暗殺したした詐欺

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暗殺したした詐欺(あんさつしたしたさぎ)とは、戦国大名毛利元就とゆかいな信者達によって現在進行形で行われている詐欺行為である。

詐欺の始まり[編集]

戦国大名、毛利元就は、本人の力量もさることながら、織田信長に劣らぬほどの強運に恵まれた人物であった。大内氏尼子氏を始め、周辺の有力大名や元就に敵対した勢力の当主が頓死したり、内ゲバなどで次々と自壊していったため、毛利氏は最終的に中国全土を席巻するほどの大大名になったのである。元就自身もその事は重々承知しており、息子達に

「毛利みたいなちっぽけな大名がここまで大きくなれたのは天運による所が大きい。しかし運はいつまでも毛利家に味方するとも限らない。思いあがって天下取りをしようなどと目論まず、ただ家の保全と安泰を考えよ」

という訓戒を残している。

1566年、毛利氏は長年の宿敵である尼子家の本山月山富田城を3年に渡る攻防戦の末陥落させ、ここに尼子家は滅亡する。しかしこの尼子攻めの最中、元就の愛息である嫡男毛利隆元が陣中で急死するという悲劇に見舞われる。最愛の隆元を失った元就は発狂し、隆元の死は暗殺に違いないと断定、死の数時間ほど前に隆元の饗応をした備前の国人和智誠春を暗殺の疑いにより問答無用で監禁、後に殺害してしまう。元就の怒りは収まらず、隆元の若い頃から守役を務め、股肱の臣として隆元を傍で支えていた重臣赤川元保に対して、側近でありながら隆元を守れなかった事を詰責し、やはり処刑してしまう。尚も元就の怒りはおさまらず、吉川元春小早川隆景が隆元の死因は暗殺ではないと諫言するのも聞かず、何も関係のない人間を隆元を殺した下手人と決め付け何人も手打ちにするなど、精神的に相当憔悴していた。尼子攻めを終え、隆元の弔い合戦を済ませようやく元就は落ち着きを取り戻したが、それでも隆元は暗殺されたと信じ込んでいた。

隆元を失った寂寥感、どこぞの馬の骨ともしれぬ輩に隆元を奪われた悔しさは計り知れないものがあった。しかしそれ以上に、誰よりも権謀術数を得意とし、他者を欺き、陥れることを得意とした元就にとって、自分の息子が謀によって命奪われる、つまり間接的では有るが自分が謀にかけられるなど、耐え難い屈辱であった。それが原因なのかは分からないが、元就は精神を病み、ボケてしまったのか、妄想と現実の区別が付かなくなった。ある時、息子の元春や隆景、他重臣達との酒の席で、こう言った。

厳島の合戦の直前のことじゃ、尼子家で尼子国久ら新宮党が粛清される事件があったじゃろう」
新宮党事件 について、毛利元就
「は、陶との決戦を間近に控えた折、後顧の憂いである尼子が身内で争っておったのは、誠に僥倖でございました。」
新宮党事件 について、桂元澄
「実はのう、あれはわし自ら刺客となって国久を葬ったのじゃ」
新宮党事件 について、毛利元就
「…………」
元就の虚言 について、家臣一同

それはひょっとしてギャグで言ってるのか.jpg


家臣の誰もが寝耳に水の話であった。粛清は新宮党が尼子宗家の意向に従わず、晴久と折り合いが悪くなっており、その軋轢が限界に達した事による晴久の自主的な行動であると皆思っていた。しかし元就が言うには、陶との戦いにおいて後顧の憂いを完全に絶つべく、自ら尼子の家臣に扮して刺客として尼子家に赴き国久を暗殺したというのだ。元就の話が荒唐無稽な作り話である事は明らかだ。そもそも大名自らが刺客となって敵陣に潜入するなどという危なっかしい真似、慎重な元就であればなおさらやるはずもない。

家臣一同皆困惑したが、聡明な元就の三男小早川隆景だけは、これが虚言であること、しかし父は本当だと信じ込んでいる事、そして元就が痴呆になっている事を察知した。もはや父の命も長くないだろうと隆景は覚悟を決めた。

「駄目だこいつ……早く何とかしないと……」
ボケた元就 について、小早川隆景

隆景が察したとおり、それから約5年後元就は没した。その間も元就のボケは益々進行し、実際は自分が全く手を下していないにも拘らず、

「実は○○はワシが手を下して暗殺したんじゃよ」
適当な人物 について、毛利元就

などと虚言を弄しては、家臣達を困惑させ、呆れさせた。

しかし、厳島合戦までの毛利氏がまだ小さな国人領主に過ぎなかった頃より大分家臣の世代交代が進んでおり、厳島合戦に参戦していない若手の家臣も多く、彼ら若手の中には元就の弄した虚言を本気で信じ込む者もおり、本当の話と疑わず元就の嘘に熱心に耳を傾けた。やがて厳島合戦当時を知る家臣達はみな世を去り、元就の口から出任せで言った嘘がいつの間にか真実として定着するまでそう長くはかからなかった。

ちなみに、元就の口から出任せによって「元就に殺された」ことにされた人物の中には国久の他にも江良房栄などがいる。

ゆかいな信者達による詐欺活動[編集]

元就没から約30年、織田信長中国地方を蚕食されたり、豊臣政権の五大老まで上り詰めたり、そうかと思えば関ヶ原では家中の足並みが揃わず大幅に領土を減らされるなど紆余曲折あったが、最終的に毛利家は防長二ヶ国の大名として家名を存続させることに成功した。長州藩の誕生である。長州藩士たちは徳川宗家に激しい敵意を燃やし、いつ訪れるとも知らぬ倒幕による長州藩の天下を夢見ていた。

凌雲の志を抱く藩士達がまず最初に行ったのは「藩祖」毛利元就の顕彰活動であった。前述したように、この頃になると既に元就の口から出任せで言った嘘は長州藩士達の間に真実として定着しており、誰一人として疑うものはいなかったが、彼らはこれに更なる潤色を加えた。その結果、史実ではたんなる病死であった人物まで暗殺されたということにされ、史料まで改竄された。大内氏、尼子氏は既に滅んでおり、敗者の歴史は残されないのが世の常、長州藩士達は文献を手当たり次第に捏造、改竄した。ついには尼子晴久まで元就に暗殺されたということにされてしまった。

しかしやりすぎた結果手痛いしっぺ返しを食らうこととなった。彼らが作り上げた「暗殺の名人元就」という人物像は、必ずしもプラスイメージとはならなかった。松永弾正宇喜多直家にも劣らぬ極悪人ではないかと、悪印象を抱くものの方が多かったのだ。そういう世間の反応を見て戸惑った長州藩士達は、今度は少し手の込んだ捏造をした。

元就を顕彰するということは、即ち、元就に敵対した陶晴賢尼子晴久らを徹底して貶めるということにも繋がる。長州藩士達は彼らに関しての悪い話をでっち上げ巷間に流布した。そして、例えば元就が国久や江良房栄を暗殺したという話は、「元就が偽の書状などを使って国久や江良に叛意があるよう錯覚を起こさせ、晴賢、晴久らを間接的に操って粛清を行わせた」という話に置き換えたのだ。これならば元就は直接自分の手を汚していないし、晴賢や晴久の愚鈍さを強調できて一石二鳥である。こうした意図の下、陰徳太平記などの軍記物が書かれていった。晴賢や晴久の今日における評価が低いのは、これらの軍記物におけるでっち上げに依拠するところが大きい。元就に敵対した人物としては他に大友宗麟も有名だが、彼に関してもキリスト教に感けて治世をおろそかにした、家臣を殺して妻を寝取ったなどロクでもない逸話ばかり残っているが、やはり長州藩士によって誇張、捏造された所が多い。

それから約200年後、長州藩は倒幕を成し遂げ宿志を遂げる。長州藩士の多くは、明治新政府の中枢メンバーとして重きを成した。こうなると最早やりたい放題である。権威を傘に捏造も一層エスカレートし、伊藤博文ら長州藩出身の高官達が主導で嘘を民衆に吹き込んでいった。仕舞いには織田信長李舜臣など、明らかに元就没後に死んだ人物までも元就に暗殺されたということになり、本能寺の変は元就が黒幕、徳川家康は生きていた元就に大坂夏の陣で暗殺されたなど、トンデモ説が巷間を飛び交うようになった。ここまで来ると流石におかしいだろと懐疑的になるものもいたが、異論を唱えると明治政府の刺客に自分が暗殺されるため、だんまりするしかなかった。もはや元就と暗殺は切っても切れぬ間柄となっていた。

かくして、暗殺の名人としての元就の虚像が造られていった。

今尚続く詐欺行為[編集]

山県有朋らが世を去って藩閥政治が終焉を迎え、やがて終戦になると、元就暗殺伝説を鵜呑みにする人はそうそういなくなった。しかし、陶晴賢や尼子晴久に関しては、長州藩士達が必死になって流布したマイナスイメージが根付いており、元就に諮られて彼らが重臣達を殺した、という話は変わらず支持された。

現在もなお、長州藩の末裔らが学会やコーエーの社員として歴史モノの製作に携わっており、大衆を欺き続けている。元就暗殺伝説と晴賢、晴久が愚将であるという「定説」はまだまだ覆りそうにない。

関連項目[編集]