承久の乱

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承久の乱とは、神武依頼連綿と続く皇族の歴史に刻まれた古傷の一つ。武烈天皇の奇行、南北朝分裂、紫衣事件等よりも、はるかに深い。

概要[編集]

端的に説明すれば、後鳥羽上皇という血の気の多い皇族が、喧嘩を吹っかけてフルボッコに返り討ちにされ、島流しにされるという醜態をさらした事件である。しかも負かされた相手が武士と呼ばれる、蛮族も同然の新興勢力であったことから、朝廷の権威は地の底まで失墜した。上皇は大義名分がこっちにあるから勝利は確定的に明らかと思っていたようだ。戦後も、いくら野蛮な武士でも皇族である自分に重い処分は下すまいとたかをくくっていたが、島流しという重い処分に処された。

経緯[編集]

事件の端緒を切り開いたのは、後鳥羽上皇の寵愛を受けていた白拍子である。白拍子というのは、ようするに遊女、あるいはストリップダンサーで、性根の卑しいビッチが多い。彼女は、後鳥羽天皇から直々に土地まで拝領していた。その土地には地頭が派遣されていたが、彼女がこれを追い出そうとしたことで軋轢が生じ、血の気の多い後鳥羽上皇は倒幕に考えを傾斜させた。元々、馬術や弓術など、武道に卓越していた後鳥羽天皇は、朝廷と武家政権、両方を掌握することを画策していた。そして遂に、過激派の公卿を糾合して狼煙を上げたのである。

推移[編集]

後鳥羽帝は、真正面からぶつかったわけではない。鎌倉の武士達に対して、朝廷の権威をチラつかせて脅し、一方では恩賞給与を示唆して飴をしゃぶらせ、懐柔に励んだ。鎌倉の武士達は朝廷からの勧誘を適当にあしらっていたのだが、後鳥羽とその周辺は「手ごたえあり」と思っていたらしい。

執権北条義時は、長男泰時らを派遣、東海、中部、北陸の三ルートに分けて軍勢を進めた。対する朝廷側は、まあそこそこ奮戦したが、後鳥羽が武士達を見捨ててその首を土産に義時に降参するという風聞が飛び交って士気が低下、統率が乱れ、そこを泰時達に突かれて算を乱して潰走した。

戦後処理[編集]

幕府との合戦を主導した後鳥羽上皇と順徳上皇は主犯として島流しにされ、荷担した公家の多くが死罪、追放の憂き目にあった。尚、土御門上皇は穏健派で、幕府との合戦に反対していたのだが、「昔から悪事は三羽烏が引き起こす、ワシが三羽目の鴉だったのだろう」と勝手に思い込んで、幕府に自分も処罰してくれと強く主張し、他の二上皇同様流罪となった。

承久の乱で朝廷の権威は失墜し、逆に武士の勢力は拡張された。さらに、これまでは西国には幕府はさほど干渉できなかったのだが、戦勝の余生を駆って義時は西国各地に地頭を設置し、日本一円を完全に掌握した。結果として、後鳥羽上皇は幕府の磐石化に貢献したことになり、皇国史観の観点から見れば、皇族でありながら逆賊ということになってしまう。後鳥羽帝は、武術を嗜み、北面、西面の武士を増員するなど、武家かぶれの振る舞いが多く、そういう野蛮な武士への傾倒に対してバチが当たったのだ、と平泉澄は指摘している。

尼将軍の演説[編集]

承久の乱に言及する上で欠かせないのが、北条政子の演説である。彼女が鎌倉に集った御家人達に檄を飛ばしたことで、御家人は一丸となり士気は大いに昂揚した、と言われている。だが実際は政子は演説などしておらず、彼女の書いた檄文を安達景盛が読み上げただけである。その檄文すら、彼女が書いたかどうか確証は得られていない。

後世への影響[編集]

有史上、皇族以外の人間が皇族に対してここまで重い処分を下した事例は他になく、朝廷の権威は瓦解、失墜した。また上皇を流罪に処した北条義時は、このために後世の勤皇家から逆賊、大悪党と糾弾されることとなってしまった。

北畠親房神皇正統記の中で、後鳥羽帝が天皇になってしまったことを「何かの間違いである」と指摘しており、後鳥羽みたいな阿呆が廟堂の頂点に君臨して朝廷を脱線させなければ、もう少し早く倒幕が成就したと愚痴を零している。また足利義満織田信長はこの事件の結果を援用して、こちらに大義名分があれば帝を殺害したり排斥しても許されるといって朝廷を乗っ取ったり潰そうとしたが、海千山千の天皇や公家達の方が一枚上手で、義満は毒を盛られて、信長は本能寺で襲われて頓死した。