抽象的

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

抽象的(ちゅうしょうてき)…ってのは、言葉で言い表せるものじゃ、無いと思うんだよね。

概要[編集]

人はさ、自分を表現するために__こうだよ、って伝えるために、言葉ってツールを作ったんだ。でもね、想像してごらんよ。世の中ってさ、そんな簡単に説明がつくものじゃないと思うんだよね。例えばがあるだろ。でも、海を全く見たことが無い子供たちに「海には水がたくさんあるんだよ」「海の水はしょっぱいんだよ」って言って、それで「海」を完全にわからせる、ってさ…無理だと思うんだよね。

百聞は一見にしかず、って言うじゃない。でもさ、「見る」ってのもまたツールの一つじゃない。「視る」のは眼球だけど、「見る」のは眼球じゃない。そう、物を見るのは僕たちのなんだ。

心ってどこにあると思う? 昔の人はさ、「心」は胸の奥、どきんどきんと脈打つ心臓にあるって思ってたんだよね。それがすなわちハート。でも、心臓はを体に送る器官。たしかに心が揺れ動けば心臓も早くなったりするけど、心臓が心を動かしているわけじゃないよね。じゃあ…つまりなんじゃないか、と学者たちは言うよね。つまり僕たちの「からだ」を突き動かすのは、コンピューターである「脳」だって。だから「脳」は「心」なんだってね。

でも僕はそれはちょっと違うかな、って思ってる。バイアスって知ってるかい? さっき言った「見る」と「視る」の違いなんだけど、脳はものを正しく判断しているわけじゃないんだ。計算をめんどくさがって、しゃくし定規に判断してしまうこともある。それがすなわちバイアス。身体に備わっている一切の感覚器を使わずに、脳が計算を放棄してさっさと処理してしまうんだ。

有名な話で、脳には左脳と右脳の違いがあるっていうじゃん。まあ、最近の学説では右脳が直観、左脳が理知ってのは証明できないって言われてるんだけど、理性感情を司るのは「脳」だとしても、それだけじゃないと思うんだよ。

仮にどんなに科学技術が発達して、脳をそっくりに模したAIが出来たとしても、そこに「心」の花が咲くかどうかは分からない。仮にそれっぽいものが出来たとしても、それは単に「AならばBと判断せよ」っていう処理だけにしか過ぎないんじゃないかな。それは果たして「心」って言えるのかな。

僕はね、「心」は一人で育つもんじゃないと思うんだ。赤子のまま密林に放り出されて、そこでターザンみたいな生活を送っても、果たして「心」が生まれるのかどうかは分からない。ターザンにはチーターが、アマゾンにはバゴーが、ターちゃんにはエテ吉とゴリさんがいたから、「心」が出来たんじゃないかって思うんだ。心はつまり、慈しむこと、大切に想うことと言い換えることも出来るんじゃないかな。

よく「こころない」って言葉があるよね。みんなも感じたことあるんじゃないかな。でも、その「こころない」は本当に「心無い」なのかな。合理的に判断をしているだけなのか、もしくは本当に「相手が苦しんでいるのが好きでたまらない」のかどうか、もう一度考えてみるべきだと思う。そして後者の場合、それもまた「悪の心」なんじゃないかな。心が「悪」に満ちているから、非合理な判断を下せるってのは間違っていないと思う。だって、同族を生きるため以外に殺せるのは、総ての動物の中で人間だけなんだからね。

だから、「心」ってのは、「」だけじゃなくて「」もあるものってことなんだと思う。誰かがこう言っていたね。「誰かを助けるということは、別の誰かを助けないということだ」とね。つまり善として行っていることも、別の誰かから見れば悪なのかもしれない。そのジャッジを下すのは、理性じゃなくて心なんだけどね。


寄り道したけど、海に話をもどそう。

海について語ったとしても、写真をいくら見たとしても、ひいては実際に海に暮らしたとしても、それを完全に「理解」するのは無理だ。人間は自分自身という一番身近なものさえ、完全に理解することはできないんだからね。だから、人間はどんなことであっても、全知になることは絶対に出来ない。仮に自分で小説を描いたとしても、その作品の全てを把握するのは作者であるきみ本人でも無理だ。

だからと言って、「理解」することを放棄してはいけない。「理解」は人に与えられたただ一つの牙だ。動物の長所ってのは、どれも生き残るために進化していったものだけど、この発達した知能もその一つだ。だってそうだろ。猿のように身軽ではないぼくらは、知能が無ければあっという間に野獣の牙にかかってお陀仏だ。というか、氷河期が来たころには寒さで凍死して絶滅しているはずさ。そうでないということは、人間は自分に足りないものがなんであるかを思索し、対応できるってことだ。

そんなわけで、僕たちは何も知らない世界に放り出されているわけだけど、その世界を知ろうとしないのは死にたがっているようなもんで、自ら「無知」「未知」に立ち向かっていかなきゃいけない。これはではない僕たちに与えられた使命だ。世界は言葉では言い表せないが、その言葉では言い表せないということも知っておかなければならない。全知になる必要なんて欠片もないけれど、僕たちは知らないままではいられないんだ。なぜなら、それが生きるということだからだ。ただ呼吸して食って寝るだけのことを生きるとは言わない。生きるためには知ることが必要だ。だから、僕たちは知った者を仲間に、そして次の世代に伝えるために、言葉と言うものを発明したんだろうね。

言葉は不便で、厄介なものだ。でも言葉があるから、僕たちはを育むことが出来るし、未来を作ることが出来る。不便なものは、決して不要なものじゃないんだ。

そんな不便な言葉で綴っていく、総ての事。

自分を他人に伝える、総ての事。



_______________それが、抽象的ってことなんだ。



関連項目[編集]