。
- が、その直後光になってしまった。享年25歳。
- なお、死の間際津軽為信に対して「僕の分まで生きてください」と語ったといわれ、この美談に心を打たれた秀吉は為信の惣無事令抵触に恩赦を出し、大名としての独立を認めたという。
[編集] 死後
- 病弱な兄、盛重は盛安がエテ公に頭を下げたことに不満を持ちヤンデレになったそうな。でも大体同じ時期に死んでいる。
- 弟・戸沢光盛も兄・盛安同様早死のDNAのせいで朝鮮出兵に行く途中に光になってしまった。享年17歳。
- しかし、息子・戸沢政盛はなんとかやりくりしてくれたようで、お家断絶の危機は免れた。お家は明治までしっかり生き残った。