木戸孝允

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木戸孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の政治家のようなもの。西郷隆盛大久保利通と並んで「幕府てんぷくトリオ」の一人。旧名桂春団治

略歴[編集]

幕末編[編集]

天保4年6月、長州萩の藩医和田昌景の次男(実子長男)として生まれる。数え歳8歳の頃向かいの武家屋敷(桂孝古さん宅)を乗っ取り、150石取りを自称するも、両親によって連れ戻される。このとき2ちゃんねるに「小五郎の母ですが……」という書出しで謝罪文が投稿され藩領内で大きな話題となった。しかし、本人は連れ戻しを不服とし、近所の川をゆく何の関係もない舟をひっくり返してまわる等のDQN行動に出たため、懐柔策として藩から90石をゆるされた。


長じて藩校・クロマティ高校明倫館で吉田松陰の薫陶を受ける。「狂気(ラリ)ってなんぼだZE☆」と説く松陰を見ることで中二病の痛々しさを知り、深く自らを省みて、以後DQN言動を(比較的)慎むようになる。そのため、当時のいわゆる長州正義党としては非常に稀な常識人キャラとなり、魔王・高杉等のわけのわからない暴走の尻拭い役をつとめる羽目になった。   嘉永5年(1852年)、当時まだ完治していなかった中二病の名残で、全国デビューを目指して江戸へ赴く。

翌々年、「開国してくださ~い」と例の毛唐が来たため(再来日)、とりあえず見に行ってみる。このとき幕臣・江川太郎左衛門の趣味によって強要された下僕コスプレが存外楽しかったらしく、後年の一時期、乞食・無宿人などの自虐的コスプレが日常化した。

文久3年(1863年)、「やっぱ今アツイのは関西だぜ」との出所不明の情報に惑わされて上洛。「中途半端ないい子」であることへのコンプレックスの裏返しで、他藩の悪そうな奴とは大体友達になる。カツラップもこの頃習得。   同年の八月十八日の政変(堺町御門の変)で、薩摩藩に対するトラウマ其の壱を植えつけられた。

翌元治元年(1864年)6月の池田屋事件の際は、軽い気持ちで遊びに出掛けた対馬藩邸において、不法侵入の朝鮮人と間違えられてからくり天井に圧殺されかかっていたため、それどころではなかった(このことが明治初年、彼が征韓論を主張した遠因になっていると思われる)。

翌7月の禁門の変(蛤御門の変)では、薩摩藩に対するトラウマ其の弐を植えつけられる。このとき、元・練兵館塾頭でありながら、うっかり足を挫いて歩行不能になるという90年代少女漫画ヒロイン並のドジッ子ぶりを発揮する。さらにうっかりなことには足の療養のため京都に長居しすぎ、気がついたときには会津・薩摩による超厳重な長州キリング・フィールド包囲網が敷かれていた。

このとき彼を救ったのが、志士No.1レイヤーの技術と才能である。前述のとおり、なぜか乞食等の自虐的コスチュームを好み、堂に入った小汚さで幕吏を寄せつけなかった。

のち、温泉好きの血が騒いで但馬出石へぶらり旅に出た。

第一次長州征伐・長州藩内クーデター成功後、クーデターの首領であるにも関わらず政務が面倒臭いと主張し即行(クーデター成功の次の月である)で海外に高飛びしようとするも失敗した魔王・高杉の桂捜索隊により、但馬出石に発見される。その後、大村益次郎から「温泉につかりすぎるとふやける」という最先端の蘭学知識に基づく超高度医療アドバイスを受けたため、仕方なく長州に帰る。でもどうせ湯田温泉に入ったに違いない。

潜伏中、後の松子夫人こと幾松嬢が訪ねてきたときは目に見えて元気になっていた、と世話になっていた家の幼女(当時)にすら看破された。この頃から坂本龍馬(土佐藩出身/住所不定無職)の中二病発言に悩まされるようになる。

このニートの対応に苦慮していた木戸は、やはり同様の状況にあった薩摩の西郷隆盛大久保利通小松帯刀らと次第に打ち解けるようになった。龍馬のような痛すぎる不幸なニートを生んだのは現今の格差社会であるとの結論に達したかれらは、一致協力して社会変革を行うことを誓う。これが薩長同盟締結の経緯である。

しかし骨を折って藩内の反薩摩派を押さえ込んだと思ったら、肝心の西郷に会談の約束をすっぽかされる。これが薩摩藩に対するトラウマ其の参となった。

明治編[編集]

由利公正福岡孝弟らの案を修整して、十七条憲法を制定する。第一条の条文「和を以て貴しとなす」とは対照的に、この当時木戸は征韓論を主張していた。ただし、「キムチは痔に悪い」とボードウィン及び大村益次郎から注意されたため、痔主の木戸は朝鮮料理への興味は一応喪った。

歯痛や二日酔等に悩まされながら、開明派の領袖として近代国家の創設につとめる。昔を思い出すと漏れなく泣く。将来に思いを馳せても漏れなく泣く。そしてとどめに不満と愚痴を述べて、人に嫌な顔をさせていた。かといって、油断して怒らせると漏れなく火鉢や黒田清隆を投げつけるので注意が必要である。   明治4年(1871年)、ユニセフ親善副使に任命され、大使・黒柳徹子の鞄持ちをつとめる。正直黒柳の年齢がいくつなのかわからなかったと、同行の久米邦武が記している。

外遊中は、ソルトレイクシティの温泉が痔の治療に有効であることを発見する等大きな収穫もあったが、条約改正交渉は不首尾に終わる。すっかり黒柳徹子にかぶれて『窓際のトットちゃん』を読み耽る伊藤博文にむかついたり、森有礼は森無礼だと思うようになったのもこの頃からと思われる。

アメリカ滞在中、留守宅の妻松子(幾松)から「あなた私の小間使いの子に手つけてたでしょ」と詰問する手紙が届く。これに対して木戸がどのように弁解したのか、返信が残っていないので不明。しかし一応松子の誤解ということで片付いた模様である。

なお、松子の手紙には浮気の共謀者として井上馨の名前が挙げられている。実際、井上から木戸宛、木戸から井上宛の書簡には多数の下ネタが確認でき、松子が疑った件の真偽はともかくとして、二人が好き者仲間であったことは疑いない。

木戸宛にもっとも下ネタを多用しているのはおそらく青木周蔵であるが、青木の下ネタは木戸、井上のそれとはかなり毛色が異なり、なぜか自分のセックスアピールをするような内容のものである。そのあまりの下品ぶりに『木戸孝允関係文書』第一巻巻末の解題は、「青木の手紙には下半身関係の話題が多い」と明記し、健全な読者の注意を喚起している。

帰国後、西郷従道らが慰安旅行は朝鮮より台湾がいい、と言い出したのにキレて空気を読まずに勝手に下野するも、大坂会議では割とあっさり大久保・伊藤に丸め込まれた。この会議上、バナナはおやつに含まれないことが決定されている。

バナナより萩名物夏みかんだろ、派の木戸はこれに気を良くし、自ら細木数子となって、会議場に使用した「加賀伊」に「ムネヲハウス」と改名するよう迫った。同所には今も木戸が揮毫した「ムネヲハウス」の扁額が残されている。木戸はもともと能書家であったが、この頃頻繁に辞表や大久保の悪口を書いたためにさらに腕が磨かれた。ただし絵はひどい。しかも以前からの大久保によるストーキング行為が洒落にならないレベルまで高まり、政治的に孤立してくる。伊藤も大隈も大久保の方にべったりになってしまう。特に伊藤は、大久保のストーキング行為を煽り、また自らもアグレッシブに参加するなどかなり悪質であった。

明治10年(1877年)、西郷が鹿児島で「ガチムチ漢祭☆アッー!!大歓迎」を挙行する。アッー!!文化がないばかりか逆にヘテロセクシャル至上主義の長州に育った木戸には、西郷と鹿児島士族の嗜好は当然ながら全く理解できず、「いい加減にしろっつーかお前らマジでキモ過ぎ」と言い遺すと、筋斗雲に乗って去ってしまった。

政治思想および政府内での位置[編集]

木戸は大久保利通の髭が大量破壊兵器であると信じていたため、明治政府が大久保専制体制になってゆくことに不信と危機感を抱いていた。

同様に岩倉具視の髷も兵器だと考えたので断髪を勧めたが岩倉が容易に承諾しないので、ある日の深夜岩倉の就寝中に寝室に夜這いして、その髷をチョン切ってしまったついでにカッコ良さげな洋髪に理髪したため、翌朝の岩倉はむしろ上機嫌であった。ちなみに岩倉の寝具には、髪油で「定吉二人キリ」と謎の言葉が残されていたという。

米欧回覧後、木戸は漸進主義の立場をとるようになり、特に髭に関しては、一貫して「髭は人民の幸福を優先し、慎重に伸ばされるべきである」という考え方であった。これに対して大久保は若手急進派を積極的に登用、髭を断行していった。木戸は急激な髭が国民生活を圧迫することを憂慮し、特に髭が薄い者を救済する髭授産への積極的な取り組みを主張した。

しかし、外遊中のビスマルクとの会見以来、政府首脳は髭の魅力にとり憑かれており、木戸の主張はなかなか容れられることがなかった。このため木戸は大久保の髭を強行に剃り落としてしまうことを計画したが、永遠の思春期・伊藤博文が「剃毛?剃毛プレイですか??」とお目目をキラキラさせつつ妄想全開のコメントをしたため、気力が一気に萎えた木戸は伊藤にエロ単語を赤マーカーで囲った英和辞典をくれてやったという。しかしその思想は井上馨、大隈重信、福沢諭吉などによって継承され、人体による単独飛行すら可能にした長岡外史の「プロペラ髭」にて遂に完成を見る。その髭が「∀髭」として現代にも継承されていることは有名である。

政府内においては、特に三条実美公とマブダチであった。但し木戸が辞表を提出した時は、必ず岩倉・大久保コンビとタッグを組んで妨害してくる。

また、元土佐藩主・山内容堂公を筆頭に、元殿様達とよく飲みに出かけている。木戸は飲酒中に政治談議を始めると泥酔スイッチが入る癖があり、御所で酒を賜った際には、“鯨海酔侯”の異名を誇る容堂公と血戦を繰り広げるも衆寡敵せず、撤退中に不覚にも御所の廊下で討死した。後日、容堂公よりその時のことを冷やかした手紙が届いている。ちなみに、元祖木戸ヲタクこと妻木忠太氏は「容堂公は御所での議論に感服したのであろう」という注を付けているが、どう考えてもそれはない。

晩年は明治帝の調教教育に情熱を燃やし、東北・北海道巡幸に同行。「健康に悪いので徒歩か騎乗にしなさい」などの諫言や、vs岩倉政治討論の見学、1日の行程の分単位での記録、友人・中島三郎助の遺族と遺児の面倒を見つつ、函館で幕府に殉じた中島とその長男恒太郎・次男英次郎の事を思い出しては泣くなど、ひとかたならぬ教育精神を発揮した。

木戸に対する評価[編集]

一次史料を読めないくせに司馬遼太郎の小説だけで歴史を理解したつもりになっているエセ歴史通から評価と言う名の誹謗中傷を受けている。

一例
①実務能力が無かった
(大久保公が某江藤氏の首を狩ろうと躍起になっている間、文部卿兼任で内務省の面倒を見ていたのは木戸である。当然ながら、乱が終結するなり辞表を提出してやった)
②一度も実権を握れなかった
(大村益次郎による長州藩軍制改革の時期に藩政府を取り仕切っていた。改革派の領袖と目され、明治2年に大久保公から無理心中を図られるが、逆転勝訴に成功する)
③愚痴や不満ばかりいって煙たがられた
大隈公が全力で弁護してくれてるよ!)
④狭量だった
(特に書生に人望があり、青木周蔵やニコポン宰相に到っては木戸邸に入り浸っていた。松子夫人ご苦労様です。あと何故か容堂公他、殿様連中と仲がいい。但し久光公は除く)
⑤公私のけじめが出来なくてまたそれを政治的な権力で解決するDQN
(馨ちょっとこっちに来なさい)