最後の授業
最後の授業(さいごのじゅぎょう)とは、ヨーロッパにおいて列強諸国と呼ばれる国々のうち、今日ではイタリアに次いでヘタレ国家と呼ばれているフランスの作家が、自らがルイ14世の時代に神聖ローマ帝国から強奪して保有していた領土(アルザス・ロレーヌ(仏) エルザス・ロートリンゲン(独))をドイツに奪還強奪されたことを逆恨みして国恥とみなして、自らの尊大かつ筋違いな愛国心に逆らえず書きなぐった、プロパガンダ小説である。
このプロパガンダは1873年に発表されたのち、フランス・ドイツ間の争いとはあんまり関係なさそうな日本でも1985年まで文部省主導の形で、ずっと宣伝され続けていたことでも知られている。
概要[編集]
前述の通り、同書はアルザス・ロレーヌ地方帰属問題のgdgdぶりが生み出したと言っても過言ではない。
中世[編集]
アルザス(フランス語。ドイツ語ではエルザス)はドイツ語で「病のそばに腰を下ろす」という意味を有しているが、その名前の通り、この辺りはもともとドイツの領邦国家を集めた連合体のようなものである神聖ローマ帝国の領土とされていた。しかしながら、神聖ローマ帝国は新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)というキリスト教宗派の対立、それに帝国内で最大の力を持っていたオーストリアとその他の領邦国同士の争いから1618年に内紛を始めてしまい(いわゆる三十年戦争)、その隙を狙ってフランスなど周辺諸国が美味しいところを頂いてしまおうと、侵略を開始した。フランスに隣接していたアルザス地方もご多分にもれず、講和条約で1648年にフランス領へ組み込まれてしまったのである。けれどフランス領にされたとはいえ、その文化は当然ながらドイツ系色が強く、言語もドイツ語の一種であるアルザス語が用いられていた。
近代[編集]
時代は移り近代、ナポレオン・ボナパルト亡き後のフランスはかつての強さはどこへやら、西・中欧諸国の中ではこの頃、国王軍ではなく義勇軍(ガルバルディ)の努力によりようやく統一されようとしていたイタリアに次ぐほど、戦争に対して弱い国に落ちぶれようとしていた。
一方、オーストリアに対して幾度の戦争を仕掛けては勝利し、一度ナポレオンに制圧されるも復興して何時しか列強諸国へ名を重ねようとしていたプロイセンは、この頃になると鉄血政策で知られるオットー・フォン・ビスマルクの元、軍事力を背景としてドイツの統一に乗り出そうとしていた。
ビスマルクは、様々な文化・宗教が入り混じるドイツの世論統一を果たすためには、徹底的に敵愾心を煽り団結心を高める事が大事だと考えていた。そのため計略を練った後、最終的に世間でもよく知られた「エムス電報事件」を起こしてフランスを挑発、普仏戦争を開戦させるに至る。この当時のフランスはナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が統治していたが、彼はフランス軍の(フランス革命時の救国軍のような)高い士気だけで(フランスより遥かに用意周到な準備をしていた)プロイセン軍に勝てるだろうと考えており、まるで太平洋戦争中の大日本帝国陸軍と同じような失敗を犯す形で見事に大敗、捕虜と化してしまった。
そして戦争の結果、フランスの首都であるパリはドイツに占領され、ビスマルクはヴェルサイユ宮殿を貸し切ってプロイセンを盟主とするドイツ統一帝国の樹立を宣言、更には上述のような経緯でフランスに奪われていたアルザス、および隣接するロレーヌ地方の一部をフランスからドイツに割譲させ、おまけにドイツに対して賠償金を支払うことまで講和条約により決定された。
ドイツとしては民族・国家の統一過程において、歴史的に見て明らかに自国の領域にあるべきところをフランスから奪い返したにすぎないと考えていたに違いない。しかしアルザス地方には石炭など資源が豊富に存在することが確認されており、フランスでは自己がブルボン朝やナポレオン帝政時代にやったことはそっちおきにしておいて、そんなところを奪還した奪い取ったドイツに対して恨みを抱く者が多々発生することとなった。
作品の誕生[編集]
この「最後の授業」はそんな風潮の中で生まれた。フランスの(自称)愛国家であるアルフォンス・ドーデは、いずれドイツに対しては雪辱を果たすべきだと強く願っており、フランスがいずれアルザスを再奪還することを正当化しようと、「アルザス地方で用いられていた言語は昔からフランス語であり、ドイツによって占領されたことでその利用が禁止されることになってしまった。ドイツ領になる前日に現地の人は『フランス万歳』と叫んだ」と、事実と全く逆である嘘八百の内容の小説を事実っぽく創作、新聞を通して広く宣伝した。
なおこの作品中で、中心となる登場人物であるフランス国語のアメル先生は「ある民族が奴隸となっても、その母語を保っている限りはその牢獄の鍵を握っているようなもの」というセリフ(フランス語を持つ限りはフランス人であるという論理)をアルザス市民に説いているが、実はこのフレーズはF・ミストラルという南フランスの詩人が、パリを中心としたフランス北部でしか元は使用されていなかった当時のフランス語が、南フランスの独自言語であるオック語を弾圧するように国家教育で南フランスにも広がりつつあることを憂慮して唱えたものである。一方、ドーデは同じ南フランス出身でありながら、F・ミストラルとは逆にオック語は消滅しかるべき言語と考えており、「フランス語をウグイスの美しい声、オック語をセミのやかましい声」と喩えるほどのフランス国家主義、地方言語差別主義者であった。
それなのに、ドーデはその貶めるべきオック語を擁護する者のフレーズだけはパクって自分の文学に取り入れ、逆にフランス語の優秀さを説くのに利用してしまった。まさに恥を知らない作家のダブルスタンダードであった。
ともあれ、この作品によってフランス人はアルザス地方の奪回こそがドイツへの正当な報復であると誤解するようになる。
ふたつの大戦[編集]
そののち勃発した第一次世界大戦によりドイツ統一帝国は崩壊、対戦相手のフランスは見事にアルザスおよびロレーヌ地方の再強奪奪還に成功する。しかしフランスは実際のところ大した成果を上げておらず(西部戦線は膠着状態だった)、それでいて欲だけは尊大で、アルザス・ロレーヌ以外にドイツ領の工業地帯であるザール地方までドイツから切り離そうとし、おまけに普仏戦争の時のそれをはるかに上回り、ドイツ経済が破綻に追い込まれるほどの巨額の賠償金までドイツに要求した。結果として今度はドイツ側にフランスへの報復意欲を与えてしまうことになり、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の台頭、果てに第二次世界大戦の開戦を招くこととなる。これによってフランスは普仏戦争時同様にドイツに占領され、アルザスも再びドイツのものと化した。
フランスは最終的にイギリス・アメリカ連合軍によって解放されるが、連合国の一員としてまともに戦功を上げていないにもかかわらず、アルザス・ロレーヌをドイツから再び取り上げ、更に懲りずにザールをまたしてもドイツから切り離そうと試みた。しかしアルザス地方ではフランス同化強硬政策に反対する暴動が発生し、ザール地方に関しても現地住民がドイツに帰属することを住民投票で可決、フランスの強欲も遂に力果て、ドイツとの協調路線を打ち立てることとなる。
結論[編集]
今日、アルザスの中心都市であるストラスブールには欧州連合の欧州議会がある。これはその経緯から、ヨーロッパ融合および和平の象徴と看做されることも多い。
一方でこの「最後の授業」は、フランス人に間違った見識とそれに基づく汚い欲望を植え付け、結果として舞台となった地を巡る戦争を刊行後に二度も引き起こさせた。今日では人間の愚かさを示す資料として、欧州連合においてはいわば反面教師のように扱われている。