本因坊算砂
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年(1623年)は、江戸時代の囲碁棋士。囲碁最強の系譜『本因坊』の第一世。『妖怪サンコウ伝説』が有名である。
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[編集] 経歴
1559年に京都に生まれる。本姓は筒井。幼い歳で出家し、法名を「日海」と名乗る。線の細い美少年であったとされ、ビジュアルを意識して僧なのに頭髪を伸ばしていたという。また、耳にかけるタイプの眼鏡を日本で最初に付けた人物とされる。政略に長けたが、なぜか加賀藩の将棋指しにだけは頭が上がらなかった。
仏教を修めるとともに、囲碁も習得する。当時の僧は毎日することが無くて暇だったので、囲碁を嗜むのが一般的であった。日海の囲碁の腕は当代随一で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三英傑に囲碁指南役として仕え寵愛された(か細い美少年だったのでいろんな意味で寵愛された)。日海20歳のとき、織田信長に「まことの名人なり」と賞賛され、これが現代の高橋名人などに連綿と受け継がれる「名人」の起こりであるとされる。
1598年、日海は寂光寺を譲られ、寂光寺の塔頭の一坊である本因坊を任される。1603年、家康の招きに応じて江戸に移住する。このときに「本因坊算砂」を名乗り、囲碁最強の系譜「本因坊」を設立して自らが一世となった。「本因坊」は今なお囲碁界にその名を轟かせる最強の称号であり、現代の本因坊である二十六世本因坊秀紳の前に中韓の棋士達がまったく歯が立たないのはよく知られるところである。
[編集] サンコウ伝説
算砂にまつわる逸話としては「妖怪サンコウ伝説」が有名である。
天正10年(1582年)、本能寺の変前夜に、織田信長の御前で算砂と鹿塩利玄が囲碁の対局を披露した。そして盤面が中盤に差し掛かったとき、盤上に世にも稀有なる妖怪「サンコウ」が現れたのである。
サンコウは3つの目を持つ小柄のゴブリンのような妖怪で、半透明で触れることができない。古来よりサンコウが現れるのは不吉の兆しとされていたので、算砂たちは背筋が凍る思いであった。そして、サンコウは長い舌を使って打たれた碁石を飲み込んでしまう妖怪であっため、ひとたびサンコウが盤上に現れると碁の決着は付かなくなる。算砂と李玄も打った碁石を次々と飲み込まれて困り果て、この碁を打ち掛け(休止)とした。その数時間後に本能寺の変が起こり、信長は明智光秀に殺された。この逸話により、サンコウが不吉の象徴であることの信憑性はますます高まり、今日でもサンコウは碁打ち達から恐れられている。[1]
[編集] 脚注
- ↑ 決着が付かなくなるため、スケジュールの詰まっている棋戦を組むスタッフから特に恐れられている。