扶桑

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扶桑は、日本が手に入れた最初の自称戦艦である。

概要[編集]

ド貧乏だった明治政府が子供を青い目の外国人に売り飛ばして作った金で、やっとの思いでイギリスから購入した装甲コルベット鑑である。巨大な外輪を覆う、これまた巨大なオーバーフェンダーと絞り込まれた艦体、前方に長く伸びるV型8気筒レシプロエンジンが特徴。英国製ならではのスポーティな運動性を誇り、アメリカなどの超巨大艦と違って、着任3ヶ月目の新人航海士が全速力で航行中に面舵一杯に転舵してもひっくり返らない安定性から、練習艦として重宝されたという。

状態[編集]

どこをどう見ても戦艦とは呼べないような貧弱な船だったが、当時の日本海軍で唯一、装甲で囲われていた船だったため、外国人に笑われようと、兵隊さん達を洗脳して無理矢理に戦艦と呼ばせ続け、戦わせ続けた。製造時に欠陥が発覚、外輪が勝手に外れて敵艦に当たる事故発生の可能性があったが、車輪飛ばしは特に上陸作戦における貴重な攻撃方法と考えられたため根本的な改修はされず、その後、攻撃力・速力アップのため外輪にロケットエンジンが装着された。のちのパンジャンドラムである。なお二代目も同様に様々な欠陥が発覚しており実戦参加の機会は少なかった。

艦歴[編集]

日清戦争中国人から本物の戦艦をぶんどると、「ポンコツには用なし」と、二等戦艦へ格下げされた。

日露戦争に勝つといい気になって、さらに二等海防艦へ格下げされ、最後は解剖戦艦としてくず鉄になったとされる。

しかし当時の艦船解体は実に杜撰なもので、廃艦となった艦船から大量に流出した鉄板が呉鎮守府から周辺に持ち出されて広島名物お好み焼きに使用されたり、マストが漁船に使用されたり、菊の紋章の代わりにドクロマークをつけて海賊船に改造したりという例が報告されている。横須賀でも艦の部品が横浜あたりに流出し、黄金町あたりの女性に無理矢理持たせて艦娘と称したり、艦がいつのまにか捕鯨船になっていたり、艦首に大穴あけて波動砲と称したり逆にドリルを装着して土木工事に使用したり、艦橋を逆さまに船底につけて第三艦橋と呼び転覆防止用のウェイトにするなど、様々な魔改造の材料になった。現在でも横須賀では戦艦天城が現役で使用されており、大正12年の関東大震災後は、艦首も艦尾も主機も兵装も艦橋も全て撤去した、船としては最もシンプルな姿となっているという。

後年の捕鯨艦長門や、サブマリン戦艦空母蒼龍、飛行万能潜水艦伊403などと同様、この艦も戦後の目撃情報が東京スポーツやムーなどに寄せられている。スリガオ海峡で、スーパーフェリー⑨号が転覆沈没した事故の際、どこからともなく、海賊旗をはためかせ三連装主砲を装備した姿で出現し、全身黒ずくめで胸にドクロマークをつけマントを翻す艦長や他の乗組員が生存者を救助し、どこへともなく飛び去ったという。この艦は全長400mくらいあったとのことで、同地で真っ二つに割れて沈没した二代目をつなぎ合わせたという説が当初有力であったが、古風で豪華な船尾楼が決め手となり初代と判明した。

二代目[編集]

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二代目は念願かなって本物の戦艦になったが、構造計算偽造などが相次いだ欠陥戦艦になってしまった。そのため、柱島艦隊旗艦、ホテル帝國海軍などと呼ばれた(後述)。最期は想定通りに遠征して艦隊決戦支援任務を行ったが、味方が寝てしまってたため、敵の戦艦6隻重巡4隻軽巡4隻駆逐艦、合計26隻と、戦艦2隻重巡1隻駆逐艦4隻の、たった7隻でガチの艦隊決戦をする羽目になってしまい、アメリカ軍の格下の巡洋艦駆逐艦にフルボッコにされ、爆発して木っ端微塵になり、兵隊さんと一緒に海の藻屑となった。最期の姿は、時雨が決死の逃走劇の末持ち帰ったが、「敵戦艦を撃破!」とマッド動画にされ日本中の映画館で晒し者にされてしまった、不幸だわ… なお、艦これへの実装が遅くなったためあまり知られていない山雲・朝雲のことも、時々は思いだしてあげてください。

外観[編集]

戦艦ふそうの舷側には、大量のタイヤがぶら下げられていた。これは強行接舷し、日本独自の最強兵器である竹槍とサムライソードやニンジャソードで直接敵兵の首をはねるためであった。実際、中国戦線では、「迎春剣」「斬鉄剣」「満鉄剣」「壊園剣」「野球剣」「楼観剣」「白楼剣」「天空剣」「自慰覚醒剤謎函数千百」などの魔剣が使われ、24時間で30万人の首をはね、10秒83という百人斬り世界記録を樹立したといわれる。先代同様に衝角を装備しており、スリガオ海峡海戦でも使用され、大和特攻にあたり参考にされた。

艦橋は、純和風の五重塔をモチーフに建造された。これは、小乗仏教の仏塔では、いくら神仏習合とはいえ夷荻に勝利するには縁起が悪いとされたためであった。湘南地方にある大学の図書館に酷似した21階建ての艦橋は、桃山時代を思わせる豪華絢爛な内装もあり、しばしば「ホテル帝国海軍連合艦隊旗艦」などと呼ばれた。ただし同艦が連合艦隊旗艦となった例は、訓練のため一時的に旗艦となった例があるに過ぎない。艦橋の大型化はその後も試みられ、高雄型重巡洋艦でも、司令部設置の必要性から、東京駅駅舎を思わせるバロック建築の巨大な艦橋が設置された。これらの艦では、エレベータの容量が足りず兵員の移動に困難をきたしたため、東京芝浦電機の技術でモノレールの運行が行われた。その後、第四艦隊事件をきっかけに重量超過や安定性が問題となり、エスカレーターに置き換えられた。

周囲を圧倒するかの如き高さを誇るふそうの艦橋がよく分かる

兵装[編集]

主砲は黒くて太くてたくましい43センチ砲であり、主に周囲の、覆いを付け忘れた銃座に多大なる損害を与えた。

艦首にある菊のロゴは、後年のヤマトと同様に最強の兵装であったが、当時のエネルギー不足を無視した設計から、ちゃんと120%までエネルギーを詰め込めないことがしばしばであった。

舷側のタイヤはしばしば敵艦に飛ばす武器として使われ、爆薬などを詰めて飛ばされた。

関連事項[編集]