数学問題作成問題

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数学問題作成問題(すうがくもんだいさくせいもんだい)とは、古来より多くの数学者、教育者を悩ましてきた数学の難題である。

この難問を見事解決した数学者たちの多くが、天才と称され、その分かりやすい問題とともに後世に名を残している。

概要[編集]

多くの数学を志す者たちにとって最初の一歩となるもの。それは数学を理解することである。つまり、「なんでこうなるの?」「どうしてそうなるの?」という問いに、数学的観点から答えを出す方法を理解することこそ、数学という学問の最初の一歩である。

んで、どーしてこんなアホみたいな一歩を記さないといけないかというと、数学というものが、単に数字の塊だけで出来ているわけではないという、心底たまらん話があるためである。実際、数学という分野にはトポロジーだのゲーム理論だのといった、数字関係ないじゃん、それという、ワケが分からない分野がある。

それらは、まず最初に理論があって、そこに数字を当てはめると考えたほうが。トポロジー(位相幾何学)は粘土遊びを数学で表しました、ゲーム理論は、ギャンブルを数学にしましたとかなんとか言ったほうが、説明するほうも

そのため、まず数学というものを理解したのち、数字うんぬんへと移項しないと、後でこういった話に触れたときにどうしても数字うんぬんを抜きに考えることができなかった結果、最終的に思考自体が数の奴隷と化して思考の飛躍を妨げ、最先端の数学という分野を理解できないまま、単なる数の底辺に埋もれてしまうためである。

これは、本当にまずい話である。

ちなみに、どこぞのウィキペディアにおける数学の記事では、数学=数字に関する学問という説明がまったくなされていない。あくまで、定理公式といったものが主であり、数字はその中で動くコマの一つである。

これが、2011年現在、数学といわれる学問の偽ることのできない真実である。

理解[編集]

理解というものの最初の一歩。それは、例えるなら、1+1=2という計算式については、見れば分かるし触れば分かる。なめても匂いを嗅いでもなんだったら、「1つのものと1つのものが一緒になれば、2つのものになる」などという文章ですら表現できる。

つまり、それが理解である。ちなみに、上記のような話をしてもトーマス・エジソンはどうしてそうなるか分からなかったことは認める。あわせて、ここはあくまでも、理解したという前提で話を進める。

つまり、そこにあるように、1+1という事実を頭で消化して納得して記憶して、その他もろもろ応用していくことが理解であり、その結果、答えが2になることは、理解の範疇である。

そして、このような話が掛け算になったり、割り算になったり、方程式微分積分三角関数ベクトル行列などなど、うんにゃかわんにゃかほにゃらかぴーとレベルアップし続けていく中、徐々に知らない分からない連中になぜそうなるか理解させるために大変な労力と準備、そして理解させるための才能も必要になっていく。

もちろん、数学的素質のある人々はそういったほにゃらかぴーでも、単なる数字と記号、計算式だけでなぜそうなるのかがが理解できる。しかし、多くの人間はなぜそうなるのか?いったいどんな場合にそうなるのか?といった話に、分かりやすい実例がないと、まず頭の中で分かんないという感情がオーバーヒート。緊急的に忘却という名のストレスを一気に減少させる感情を脳内に撒き散らして、一時的に熱された脳を冷やそうとする。その結果、脳は無事でもテストのほうが無事でなくなってしまうことが、よーくある。

これが小学校から中学高校大学へと通じる数学と言われる学問の一つの体系である。

すなわち、分からん連中をオーバーヒートさせてふるい落として、数少ない分かった連中が理解という知恵の実を全て総取り。脳内の多幸物質と選民思想に近い幸福感を一身に受けて、次の階段へと突き進む。けれども、残念。数学という名の階段は、大学から先も、ゼミナール、研究室、専門誌と続いており、最終的に一握りの成功者になったところで、そのどこが素晴らしいか分かる人間がほとんどいない。たとえ、フェルマーの最終定理などといった世界的な難問が解けたとしても、それを解けたことが分かる人間は世界に100人いるかいないか。この段階で、いかに数学という学問が理解されがたい数学であるかが見て取れる。

でも、やってる本人にとっては大変に幸福である。金もかからんし

しかし。そんな理解しがたい数学が、問題を作成する才能を持った人間が現れるだけで、いっぺんに分かりやすい世界に早代わりする。ちなみに、そんな実例を挙げるとするなら、いわゆる微分積分学がどういった学問であるかを理解するには、ウィキペディアなんぞよりも、アンサイクロペディアのほうが上。確実に上。これは、厳密に言えば間違っていたとしても、テッキトーにドーデモヨクテ面白く、なおかつそれほど大間違いでなければ、数学なんてものの理解はそれでじゅーぶんという、恐るべき真実による。よーは2次元を3次元にしたり、その逆をしたりするだけの学問を、めんどくさく考える必要なんざねーっちゅうことである。

応用される数学[編集]

数学にはもう一つ、重大な欠点がある。それは、ピタゴラス教団が数字を信仰したように、数字と公式こそが、もしくは神の摂理と考えるような、数学原理主義者とも言うべき、一方的な数字への思慕が現在の数学のカリキュラムには満載されていることである。つまり、全ての学問の根本に数学が存在し、世の中は数字が支配しているという、よーくある、見ててドン引きする考えはしかし、実利にとって考えればさほど重要ではなかったりする。ここらへんはそこらへんの物語を見てればよーくわかる。

実際、歴史的に見て、近代の科学系統に属する学問では、前述した数学の階段から転げ落ちた連中の中に、軍事マニアや飛行機好きが数多くおり、そういった連中が自分の好きなものをとことん極めていった結果、物理学やら工学といった分野が数学的な発展を遂げたことは事実である。その結果、弾道学やら航空力学という数学の一分野を形成されていき、そして、これらの分野では、数学は神でもなんでもなく、人が使用できる、操作できる、なおかつ実用的な存在が求められるため、あくまでも人間が上、数学が下であり、求めらる人間の考えにそって、数字のほうを色々と組み替えていくのが当たり前となっている。

でなけりゃ、人間工学なんて単語が出来るわけがない。

ちなみに、シヴィライゼーションをやれば全てにおいて実感できる話である。

結局、最先端になればなるほど世界のほんの一握りの人間にしか分からない数学という分野は、実際は苦しみと悲しみ、忘却と嫌な記憶が満ち溢れた人間でも、十分に応用できる分野である。しかし、多くの場合において、数字と公式が分からない程度のトラウマと単なるテストの数字がそういった考えを縛り付け、発展を阻害する。けれども、そういった害悪を少しでも無くすために必須なものもまた、苦しませず悲しませず、誰でも分かり、なおかつ覚えやすく、何よりも後世に引き継げる数学の問題であったりもする。

そして、その誰でも分かる数学の問題を作成できる能力を持った人であり、そしてその問題を使用して子供たちを導くためのカリキュラム(指導方針)である。で、なーぜーだーか、そういった存在が数学という学問の周辺にもんのすごく少ないというのが、この記事で採り上げる数学問題作成問題である。

ちなみに、航空力学や、弾道学についてはそういった教育に関するカリキュラムは異常に発達している。なんせ、戦争のたびごとに実例が腐るほど出来上がるんだから、好きな連中にとっては本当にたまらない話になるわけで。

実例[編集]

数学にまつわる様々な負の感情を知らない多くの子供たちやら生徒達から、どうやって脳内ストレスを発散させないように導き教えるか。これは、多くの学問においても同様の難しい問題である。しかも、数学においては、基本、計算式やら数字という、なんら感情を押しはさめない存在が対象となるため、その難しさが一段上になる。

まぁ、人によっては公式にを見出し、生涯をかけて追い求めたくなる存在であることは認める。

しかし、そういった話にいたるまでには長い長い道のりが必要になる。そのため、まずは誰にでも分かる数学を子供たちやら生徒たちに触れさせることが、教育てえものの第一歩目になる。

ちなみに、こういった数学の話を一番分かりやすくするのが、目の前に実際に存在する事象を数学の問題を用いて理解させることである。前述の1+1=2も、小学校1年生の教科書では、りんごみかんを使って数えさせることでというものがどういったものであるかをまず説明。そこから少しずつ十二進数と深く関わる時計の見方や九九のやり方を教え、そして割り算に筆算定規コンパス分度器を用いた直線や多角形、グラフ方眼紙に角度といった様々な事象を頭に叩き込むことで、子供たちに、数学は怖くないものという、とてつもなく教育において大事な刷り込みを行うのである。

けど、それでも怖いものは怖いことは認める。でも、そいつぁ大概怖い怖い先生テストの話で、の話ではないわな。

また、こういった初等教育を抜きにしても、惑星地球の自転、公転といった天文学の領域はまさしく、現実に存在する数学の知識を披露する場に他ならず、うれしい楽しい給食だってその歴史をたどれば、農業という国家の大問題と、それに直結する1年の暦の話にぶち当たる。そしてその作成に関しては、ひとたび計算が狂った段階で、関係者が死刑になってもくないほどの重要な数学的問題だった。こういった身近な例を数学と一緒に話せることのできる教育者がいるかいないかで、子供たちの脳内にストレスが発生するかどうかが変わる。

実際、1年365日を12ヶ月に割りふるまでの歴史には、十二進数以上に面白い話がたくさんある。

なお、こういった話は、今はもちろんのこと、大昔から子供たちが数学を順調に覚えるための知識やら方式、それを積み重ねたカリキュラムが存在する。その結果、現在でも楕円に関する様々な設問には、そのまま星の公転が事例に挙げられ、グレゴリウス暦を始めとする各暦の説明と十二進数の話はいつまでもセットで話される。てゆうか、挙げろ。あと、話せ。クソたわけた計算式だけじゃ、覚えられんのじゃ、ボケ・・・などという不穏な考えを多くの数学の教師が持たれたとしても、当方にはまったく関係はない。歴史好きには、公式よりも事実を話したほうがより理解が深まるというだけの話である。

もっとも、九九が出来ないなんていう話は、正直、どうしようもない。実は九九が出来なくてもわかる数学の分野なんて、相当な数あったりもするのだけれど、そこへ九九が分からないけれども、数学の才能がある生徒を導ける教育者が、果たして地球上に存在するかどうかは、誰にも分からない。

・・・まぁ、アルバート・アインシュタインも簡単な計算が苦手だったわけだけれど。

たとえ話[編集]

このように、楕円や暦といった現実に存在するもの以外の、非常に説明しがたい領域にも深く関わるのが数学である。そのため、実例なんてとても示せないような話も多い。実際、虚数なんてものはグラフ上にある線を軸を中心に半回転させるために使う数字といえば、多くの数学に悩む若者が一瞬で納得できる話だけれど、それが実際には、2乗するとマイナスになる数字と説明されているため、余計ワケガワカンナクなっているのが実情である。

結局のところ、簡単な説明を省いて、クソメンドクサイ真理を説明するのが数学の悪いところである。

しかし、逆に言えば、そのようなワケワカンナイクソメンドクサイ、実例を示せない、そんな話であったとしても間単に説明できるのが数学の面白いところである。実際、世界最高峰の理論や公式が、たとえ話やもしくは寓話を使用することで、学研で小中学生を対象した題材として取り上げられるようになったりする。

特に有名なのが、20世紀初頭に簡単な計算式が分からなくて、さらにひげそり用の石鹸の種類を増やすことですら、人生をややこしくするからと拒否したアインシュタインが発見した相対性理論である。これは、最初に彼が疑問に感じた「光速で移動している最中に鏡を見たら自分の姿は写るだろうか?」という、よくわかんないんだけれど、なんとなく、どういう疑問なのか分かる話をきっかけにして、小中学生ですらなんとなーく分かる、資質があったらよーくわかる話を展開。

最終的に、時間は遅くなるという、世界の度肝を抜いた結論に至るまでを大変に面白く、なおかつ、分かる人にとってはわかりやすく、分からない人にはそれなりに面白く説明している。

こういった話は他にも色々と存在しており、古代ギリシャで語られた、俊足の神アキレスがいくら頑張ってもに追いつけないというゼノンのパラドックス。さらに数学者でありながらノーベル文学賞を受賞するほどの文才を見せたバートランド・ラッセルが、図書館と司書の話をモチーフにして分かりやすく集合体という概念と、それに伴う矛盾を説明したラッセルのパラドックスの話など、実際にワケノワカンナイ公式やら数字を使わずに、頭の中で情景を思い浮かべるだけで、数学的な概念を理解できるような話をごくごく簡単に分からせるたとえ話は、数学の発展とともに数多く世の中には存在している。

ただ、これらのたとえ話や寓話というものは、どうしても教師本人の知識話術信頼魅力といったものに左右される。そもそも、教える側が知らなければどうしようもなく、また、生徒もそれは真実であると頭では理解しても、脳がストレスやらトラウマで教師の存在を否定することで、数学が赤点へ急降下なんて話は、どこの学校でも毎年必ず発生する。

そのため、これらの話以前に、教師の実力という大問題が、世の中には存在するのだけれど、この記事では触れない。あくまでも、子供たちに教えることが出来るという大前提に立って説明することにする。

ということで、この項目をまとめるなら、上記の公式や計算式などは、別に教育現場にまったく出てこなくても実は問題ない。中高生の数学のカリキュラムで相対性理論は普通出てこない。ただし、数学的、教育的な話を抜きにしても面白い話であり、生徒達の数学的興味を続けていくためにも、なおかつ、こういった形で人に分からせるという概念やら技術を伝え続けていくためにも、とても重要な話である。なので、本来であるならば、取りまとめられ、目につく形で展開されるべきなのであるけれど、悲しいかな、多くの人間が持つ数学の負のイメージの影響からか、そういったおもろい数学の話は、取りまとめられ一冊の本としては、なかなか世に出ることはない。

ただし、それでも世の中には数学的な名著が存在する。そういったものに関しては後述する。

ウィキペディア[編集]

そんな、理解すること、理解させることが伝える手段を確立させることが大変に難しい数学という学問の中で、燦然と聳え立つ、読みやすく書くなら、さんぜんとそびえたつクソ、後世の人間を切り捨てるために存在するのが、われらがウィキペディアである。・・・本来なら、存在しているとしか思えないだとか、切り捨てるようにしか見えないだとか、仮定形で話すべきなのだろうけれど、ウィキペディアだから断言でいい。

断言する価値がある。訂正、価値がないから断言する。

実際、数々の難しい公式や概念、公式、定理その他もろもろを、大変に知的に論理的に説明するその様は、専門用語で日本人の98%を切り捨てる大変に素晴らしい光景である。ヘドが出るほどの。もちろん、中には大変に興味あふれる題材や逸話、さらには歴史的な系譜といった、覚えるために少しでも手がかりとなるような話が挿入されている場合もある。

まぁ、ほとんどの記事において、そんなものはかけら程度しか存在しない。かけらすら無い場合も多い。

歴史的に見て、土地の測量やピラミッドの建設などに深く関わったピタゴラスの定理の記事にすら、ほんの触れる程度。多くの高校生を地獄へ落とした幾何学についても、クソ面白すぎる逸話のほとんどを無視して、単純な解説とリンクでしか触れないその様は、確実に日本の数学能力を減退さしめる、素晴らしき光景である。

・・・せめて、そこに笑い話でも挟み込むようなセンスがあれば、もだえ苦しむ若者が少なくなっただろうに。

そもそも、本来ならこういった教育関連の話が取りまとめられるはずのウィキペディアの姉妹サイト「ウィキバーシティ」が、2011年5月現在、赤リンクの廃墟と揶揄できるような段階では、日本の教育、特に後世に残るカリキュラムを形成する思想そのものが欠落しかけていることがよーく分かる。

そのため、こういった数学の話については、絶対にウィキペディアを参照してはいけない。それに、もっと分かりやすいサイトがインターネットには数多く存在している。そして、そういったサイトには数々の歴史的な裏話やら、実は現在ではこういったところで使用されているだとか、身近な機械のこの部分を作るために、この公式が使われているといった、あんまり数学とは関係ないけれども、せっかくの知識を忘れないような無駄話を大量に仕入れることができる。もちろん、無駄話ではないけれど、ウィキペディア的に見れば無駄なんだからしょーがねーや。

・・・いや、本当にまずい話なんだけどね。

戦乱などで先生を育てる先生がいなくなった結果、先生の質がものすごく落ちて国勢もそれに伴って落ちるという話は、多くの国家で見られた光景であり、逆に、それまで後進国家とされた数々の国が大きな発展を遂げた裏には、良質な教育者を育成できる場所と、それに伴うカリキュラムがあった。そのため、いつの世でも良質な教育者は文明において賞賛される立場であり、そして国家転覆をたくらむ連中にとっては、暗殺対象としてピックアップされる存在であった。実際、ベトナムでもカンボジアでもイラクでも、教育者を狙ったテロ、もしくは虐殺行為は、後世に大きな影響を与え続けている。

ちなみに、ウィキペディアは確実に数学を含めた全ての学問を暗殺対象としてピックアップしてる気がしてならない。なぜなら、伝える力というものは、結局のところ、コピー&ペーストでは絶対に伸びないわけで、なおかつ、話術やら口調、手振り、身振り、身だしなみ、口臭予防、人生感、思想のバランスその他もろもろひっくるめて、教える側に役立つ知識経験はまったくウィキペディアには掲載されていない。こういった話は、やはりウィキバーシティに分類されるのだろう、きっと。そのため、いつの日かウィキバーシティが整備されたら、生徒に嫌な記憶を与えないような最低限の教師としての心得のようなものも、記事の一つとして取り上げられるかもしれない。

分かりやすく言うと、そんな日は来ないということである。

絶対に来ないということである。

なぜそうなったか[編集]

ウィキペディアのように、数学の世界を望む子供たちやら生徒やらに見渡す限りの荒野を見せ付けるような外道なサイトとはまるで反対の存在として、世界中のカリキュラムを組む数学者が欲し、そして数学に苦しむ学生もまた同じように欲する情報がある。これは1+1と同じく、全ての基本である「なぜそうなるのか」「なぜ、そうなったのか」という話を、全ての数学の問題で詳しく説明できたなら、それは大変な偉業である。

なお、この全ての基本部分である「なぜ」×2を分かりやすく文章に取りまとめた存在は、なぜだか、ウィキペディアにおいて数学のカテゴリ以外、物理学やら化学自然科学といったカテゴリで散見できる。

まぁ、それだけ面白い逸話が多い分野だからこそ、最初の一歩も引き込まれるという話である。

これは、単純にそうなる理由さえ存在すれば誰でも理解できる話が、数学以外の学問には数多く存在していることを示している。そのくせ、その証明に使われている数学の公式なんざさっぱり分かりゃしないなんて話もザラ。けれど、その数学のおかげでその理由が分かった以上、数学はけっしておろそかにしてはいけない分野である。けれど実際には、多くの人間が苦労に苦労を重ね、意味が分からないまま答えらしきものを答案、もしくは論文に書いた後、あるものはたまたま正解に達し、多くのものがそのまま間違いにされて、無かったことにされ、その後はチリ一つなく、人生からも無かったことにされるというのは、実にもったいない話である。

これは、たとえばその問題が因数分解であったとするなら、つまり因数という、割り切れる数分解するだけの話をまず頭に叩き込んでさえおけば、その後色々と応用できる話だったりする。実際、因数分解を現実の世界で使用する例は多々あり、登記簿を書く際に使用するなどという話を実例をもって理解させることで、その理解がよりしっかりとしたものになる。そして、単に計算式だけではどうしても頭では理解できない話でも、文章や事例を述べることで、とりあえずは忘れない話にすることは可能である。理解ではなく、ここではあえて、忘却ではない、記憶するレベルの話である。理解は、そこよりももっと先、ドーパミンを脳内に発生させるレベルの話になる。

このドーパミンにやられると、途端に数学が面白くなることは、まぁ認める。それまでがいかに塗炭の苦しみであるかも、やっぱり認める。ちなみに、どこぞの宗教でも同じである。

悟り、とも言う。

こういった話は様々な伝説やら子供向けの逸話の題材としてもってこいで、読者の脳内に悟りを開くほどではないにしろ、理科という名のドーパミンと、面白さという名のエンドルフィンを発生させることができる。一例を挙げると、「なぜ科学者がそう考えることができたか」という話をすれば、歴史好きも食いつくし、物語好きも食いつく。何より、同じよーな計算式ばーっか使う授業に飽き飽きしている連中の食いつきっぷりは目を見張るばかりである。

・・・授業が面白くないかどうかは、読み手の判断に任せる

そんな話にもってこいの題材として、ベンゼンという薬品の分子構造を研究していたドイツの科学者アウグスト・ケクレが、ある日夢の中でが自分の尾をくわえる姿を見出し、そこから分子同士が輪になっているという構造をひらめいた=「ベンゼン環の発見」という、書く方も読むほうも実に実に分かりやすい題材がある。

ちなみに、この逸話は本人が後で面白おかしく語った話の可能性が高いといわれている。

しかし、たとえ創作だとしてもその分かりやすさインパクトは、なんら分子構造自体を理解していない子供たちにも、その逸話を理解させ、その考えを浸透させるような力を有していることは間違いない。ついでに言えば、どんなにつまらない授業であったとしても、なんらかの話のタネになる。これは、ベンゼンがなぜそうなったか、ではなく、ケクレがなぜそう考えて、そしてそれを思いつくことができたか、というインパクトのほうがより面白く、まるでお経のようなつまらない授業であったとしても、そこになんらかの取っ掛かりが生まれるからでもある。そして、子供たちが高校で分子構造を習うとき、ふと思い出すことで、クソ難しい分子なんて話にとっつかまり続ける手がかりにもなる。

ならない場合はならない

これと似たような話を挙げるなら、入浴中に王冠の中の金の量を正確に測る方法を思いついたアルキメデスりんごが落ちるのを見て、これはりんごに地球が吸い寄せられたのではないかと発想したアイザック・ニュートン、さらには地球の自転を証明しようとして死刑にさっれかけてもなお、それでも地球は回っているとつぶやいたガリレオ・ガリレイといった、ほぼ創作の逸話が世界中に数多く存在している。

でも、まぁ、面白いからよし。

結局のところ、こういった面白さが子供たち、生徒達に習ったことを記憶するための重要な要素となっている。つまり、公式やら数字やらしか書いてないようなウィキペディアの記事で、子供たちにこういった数学的な話を理解させ、楽しませようとしても、不可能、ムリ、諦めろってな話である。もちろん、理解した話を再度刷り込むことならできる。ただし、読んでいて、その理解した話すら分からなくなるぐらいの面白くなさが、ウィキペディアには存在する。そういったことも踏まえれば、逆に、ウィキペディアは数学の公式を完璧に忘れるためには大変にいい場所である。

冗談でもなんでもなく。

面白さの根幹を為すもの[編集]

面白ければ、なんだっていい。これは、どこぞの少年漫画の王道を示すような話ではあるけれど、実は教育の現場においても真理を内包する話でもある。実際、どこぞの儒教なる思想を生み出した孔子なる人物の教えの中には、教育というものは、学ぶことが好きになるよりも、学ぶことが楽しくなるのが一番という、それが出来たら苦労しない最高の事例を臆面もなく後世に提示されている。後の教育者にとてつもないプレッシャーになるような話である。

なら、教えることが楽しくなるような話もしてくれってのが、後世の教育者のぼやきである。

なおかつ、それが数学という、実に面白いと思わせるのにめんどくさいたまらない息が詰まる心苦しい、でもはまるとたまらない学問で実践しようとするなんて話になると、まさにフェルマーの最終定理並みに気が狂いそうな話になる。

その結果、数学の世界における簡単に分かる過去の問題という事例、もしくはカリキュラムに使える話なんてもの。すなわち、こう教えたら生徒は興味を覚えて食いついて、数学を覚えることを楽しめるという話は、さかのぼりにさかのぼって、ギリシャ時代。そんな話が飽きることなく現在にも使用されている。そして、よっぽど新しくても近世やら1600年代。まぁ、時間や速度、力学といった概念は、別に他の実例を必要としない以上、大昔の話をそのまま使用してもさほど差し支えは無い。しかし、その結果として、現代数学における、様々な分かりやすい事例、興味を持てる事例なんてものは、ほんのごくわずかしか存在しないなんて状況になる。

もっとも、それらの多くが、説明するのに理論と数字を使いやがるせいで理解不能になることは否定しない。

ただし、そんな中、ほんのわずかにめちゃくちゃおもろい数学者が出てくるだけで、とたんに面妖な問題が一気に分かるようになるのが世の中の面白いところである。前述した、数学者のくせにノーベル文学賞を受賞したラッセルなんぞは、まさにそういった難しい話を分かり安くする技術に長けた存在であり、分かりやすい文章分かりやすい事例、そしてきめの細かい生徒の心のケアさえ行えば、生徒はすべからく素晴らしい数学を教える技術を学ぶという、まさに数学教育の鑑と言える存在である。

これに対し、正反対の立場にたつ人ももちろんいる。困ったことに、そういった人ほど、天才の度合いが高い。つまり、ナニヲイッテンダカサッパリワカンナイ。結局、常に数学の世界の最前線に立って真理を探究し、様々な問題を様々な角度から研究し、それを検証する立場の人間は、すなわち後世のことなんざ省みなくても構わない。ということである。自分が分かればメモだってなんだって適当に書き散らせばいいという、そんな話がどこの時代、どこの世界でも数学者の周りには存在している。

代表例。カール・フリードリヒ・ガウス

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「カール・フリードリヒ・ガウス」の項目を執筆しています。

どうぞ、ウィキペディアでこの偏屈なる数学界の巨人がいかに数学という世界を広げ、なおかつ、広げたくせに後世に対してまるっきり自分の発見したことを伝えるという重要な話を軽~く考えていたかをご覧ください。なんせ、彼の死後、彼が残したメモから後の数学における重要問題の手がかりがごちゃまんと出てきたため、研究者たちが彼のメモが何を意味するのかを何十年にもわたって調査するという、そんなシャレにならない事実がこの大数学者には存在する。

彼の数学的な発見を後世の人間に分かりやすく教えるために、もう一人の数学的天才であるペーター・グスタフ・ディリクレの登場を待たなければならないという話は、見ているほうには面白いけれども、実際には本当にろくでもない話である。

ちなみに、フェルマーの最終定理に関してはそんな分かりやすく教える技術を持った人が出てきているけれど、ポアンカレ予想では、いまだに出てきていない。

そんな偏屈とは逆に、異常なほど面白くて楽しくてバカらしくて尊敬せざるを得ない数学者ももちろん存在し、そんな彼の会話や逸話を残しただけ、後世の人間は科学に興味を持ち、なおかつ、彼の研究した内容を、彼自身の面白さと同時に脳みそに吸収、彼本人が望んで教えたわけでもない、にも関わらず、後世の少年少女たちに数学の面白さをぶちまけるような、そんな変人も存在する。

これは他業種になるけれど、科学者の中でピックアップするならば、リチャード・P・ファインマン博士その人が、まさに面白さの塊のような存在である。

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「リチャード・P・ファインマン」の項目を執筆しています。

彼の残した逸話は、どこぞの最終定理ではないけれど、こんなスペースに書ききれるようなレベルではない。そもそも、ウィキペディアに書いてある事実がとことん面白い。ただ、残念な話ではあるけれども、数学者の項目でこういった突拍子もない話はごくわずかしかなく、7×9が分からなかったエルンスト・クンマーおよび、7×9を61だの69だの回答した彼の生徒(全員、数学を専門とした大学生)、そしてある橋の上で石を見て物思いにふけっていたところ、ふと気づいて懐から懐中時計を取り出して見、これはまずいとつぶやいた後、懐中時計を川に放り投げて石を懐に仕舞ったアンドレ=マリ・アンペールといった、あまり名の知られていない数学者たちの逸話が、ごくひっそりと後世に伝えられているにすぎない。

ちなみに、アンペールは、自分で家に「主人不在」と書いた紙を掲げて散歩に出た後、帰宅して玄関を明けようととして張り紙に気づき、主人がいないんなら仕方がないとくびすを返すような、素晴らしい集中力の持ち主である。それぐらい、物思いにふけっていたという話である。ただ、残念なことに数学の世界でももちろんビッグネームではあるけれど、それ以上に物理学、特に電気の項目におけるアンペアの元となるぐらいに電磁気学の発展に貢献。こういった逸話も、数学の授業ではなく理科で行われる可能性が高い。あわせて、こんなほほえましい話は別として、人間コンピューターと恐れられたジョン・フォン・ノイマンの数々の奇行やエヴァリスト・ガロワの破滅的な生き様、ニールス・アーベルの悲惨な人生などは、たとえ数学が分からなくても面白く、かつ頭が痛くなる

なぜなら、彼らの人生の面白さと彼らが残した数学をどうやって後世に分かりやすく伝えればいいかという、大変に難しい問題がそこにあるからである。

ま、できるわきゃねえんだ、はっきり言えば。人生の面白さと数字の面白さは別物である。ただし、人物に興味を持てば、彼らが為しえたことを理解するためのエネルギーにはなる。覚えるためのきっかけにもなる。そのかわり、デーデキントワイエルシュトラスといった地味な連中の話がまったく頭に残らなくなる。

両者とも、傑出した教育者として名を残しているけれど。

それはもう、仕方がない。そもそも、こういった数学者を羅列するだけで、けっこうな数の人間が、頭が痛くなっているんだから。過去のトラウマを呼び戻されて。

実に実に怖い話である。

素晴らしきカリキュラム[編集]

数学の世界には、こういった後世への知識の伝達を重要視した先人が、様々な名著を残しており、それはたとえば子供向けであったり、小中学生向け、高校生、大学生と、それぞれの知識レベルに沿って数学書と呼ばれるものが、数学の各分野に点在している。

点在という言葉を使わざるをえないのが悲しい話である。

しかし、逆にそういった人々全てを対象にした本は存在しないのかというと、そんなことはない。特に、日本の歴史においては、そういった庶民の中で数学に関する書物が大ヒットするような話もあり、江戸時代、すでに世界トップレベルの数学的知識が存在。九九そろばん筆算といった計算方法が確率されていたこともあって、庶民レベルで数学的なクイズを楽しむような話が残され、数学を楽しむという文化的土壌がすでに形成されていた。

今は知らない

そんな中でも、1627年に出された塵劫記は、日本人の数学という学問の基礎を築き、そこから和算と呼ばれる日本独特の数学体系を生む、まさに数学の歴史に残る一大名著である。恐ろしいことに、その内容は2011年現在でもめちやくちや分かりやすい。ウィキペディアとは正反対。むしろ、ウィキペディアなんぞと比べては申し訳がたたないレベル。ただし、その内容はあくまでも庶民に数学を分かりやすく教えるという立場に沿って書かれたものであり、米俵一つずつ数えることなく、積んだ段数で全ての米俵を計算する方法や、忍者の伝説などで知られる直角三角形を使っての高さを調べる方法、遺産分けの話など、あくまでも数学が生活と深く関わるものであることを知らせる、そんな内容となっている。

もっとも、こういった話は身近だからこそ浸透したわけで、逆に身近でない数学的問題として、和算では微分積分の中でも微分を軽視していたため、西洋の数学が導入された明治時代に、そういった概念を取り入れることに非常に苦労したなんて話が伝わっている。なお、積分は、図形や体積などを求める際に利用されているのに対し、微分とは、空間やその上に定義される関数・写像を各点の近傍で考え、その局所的な振舞いを調べることによって、それらの特徴を記述する方法である(ウィキペディアより抜粋)。

うん、何いってんだかさっぱりわからん。

まぁ、解析学に使われるということも書かれているため、ようは積分で求めた数値をより厳正なものにするのに役立つ、ということにしておこう。

もう一つ、素晴らしいカリキュラムとして有名なのが、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著したとされる「算術」である。全13巻と言われるこの書物は、その後の戦災で6巻までしか現存しておらず、その後の中世暗黒時代の中、ヨーロッパ世界では完全に忘れ去られた存在であった。しかし、アラビア世界では連綿と受け継がれ続け、かの地の数学レベルのものすっごい発展に寄与。その後、アラビア世界が戦乱に巻き込まれる前に、再度ルネサンス期にヨーロッパ世界へ再上陸したという、実に面白い経過をたどった本である。

で、どこぞのフランスのひねくれ数学者に、やっかいなひらめきを与えたのがこの本だったりする。その内容は、主に方程式代数の問題が主となっており、中でも2巻にある第8問目「平方数を2つの平方数の和に表せ」などという、一見どうでもいいような話、つまり、3の2乗+4の2乗=5の2乗、もしくは5×5+12×12=13×13のといった具合に、2乗した数(平方数)と2乗した数を足して2乗した数になるような、小学生でも分かる問題が、なぜだか世界中の数学者を恐怖のどん底に陥れたフェルマーの最終定理に化けた。つまり、3乗した数どうしを足したとしても、けっして3乗の数字にはならない。ただそれだけの話が、何世紀にも渡って数学者を苦しめることになるんだから、考えない側は本当に楽しい。

誰でも考えられるから、心底恐ろしい

スパイス[編集]

このように、パっと見、無味乾燥でなんら面白みもクソもないように見える数学にも、それを発見した人間には面白さが十分含まれている場合もあり、また、誰が発見したか分からない公式でも、現実で使用されている様々な事例を挙げることで、将来に役立つとか、資格を取るときに有利といった具合に、実に生臭い話で生徒を興味を一本釣りすることも可能である。

しかし、数学の問題という話になるとそう簡単にはいかない。

2006年京都大学入学試験における伝説的な問題「tan1°は有理数か。」というような、アンサイクロペディアに記事が作成されるレベルでぶっとんだ内容の問題は、その後に多くのフォロワーが生まれ、分かりやすい回答をせっせと丁寧に後世に残していくのだけれども、どこぞのダフィット・ヒルベルトが後世に残しやがったヒルベルトの23の問題レベルの問題になると、まず、問題が分からない。解けたこと自体分からない。そもそも1900年に提唱されたこの問題は2000年までに、17個が証明されているけれど、残った6個のうちの2つは、同じように2000年に発表されたミレニアム懸賞問題全7問に引き継がれるレベルの難問だったわけで、そういったレベルの問題ほどえげつない

実際、その残った2つの難問であるポアンカレ予想と、リーマン予想の2つは、その後の数学者たちの地獄の苦しみが記録に残っている分、面白くて面白くて仕方がない。

なんせ、本当に気が狂った数学者もいるし。

で、そのうちの一つポアンカレ予想が2003年に解決されたとき、世界中の数学者がどれほど大騒ぎしたかについては想像に難くない。ちなみに、残りの1つがリーマン予想。長年にわたり、世界中の数学者たちを飲み込んでいったブラックホールである。どこぞの最終定理並みに分かりやすく、そして、気が狂いそうになるこの問題は、素数関数、そしてグラフを理解できれば中学生にもどういった問題だか分かる。

それぐらいにえげつない

つまり、それぐらい面白い。・・・端から見てれば。

楽しい数学の話[編集]

この項目では、上記の記事で漏れ落とした逸話を短くまとめる。なんで脚注にしないかというと、単にめんどくさいだけである。

  1. エジソン少年曰く、1+1=2というんなら、どうして泥団子1つと泥団子1つを一緒にしても泥団子は1つなのはどうしてなの?もちろん、先生から余計なことを考えれるなとぶん殴られました。
  2. トポロジーにおける世界的な難問、ポアンカレ予想が解明されたとき、あまりにも説明がふっとびすぎていて、世界的な100人どころか、誰一人、意味が分からなかったと言われている。その後、世界的な研究者数名が検証してようやく解明されたといわれているが、それが正しいかどうか正確に判断できる人間は、世界に100人いない。
  3. ゲーム理論という学問は、それまで確率常識が支配していたギャンブルの世界に、変人、バカ、アホ、エキスパート、素人、イカサマ師といった様々な概念を数学的理論を用いてぶち込んで、仮定の話を造り上げて、その中でいかに勝てるかということを考えようとしたら、いつの間にか経済学にまで応用できるなんて話になった、と思ってください。アンサイクロペディア的にはそれで十分です。
  4. 人間工学で時速100キロで走る車を停止させる方法を説明すると「まずはアクセルから足を離しエンジンブレーキを使用して減速、次にポンピングブレーキで少しずつ減速した後、最終的にブレーキを踏み込むことで停止させる」。数学で説明するとたった一言「壁にぶつかれ」。
  5. アキレスと亀のパラドックスは、本来は哲学に分類され、人々の思考に沿う形で奇妙な論理を展開するという、いわゆる詭弁に近い話が後世に伝わったものである。同じような思考として、飛んでいる矢について説明すればするほど、矢が止まっていることになるパラドックスや、馬車競技において、馬車が一歩も動けなくなるというパラドックスが存在する。ちなみに、それを聞いていた樽のディオゲネスは、無言で彼らの周囲を歩き回ることで詭弁は、詭弁に乗らなかったらどうってことはないという解答を提示した。なお、その詭弁に乗った連中が、最終的に数学を駆使してまでこの問題を解決するまで2000年以上かかっている。
  6. ラッセルのパラドックスと呼ばれているものは、20世紀初頭に全ての論理は数学で説明できるという或る意味原理主義に近い概念をある数学者が唱えたところ、その反論としてラッセルから提示されたものである。簡単に言うと全ての論理を「全て数学で説明できる論理=A」「数学では説明できない論理=B」と分けることが出来たと仮定した場合、「論理を2つに分けることができるという論理=C」が誕生する。つまり、論理が論理を生む場合、数学でどう説明すんねん、という話である。最終的に、これまた変人かつ世界的数学者であるクルト・ゲーデルによって、数学は全ての論理を説明できないことが証明されることになる。
  7. リーマン予想の深みにはまって気が狂ったとされたのが、若き天才と呼ばれ、後にノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュ。ただし、リーマン予想以前に、人間関係ですでに狂っても仕方がない状態だった。なんせ、リーマン予想に取り組んだ4年後、彼は男の愛人との浮気がばれて妻と離婚している。しかも、38年後に再婚。多くの数学の問題は、直感的に理解できる存在である。けれど、こういった人間関係は、直感的に理解してはいけないと判断できたほうが幸せな気がする。

関連項目[編集]


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本項は第18回執筆コンテストに出品されました。