本居宣長

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本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の思想家漫画家、国学者。医者として生業を立てる傍ら、源氏物語古事記を中心に古典、古代に関する研究を行い、古事記、源氏物語の漫画化もした。それまで低俗な風俗小説として唾棄される傾向が少なからずあった源氏物語が名作として評価されるようになったのは彼の功績によるところが大きい。CCさくらの熱心な信者で、「古事記、源氏物語、そしてさくらタンは私にとって三種の神器だ」という、「CLANNADは人生」に匹敵する名言を残したほか、「私の墓石の造り、葬儀の形式は簡素なものでで済ませてよいが、さくらタンのレア物トレカを供えるのだけは忘れないように」と遺言状に記述したことは知る人ぞ知る事実。エロ男爵の二つ名を持つ。

民俗研究学者の折口信夫は本居宣長ゲイ説を信じ、しきりに提唱していたが、数々の文献、史料を研究した末彼が100%ノンケであったことを悟ると落胆し、小林秀雄相手に「宣長は所詮光源氏同様ただの女垂らしよ」と愚痴を零した。

平田篤胤をはじめ、死後、勝手に弟子を名乗った人物が大量に出現したことでも有名。彼岸の宣長は面識すらない人物が勝手に弟子を名乗り先生呼ばわりしてくるので大層困惑したらしい。

人物像と思想[編集]

美しい景観、世の移り変わりの無常さなどの「もの」を見、触れ、聞くことによって心に響く奥深い情趣や感慨を「もののあはれ」という言葉で表現した。宣長曰く、源氏物語は「あはれの真骨頂」らしいが、どうやら宣長はドロドロの愛憎劇や次々に女を乗り換える節操の無い優男のだらしなさに情感を感じるという独特の美意識の持ち主であったらしい。冬のソナタみたいなドラマを見てボロ泣きしている今時のおばちゃん達に通ずるところがある。師匠の賀茂真淵から女々しいと言われたのもさもありなんと言えよう。

もののあはれとは、当時の思想の潮流であった儒学、何でもかんでも理屈や善悪の道徳観で判断しようとすることへのアンチテーゼでもあった。要するに「理屈じゃ割り切れない事だってあるんだ」という、反抗期の若者の共感を呼びがちな考えである。この辺り、宣長の思想は尾崎豊と意外と似通っているかもしれない。果たせるかな「もののあはれ」は若者を中心に多くの人々に感銘を与え、その年の流行語大賞の入賞になり、宣長の下にも多くの門下生が集った。

実はバツイチである。最初の妻と結婚する以前から友人の妹(人妻)への禁断の恋慕に思い募らせており、彼女が人妻となったため一時は断念したものの、夫を亡くし寡婦になったと知るや前妻を離縁し「お互いおそろいのバツイチ同志、仲良くやろう(性的な意味で)」と彼女を強引に嫁にした。彼にとってはこれも「もののあはれ」だったのだろう。「不倫は文化」という名言を残した石田純一を髣髴とさせる。宣長が源氏物語へ傾倒したのは、あるいは禁断の愛に煩悶する自身を光源氏に投影していたからではなかったか。

生涯[編集]

松坂の商人の家に生まれる。宣長は幼い頃から聡明、博覧強記で知られたが、内向的かつ偏屈な性格で社交性に欠ける重度の引きこもりでもあった。あまりに明晰すぎたため、彼の言わんとしていることが俗人には理解不能で、周囲から敬遠された。父親を早くに亡くしたことで引きこもりは一層深刻化し、毎日部屋に篭って書物(主にエロ本)を読み漁り、自慰に耽溺する日々を過ごす。ついには愛想を付かされ今井田家に養子へ出されるが、養子先の娘にセクハラ行為をやらかしたため追い出されたという。行く当ても無く実家に戻った宣長は実家を継ぎ商人として生計を立ててゆこうとするが、社交性ゼロの宣長には顧客の相手すら務まらず、三日坊主で廃業。再び部屋に篭り無為な日々を過ごしていた(この時22歳)。そのためついに怒り心頭に発した母に京都へ遊学という名目の元、実家から放逐されプーさんになる。尚、今日宣長に倣って、この22歳という歳は定職に付かずブラブラしているニートの親不孝者をギリギリ養えるデッドラインの目安になっている

商人に向いていないのなら、あるいは商人以上に収益を得られる(しかも自宅警備員と兼業可能な)医者になればよいと、医者の道をを志す。ゼロから医学を会得する事は多大な困難を要するが、天賦の才を持ち飲み込みが早かった宣長はわずか数年足らずで医学を会得し、医者を開業した。最も、エロ男爵こと宣長は5歳の頃から性の文化に興味を持ち、そこから独学で生物を学び、内臓器官に至るまで本物の人間に功名に似せた幼女のフィギュアやダッチワイフを造成するほど生物学に精通していた。その知識が土台となって彼を助けたともいえる。

遊学中は堀景山に師事、学業に励む。朴訥な人柄といわれた宣長だが、この頃は悪友に勧められて夜な夜な遊郭通いをして女遊びに感けていた時期もあった。しかしお気に入りの遊女に「教養のない男は嫌い」と言われてショックを受け、一念発起して学業に励むことを決意する。宣長はその発言をした遊女に対し「私が一人前の男なったら嫁さんに迎えたい」とプロポーズをしたが、3日後にはプロポーズした事さえ忘れていた。一方でこの頃「女性を口説き落とす手段」として以前より傾倒していた歌学にもますます没頭するようになる。また故郷松阪にゆかりの深い蒲生氏郷の影響を受け、漫画の執筆もこの頃から手がけるようになる。

松阪へ帰郷後、医者を開業。診療を受けに来る患者達に「古事記や源氏物語は良書だから、絶対読みなさい」と半ば脅し口調で薦めていた。30年近い年月を費やして古事記の注釈書「古事記伝」を執筆、ベストセラーとなった。

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主な著書[編集]

  • 古事記伝
    • 謳い文句は「10分でわかる古事記」。しかし晦渋な表現が多く、読者にかえって古事記を敬遠させる結果となった。
  • 源氏物語~玉の小櫛
    • 光源氏はアソコの毛が剛毛で知られ、セックスする時女性に不快感を与えないようにタマ専用の櫛を使って○ン毛を梳かしていた、というトリビアを一躍世間に広めた名著。
  • 玉勝間
    • メンチカツを宰丸肉棒の間に挟んでオナニーするといつもより多めに白濁液が出て絶頂に達して気持ちいいことなど、どうでも良い事を書き連ねた随筆。その内容のどうでもよさたるや徒然草を軽く凌駕するのだが、宣長の巧みなレトリックのため今尚古典の金字塔として重宝されている。

余談[編集]

歩くアンサイクロペディアと謳われた明治期の奇人南方熊楠は学生時代、もののあはれの「もの」は男子のイチモツを意味し、あはれは天晴れを意味する。すなわち、もののあはれとは男根が屹立する巨塔の如く見事に勃起した様のことであり、宣長は立派なイチモツを持たずば日本男子とは言えない、男根の小さい奴は男じゃない、包茎は論外だと言わんとしていたのだと異説を述べた。無論この妄説は周囲からは無視されたし、熊楠も半ば冗談半分で言ったのだろう(そうだと信じたい)。ところが熊楠は留学先のロンドンでエゲレス人達にこの頓珍漢な妄説を流布してしまった。イギリス人が皆日本の文化や歴史に疎かったことと、熊楠の雄弁のためイギリス人は皆この熊楠の妄言を信じ込んでしまい、もののあはれは誤った意味で瞬く間にイギリスからヨーロッパ全土に広まってしまった。以後、今日に至るまでヨーロッパでは「もののあはれ」は間違った意味で使われている。電車の中で不意に勃起してしまったサラリーマンを見た学生が「ジャパニーズ・モノノアハレ」と言ってからかったという話は有名だし、今尚ヨーロッパ人の殆どが、「日本では包茎や男根の小さい奴は戸籍上ですら男と認められていない」と思い込んでいる。しかし日本男児の男根の長さへの拘りや包茎への蔑視、コンプレックスを考慮すると、あながち熊楠が吹聴したホラもデタラメといえなくもない。

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