本間勲

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「本間勲」の項目を執筆しています。

本間勲(ほんまいさお、1981年~)は、とある地方クラブに幸運をもたらしたプロサッカー選手である。

2000年米どころ庄内の隣にある県にあるびんぼーなプロサッカーチーム入団した後、そのサッカーチームは紆余曲折をたどりながらもJ1に定着。それなりにそれなりなサッカークラブへと成長している。

貧乏だけど。

この記事では、本間選手がそのサッカークラブに15年間在籍してきた中で、どのような幸運が訪れ、どんな不運を乗り越えてきたかを記録すると同時に、新天地での活躍?についても記載する。

概要[編集]

1994年から続くJリーグの歴史において、2000年代後半より、J1チームでありながら選手の出入りが異常に激しく、毎年のように中心選手を根こそぎ持っていかれることでよく知られたチームが存在する。毎年毎年、今年こそ降格と全国のサッカーファン及び県民からも半ば諦めが入っているそのチームに、なぜだか、毎年必ず残る選手が1人いた。

そして、なぜだか毎年残留するチーム。

この記事では、そんなせわしなく揺れ動くチームの影にひっそりとたたずむ、まるでざしきわらしのような小さな幸せを保証する選手が、いかにしてチームになじみ、チームの歴史に名を刻み、その上でもなおとんでもないぐらいに印象が薄いかについてをこまごまと説明する。

印象[編集]

本間選手の所属するアルビレックス新潟のレギュラー陣の入れ替わりのひどさむごさやるせなさについては、単純に分かりやすい話がある。なんと、2008年のレギュラーメンバーの中で、2011年までにアルビレックスに残ったのは本間選手ただ一人。2006年に入団しディフェンス陣を長年支え続けた内田潤選手が2011年に控えに回り、当時控えだった田中亜土夢選手が2011年のレギュラーになった以外、2008年の主要メンバーのほとんどが他チームへと引き抜かれていった。この件については、いかに新潟というチームが貧乏であるか、そして、他のチームが欲しくなるような選手の育成に長けているかをよく示す話である。

という話にしてもらいたい。

で、何が悲しいかというと、別に2008年に限った場合ではなく、ほとんどの年において、どこのチームのスカウトも編成部も本間選手の獲得に乗り出さないまま、いつのまにやらデビューから12年が過ぎていたという現実がそこにあるてえことである。少し悲しく、アルビレックスファンとしては、けっこーありがたいのだけれども。なぜなら、どう考えても、毎年毎年降格が噂されるチームがJ1に残留し続けることができたってのは、どう見ても彼の実力か能力、もしくは魔力によるものなわけだから。

能力[編集]

そんな本間選手の持つ能力もしくは魔力。それは、チームの主力選手が根こそぎ持っていかれようが、チーム記録を更新するような大型連敗しようが、開幕以来勝利無しのまま最下位を独走しようがなにしようが、チームの破綻を回避し続け、最終的に残留に食い込むという、ありがたいんだか、どうなのかはたから見れば実に微妙に見える能力である。

実際、チームが破綻し、組織として立ち行かないような状況は、幸いにも新潟というチームの歴史上においては、一応は存在していない。中でも、どこぞの浦和レッズに見られたような、ユースからの生え抜きと外部からの補強選手との壁がチームの戦績悪化に直結するような話は、とりあえず新潟には少なく、そもそも壁ができる以前にユース選手も補強選手も、派閥を作る以前に出て行くし、あわせて若手やベテランといった集団の内部での葛藤が全く表に出ないか、もしくはほとんど無いか、もしくは葛藤がありベテランと若手、外様と生え抜きの間に壁があったとしても、さして問題ではなくなっている。

まぁ、派閥に関する話はあるかもしれないけれど、問題が表面化しない段階でやっぱりすごい。

もっとも、アルビレックスの強化部がそういった選手をなるべく取ってこないという方針を貫いた結果でもあり、その根幹にいるのが、唯一チーム一筋12年を貫く本間選手の存在感であったことは間違いない。大黒柱、精神的支柱、見本という存在は、苦境にあるときほど必須になるのだから。

ただ、カリスマという言葉が絶対に、決定的に似合わないのが実に本間選手らしいというかなんというか。だって、将来の夢が「のんびり暮らす」てどーよ。おっそろしく似合ってるけどさ。

ちなみに、試合中でもいるかいないか分からない。他県の人間には姿形がほぼ見えないというのが、彼の持っている本当にすさまじい能力である。そのため、その存在を熟知するような一部上位チームには本間選手は蛇蝎のごとく嫌われている、てゆうか、鹿島アントラーズがアルビレックス新潟を徹底的に嫌う背景の一つに、本間選手がいたりもする。

チーム方針[編集]

もっとも、アルビレックス新潟というチーム自体、多くのチームで見られるように、選手間で発言を煽って軋轢を生み出すような腐れマスコミもなく、たまに日本代表に選ばれるような選手が現れても、即座に持っていかれ、若手が台頭しベテランが消えていく中でも、特に波乱もなく、で、台頭する若手はやっぱり持っていかれ、外国人選手の生活基盤問題に対しても、チームの枠を跳び越して関東圏まで足を運んで仲間内でわいわいとやることを許可。てゆうか放任。それで特に何の問題も起こさず、なんとか日本のスタイルに順応して活躍する選手が出てくるとやっぱり持っていかれ、けれども、すぐに新しい人材で穴を埋める。

そんな浮き沈み入れ替わりの激しいチームを支え続けているという点において、本間選手の持つ魔力がいかにすさまじいものであるかがよく分かる。

・・・訂正、よく考えてみると新しい人材ですぐに穴が埋まるわけはない。チーム全体でなんとかかんとか苦労して穴を埋める。ただ、その穴を埋める作業を組織全体で行うために、選手の立場で長年孤軍奮闘し続けているのが本間選手である。まぁ、負けるときに負け、負け続け、それでもギリギリで破綻にいたる穴を埋めることに成功し、チームを再建しなおし続けたというのはチームとして選手として、やっぱり素晴らしい能力である。

その上で、なおかつ、まったくもって本間選手は目立たないわけだけれど。

けれども、2014年11月現在、これからどうなるかは誰にも分からない。分かるわけはない。けれど。しかし、幸いなことに、新潟というチームはに乗っかって期待を振りまいて、現実に押しつぶされるような選択をしないことに定評があるため、もろもろの問題で破綻するチームと新潟よりも弱いチームが合計で3チーム以上存在すれば、なんとかなる。こういった計算をする際に、本間選手のような、チーム一筋&派閥作らない&雰囲気悪くしない&会社にたてつかない存在は、神様に思えることは確かである。

・・・もんのすごく小さい神様であることは認める。

経歴[編集]

生まれ~2000年[編集]

本間勲選手は、1981年に新潟県中条町(現胎内市)に生まれ、地元のスポーツ少年団のサッカーチームに所属した後、その才能を見込まれ、なんと千葉県習志野高校に入学。成績については、ウィキペディアには書いてない。けれど、1995年にインターハイ国体に習志野高校は優勝しており、千葉県を代表する強豪チームであったことは確かである。その後、高校卒業後にJ2に加盟したばかりのアルビレックス新潟に入団。直後にレギュラーの座を勝ち取り、2000年にはリーグ戦29試合に出場している。チームは7位。けれども、前年度の4位から成績を落としたことで永井監督は退任。そのことが、本間選手のその後を大きく変えることになる。

なお、うれしい楽しい素晴らしいウィキペディアのアルビレックス新潟の記事には、古参の選手の入団時期を書かないという不文律でもあるのか、彼の入団した時期が記載されてやがらない。けれども、まぁ、いかんせん、本間選手だから。なぁ、うん。あわせて、そのことが、この記事のネタの肝となるのが。実にというかなんというか。

ちなみに、2014年になって、本間選手の人脈を介して有望な若手選手をアルビレックスに紹介するという話があり、本間選手の習志野高校時代の恩師であった本田裕一郎氏(流通経済大学付属柏高校監督)が荒削りだけど素質のある選手だと伝え、チームもそれならばと獲得したのが、本間選手のレギュラーの座を奪ったどころの騒ぎではない小泉慶選手。

実に、本間選手らしい話である。

2001年[編集]

しかし、順風満帆のように見えた本間選手のプロサッカー選手としての初めの一歩は、2001年に新たに新潟の監督に就任した反町康治氏の下で大きな転換期を迎える。それまで右サイドのミッドフィルダーとして活躍していた本間選手の視野の広さとパスセンス、何よりも若さに注目した反町監督は、彼を右サイドから中央のボランチにコンバートさせ、J2などというフィジカル&ハードコンタクト祭り絶賛開催中のリーグで最も責務の重い立場を預からせる。

その結果、本間選手の2年目は11試合の出場に留まり、チームも昇格まで後一歩と迫りながら、4位に留まる。

しかし、この雌伏の期間が、後にアルビレックスをJ1の舞台に引き上げる原動力となる。

2002年[編集]

不慣れなボランチのポジションに苦慮する本間選手に、次の機会が訪れる。なんと、現役のプロサッカー選手でありながらブラジルへの短期留学という、いかに本間選手が次代のアルビレックスを背負う立場であったかを示すような、あわせて、いなくなってもまぁ、戦線は崩壊しない選手だったかを示すような話が舞い込み、この話を受けて新潟から一躍ブラジルへと飛び立つ本間選手。この決断は長期的に見ればチームにとっても本間選手にとっても吉と出、彼はここからボランチとしてチームに無くてはならない選手になる。しかし、彼を旅立たせたチームはしかし、この決断が凶と出、なんと昇格まで後一歩、ほんの後一歩という3位でリーグを終える。この段階で新潟県のファンがいかに燃え上がったかについては想像に難くない。けれど、この記事ではしっかりというかやっぱりというか、その炎がいかに鎮まっていったかについても記載する。心を込めて。涙を呑んで。

なお、本間選手は6試合に出場している。

2003年[編集]

サッカーワールドカップから1年、日本中がサッカーブームに沸く中で、最も熱くたぎっていたのが新潟県であることは間違いない。なんせ、2年連続で栄光のJ1昇格を逃すという、ファンにとってはたまらない、でも実に新潟らしくて仕方がないぜこんちくしょうという、まさに新潟県のサッカーチームとして愛される立場となったアルビレックスに、今度こそという想いと、そのための選手たちが集まってくる。元日本代表選手のMF山口素弘選手や上野優作選手、森田浩史選手といった、その後も長くJ1で戦い続ける選手達が続々と新潟に移籍。ファンの期待も最高潮。そしてそんな中、本間選手は、その、15試合にしか出場できなかった。もっとも、ポジションを争う相手が元日本代表であるからそれは仕方がない。

そんな中、アルビレックス新潟はサンフレッチェ広島と激しい首位争いを繰り広げ、最終的にリーグ戦の最後で優勝を掻っ攫うという、まさに新潟県民の心に残る勝利で、ついに栄光のJ1昇格を勝ち取ることになる。

もっとも。そこからどれぐらい苦難の道のりが続いたかについては、正直なところ、想像を絶して余りある。そして、その苦難の道のりをファンとともに歩んだのが、繰り返すけれども本間選手ただ一人というのが、実にまったくとんでもないほど財政基盤が悲しすぎるアルビレックスらしくて仕方ない話である。

2004年[編集]

初のJ1は新潟にとって、まさにその後のJ1を生き抜くための必須の戦術を獲得していく戦いになる。当時2シーズン制だったJ1の前半戦で、ものの見事な降格圏である14位。その後、後半戦で7位と巻き返すのだけれど、そこには、その後の新潟を象徴する、当たりブラジル人3人スリートップという、ある意味、大変に分かりやすく割り切った戦術を押し通した反町監督の慧眼があった。そんな中で本間選手はボランチとして未だ成長期間中。リーグ戦12試合しか出場できず、雌伏の時を過ごすことになる。もっとも、この時期からひそかに次の新潟の土台を担う選手であると首脳陣は考えていたふしも見受けられ、実際、鹿島アントラーズの名将トニーニョ・セレーゾ監督は、アルビレックスとの対戦時、まったく有名ではない本間選手を止めるよう口をすっぱく訴えていたという話が伝わっている。

なお、この年にアルビレックス新潟の年間入場者数の記録である565,336人を記録。毎試合4万人近い動員を稼いで一躍、地域スポーツの奇跡と賞賛された年でもある。もっとも、この数字は無料券をばら撒いた結果でもあり、初のJ1効果でもある。けれど、タダ券をばら撒かなくなっても、J1に長く居座り続けても2万人から3万人台をキープしていることは、やはり、その後の地域スポーツの関係者にとっては大いなる見本である。

2005年[編集]

この年は本間選手にとって飛躍の一年となる。2年にわたる雌伏の結果、本間選手は大いなる壁だった山口素弘選手からポジションを奪還。山口選手は夏の移籍期間で横浜FCにレンタルで移籍、翌年に完全移籍することになる。そして、チームも躍進してたらよかったのだけれど、そこはそれ、守備陣が崩壊し、鹿島アントラーズにはチーム記録となる2-7で敗北するなど、まさに新米ボランチ本間選手にとって28試合に出場という飛躍の年であり、且つJ1の現実に叩き落された1年になる。けれど、この年の終盤、4連敗を経験した後、5試合負けなしで最終的に12位に滑り込んだことが、後のアルビレックスの方針につながる。

破綻しなけりゃ、なんとかなる。

2006年[編集]

昨年に飛躍して叩き落された本間選手にとって新たな試練の年。なんと、本間選手を育てて使い続けた反町監督が、2年連続のJ1残留を置き土産に勇退。新たにモンテディオ山形から鈴木淳氏が新監督に就任。チームも、それまでの方針をビッグネーム招聘によるビッグネームのためのチーム作りから新たに若手戦力の育成を基盤に据えたチーム作りに転換する。

まぁ早い話が、がなくなったので、現実路線に転換とも言う。

そして、当然のごとくに起こる前監督との方針の違いの表面化。反町監督が前3人ブラジル人とかいうレベルの、弱小戦力をいかにして生かすかを考えたばくち打ちだったのに対し、鈴木監督はモンテディオを躍進させた前線からプレスを掛け続けてのカウンター攻撃という、それなりの戦力をいかに破綻させずに結果を残すかを考えた良識派だったため、次々と無名の若手選手を登用。この頃からアルビレックスに有名選手がいなくなる。

本当に、いなくなる。

でも、その後の不況を思うと、とてつもない先見性である。この方針転換のおかげで、その後やってくるリーマンショック後の世界的な経済停滞期をチーム独自の視点に沿った黒字経営で乗り切りつつあるのだから。というわけだ、いつまでも貧乏でもしょうがないじゃないか。よーく分かってるから。うん。なお、この方針の変更に際し、アルビレックスの試合も大きく変わっていき、本間選手のプレイも変わっていくことになる。

まぁ、若手から脱皮せざるをえなくなったというわけで。

というわけで、新監督の下、最初は積極的にアピールする選手がまず機会を得、J1の試合の中で、敗北という名の経験をより高く積み重ね、選手として大きな成長を遂げていく。苦しんでの勝利でも良。で、楽勝なんてものはアルビレックスにとってほっとんどありゃしなくなるというのが悲しい話である。そして、そんな状況の中、試合中で姿を消すことに長けた本間選手の試合出場が激減するのは致し方ない。結局、出場試合は昨年の2分の1、14試合に留まる。まぁ、どうしても最低限の仕事を果たす人と、それなりの結果を求める人には差が出てしまうのは仕方がないわけで。これは、サッカー以外の話にも当てはまる。

もっとも、最低限の仕事=大きな失敗をほとんどしないという話と、それなりの結果=勝利という話は、気にさえしなければ両立する。むしろ、最終的に最低限の仕事を優先しないといけなくなるのが、貧乏なチームの悲しい現実である。最終的にアルビレックス新潟は14位でまたしてもギリギリの残留という、最低限の仕事を果たし、その後、大勢の無名選手たちが新潟のピッチから巣立っていく素地が築かれていく。

・・・みーんな取られるけれど

しかも無料で取られるけれど。でも、まぁ、新潟が選手の育成に長けたチームであるという話はここから始まる。

2007年[編集]

この年、新潟の歴史に残る選手が入団する。マルシオ・リシャルデス選手は、その実力をもって4年もの長きにわたって弱小の新潟に夢と希望を与え、少なくとも、その実力が本格化した2009年以降は降格の2文字を徹底的に排除させることに成功する。

最終的に年俸が払えなくなって持って行かれるけれど

しかし、彼の入団以降、明らかに新潟は変わり、それまでの弱小チームが中堅チームにレベルアップ。この年以降、中位王の座を名古屋グランパスと争うまでに成長する。まぁ、宝くじを当てたようなものである。最終的にチーム史上最高となる6位を記録。2012年1月現在、この記録は未だに破られていない。

このように、その後のチームの核となるマルシオ選手の入団をきっかけとして、同い年の本間選手もついに本格化。ほぼフル稼働となる30試合に出場し好調だったチームを牽引し続ける。さらに、この年にはもう一つ大きな出来事があり、なんと目立たないことでとにかく有名だった本間選手が、勤続年数及び新潟県出身といった様々な要素を鑑みた結果、なんとアルビレックス新潟のキャプテンに就任。その類まれなカリスマ性の無さをファンに見せつけつつ、他に人がいないからしゃーないとファンに言わせつつ、チームに破綻をきたさないという最低限の仕事を成し遂げていく。その後、5年以上にわたってキャプテンマークを維持し続け、似合わないけれど仕方ないと5年以上にわたって言われ続ける。ただし、3年目ぐらいから、ファンもファンで、本間選手にキャプテンシーを求めなくなったという点については、ある意味、新潟らしい話である。

なお、同じ理由でアルビレックス新潟の次期キャプテンに目されているのが、プレイは有名じゃないけど、名前が有名なアルビレックスの選手ナンバー1にして、本間選手と同じく新潟県出身の田中亜土夢選手ってところが、新潟ファンらしくて仕方がない。なんというか、アルビファンはキャプテンシーというものを忘れかけている気がしなくもないけれど、感情論で動かないチームカラーというのは、けっこー重要である。ベストではないけれど、ワーストでもないという点において。

2008年[編集]

この年、アルビレックスはその歴史上初めてとなり、そしてそれ以降常識となる選手の大量引き抜きを経験する。その結果、泣きたくなるぐらいに戦力が低下。その穴埋めのために、高卒の選手を大量に獲得し、昨年度以上に育成方針を強めてリーグ戦に当たることになる。

まぁ、そんな大量に獲得した若手選手であったのだけれども、2014年の時点で、2人しかチームに残っていない時点でお察しのとおり。とりあえず、大野和成選手とフィッツジェラルド舞行龍ジェームズ選手の2人がJ1でも戦える戦力として成長、さらには他の選手についても、もんのすごく成長したんだけれども、見事に持っていかれた件についてはどうしようもない。けれど、そういった話が立て続けに起こる中で、J1残留を果たし続けている点については、誇っていい話である。ただ、この年以降も同じような状況が続きまくることについては泣いていい話である。

2014年11月現在、安心と安全の新潟ブランドとして若手選手が各チームで活躍する姿を見るにつけ、いろんな意味で笑うしかない

そんな若手選手たちを鍛えに鍛え続けても、最終的に前年比マイナス7位となる13位に滑り込むのが本間選手及びアルビレックス新潟のいいところ。もっとも、最終節まで降格の危険を残すという、まさに薄氷の中で残留だったけれど、いかんせん、中心選手をみいんな持っていかれたことを新潟ファンが十分に理解していたため、よく残留できたなというのが、多くのファンの本音だったりもする。なお、この年、本間選手は25試合に出場し、若手の成長に大きく寄与、なおかつチームを残留から救う。

なお、降格争いに巻き込まれた中、あまりにも目立たないキャプテンすぎて多くのファンが泣きたくなった件については、どうしようもない。

ここらへんで、いい加減新潟県民もアルビレックスの悲惨な境遇に気づき始める。そして、そんな境遇に抗うあるびれーっくすにも気づき始める。しかし、そんなアルビレックスをさらに苦しめる移籍金問題がこの年以降表面化し、Jリーグ機構が先進的な移籍システムとやらを導入した結果、この年以前に契約を結んだ選手をこの年以降、あらっかた無料で持っていかれつづける。数千万円で獲得した選手も、1億円以上の価値があるとされた選手も、あらっかた、タダで持って行かれる。

そんな中、しっかりとアルビレックスに残る本間選手。残り続ける本間選手。この一連の残留が、ファンが本間選手を信頼する一番の理由になるってところがまぁ、新潟らしい話である。目立たなくて、貫禄もなくて、どっか軽いけれども、ファンにとっては本当にありがたい選手と思わせたことが、その後、アルビレックスというチームを破綻から救う。具体的な年度で言うなら、2011年と2012年にかけて救いまくる。よくあんな状況でファンが正気を保てたなと驚きたくなるぐらいの悲劇の中、ボロッボロになってもまだファンはチームを信頼していた。ファンもチームをボロクソにする一端を担ったなんて話よりも、よっぽどいい話である。

2009年[編集]

しかし、昨年のような悪夢の選手引き抜きはしかし、この年は手控えられる。13位のチームの主力選手なんざたかが知れてるちゅう話でもある。しかし、別に素晴らしい補強が進むような話も特になく、既存の戦力と新戦力をとっかえひっかえして、いつもどおり手探りのチーム編成が行われる。

そして、それが当たる。

たまにはこんな年もある。というわけで、新潟は、その歴史上初めてとなるスタートダッシュに成功。新戦力であるペドロ・ジュニオール選手や大島秀夫選手、ジウトン選手が既存の選手達とともに大活躍。リーグ中盤戦まで、堅守速攻というスタイルに根ざした素晴らしい戦いを繰り広げる。

まぁ、この段階で、翌年の悪夢が見えていたわけなんですが。そもそも、夏の段階で、悪夢の始まり第一歩としてペドロ・ジュニオール選手が引き抜かれ、チームが得点力不足に陥ってガッタガタになるんですが。さすがに、不調のチームを維持するのと、好調のチームを躍進させるのは違う視点が必要なわけでして。まぁ、そんな大それた能力を本間選手に求めるのは苛酷であり、なおかつ、そんなバクチを打てるほど、新潟というチームは豊かではない。最終的に、秋以降チームはガッツリ調子を落として8位。本間選手も32試合に出場し、この頃から、ひそかに新潟に無くてはならない選手と目される。まぁ、マルシオ選手の存在が大きすぎてさほどどころではないほど目立たなかったけれど。

2010年[編集]

悪夢。ザ悪夢。The Nightmare。詳しい内容はこの記事に譲るとして、2010年のアルビレックス新潟は、まず、監督の座が鈴木淳氏からチーム内人事によって新人監督である黒崎久志コーチへと移譲されたことから始まる。あわせて、それと時を同じくして、昨年度に輝いた選手を根こそぎ引っこ抜かれることから始まる。レギュラーを4人無料で引っこ抜かれて、春のキャンプでキーパーを失って、開幕したら開幕したで、いきなり控えのキーパーも失って、第3キーパーに頼らざるをえない中、2ヶ月も無勝利地獄をさまようなど、2012年を除けばこの年ほど、新潟県民が降格を覚悟した年はない。

けれど、そこから持ち直すのが新潟というチームと、そこを支える本間選手の魔力である。なんと、登用せざるをえなかった若手が続々とその実力を開花。第3キーパーだった東口順昭選手やチョ・ヨンチョル選手、ユース上がりの酒井高徳選手といったまさに若手も若手、他チームだったらまずレギュラーにも選ばれないような年齢の選手が大活躍。

6月から、今度は逆に大量の白星を吐き出すようなチームへ新潟は変身する。実際、8月の段階ですでに残留なんざ目もくれない、ACLまでもう少しのようなすんばらしい試合を続けていた。

で、矢野貴章選手が引き抜かれてからまっさかさま。いいよ、分かってたよ。知ってるよ、うん。でも、春の段階で降格を覚悟していた中、十分な成績じゃねえかこんちくしょう。最終的に、秋以降勝利から見放されるも9位で終了。本間選手も32試合に出場し、最後の最後までチームは破綻を免れ続けていた。

で、またぞろ翌年にひっでえ話がやってくるのが丸分かりなのが新潟である。

2011年[編集]

書きたくない

けれど、書かないといけない。というわけで、昨年とまったく同じく詳細はこの記事に任せるとして、新潟の王様と新潟で初めて日本代表DFに選ばれた選手と、鹿島アントラーズなる日本を代表するチームから名指しで引っこ抜かれて、札幌からレンタルで借りていた選手がいなくなった結果、リーグ開始前からチームがボロッボロという、大変な状況下の中で2011年はスタートする。と思ったら、直後に東日本大震災福島第一原発事故が発生し、1ヶ月以上もリーグが中断。リーグスケジュールもぐっちゃぐっちゃ。そんな悲惨な状況の中で、元から悲惨だったチームはなおさら悲惨になるのは道理である。実際、本間選手の魔力うんぬんではなく、2011年は単純に、新潟より弱いチームが3チーム以上いたからこその残留である。そもそも、チームの穴を埋めるどころの騒ぎではなく、タイトなスケジュールの下で戦い続けるというのは、昨年度のレギュラーをがっつり持っていかれたチームには悪夢である。その上、タイトすぎれば選手に怪我人続出しまくるのも仕方がない。

・・・仕方がないで済ませられない規模で怪我人が出まくった件については認める。

けれど、他チームからがっつりレギュラーを引っこ抜いて特に中心選手に怪我人もいなかったチームが、同じくタイトすぎるスケジュール下で迷走、最終的に親会社も交えてチームを破綻させた件と比べれば、まだマシ。と思わなければやってられないのが2011年のアルビレックス新潟である。

その影響をマトモに食らったのが観客動員。そらそうだ。なんせ、弱いし。あと、震災後の暗く沈んだ世相の中、アルビレックスを応援したくなるほどの元気を持った新潟県民はそういないわけで。その結果、7月6日にビッグスワンにおける観客動員の最低記録13,644人という、過去4万人を軽く超えた動員数を続けたチームとしては涙を禁じえない数字がたたき出される。

結局のところ、試合とともに為されるべきチームの育成&試合を通してのファンとの交流が1ヶ月ずれただけで、貧乏で選手層の薄い新潟というチームが戦績の悪化と動員数の激減で破綻寸前にまで追い込まれるというのが、本間選手の能力うんぬん以前の、当たり前すぎて嫌になる現実である。最終的に2011年のアルビレックスは、降格ラインギリギリより一つ上の14位でなんとか残留を果たすことになる。

2011年は、新潟の実力というよりも、降格した3チーム+15位のチームの破綻が激しすぎたため、ギリギリで踏みとどまったというのが本当のところである。なお、本間選手はこの苦境の中で初めてとなる全34試合出場を達成。リーグ出場記録も200の大台に乗せ、まさに新潟に無くてはならない選手となっている。

目立たないけど

2012年[編集]

昨年度に引き続き、またしてもレギュラーが3人いなくなるのがアルビレックス新潟というチームである。しかし、2012年は若干今までと様相が異なり、それまで無料で引き抜かれていったレギュラーが、今度は有料で、なおかつ、チョ・ヨンチョル選手を1億円だの酒井高徳選手を5千万円だのといった、新潟ではあるまじき高額で引き抜かれていった件については、ここ数年来ありえなかった話である。まぁ、千葉和彦選手がサンフレッチェ広島に無料で移籍した件については、恩師である森保一元新潟ヘッドコーチが広島の監督に就任するため、なんら問題はない。ということにする。実に新潟らしい人情味あふれる話である。

でも、高額な移籍金を残した選手のほとんどが新潟の未来を担うはずだった若手であるのが、寂しい話である。失敗も成長ももろともに共有し続けた選手が高額な移籍金を残してチームを去るという話は、サッカーという競技においては常識ではあるけれど。

・・・そんな常識を4年ほど経験してなかった新潟というチームが、いかに非常識だったかについて、アルビレックスファンは泣いていい。調べたほうが、本当に泣きたくなったレベルのひっでえ話である。そんなチームをJ1に残留させ続けたことで、ようやく非常識の世界から常識の世界に移行した件について、アルビレックスのフロントは優秀であるといえる。J1の機構がルールを改変してまで運営を妨害したんだから、撥ね退けることが出来たことを誇っていい。で、そんな4年間、まったく、選手の移籍金というものが入らなかったアルビレックスを残留させた本間選手の魔力については、もはや言うべき言葉が見つからない。

2012年、アルビレックス新潟は、それまでありえなかった10人もの新戦力を移籍。あの薄くてペラペラだった選手層をそれなりにする。まだ薄いけど。ただし、その中には、アルビレックスとして本当に久しぶりとなる著名な日本人FW平井将生選手も含まれる。著名な日本人選手を獲得した自体、本当に久しぶりすぎることに気づいた件については、特に気にしない。調べたくもない

けれど、結局のところ、いつもどおり最初はチーム作りが最低限の仕事となるわけで。そこから先、どうなるかはのみぞ知る。

神のみぞ知る[編集]

とりあえず、2012年は2011年よりもさらにひどいシーズンになる。てゆうか、Jリーグの歴史に残る苦難の道を歩む。開幕からまったく勝利できず、5月になって黒崎久志監督が辞任、新たに柳下正明監督が就任するものの、春から夏にかけてぶっちぎりの降格圏を突っ走ることになったアルビレックスは、8月に運良く降格圏から脱出するものの、その後、ずぶずぶと負けが込み、17位を定位置として最終節まで時間が経過。普通であればどう考えてもJ2行きである状況であったにも関わらず、なぜだか、どうしてたか、新潟は降格をぎりぎりでかわし続け、最終節まで残留の可能性を残すという奇跡を新潟県民に見せつける。しかも最終節の1つ前、優勝争いを繰り広げるベガルタ仙台との一戦は、アルビレックスの歴史に残る死闘の末、1-0で勝利した上、元アルビレックスヘッドコーチである森保一監督率いるサンフレッチェ広島の優勝を決定付ける最高のアシストまで行うんだからもう。とりあえず、某キャプテンが有する幸せを運ぶ魔力がハンパない。そんな絶対的な悪条件の中、どうにかこうにか最終節、札幌に勝利した上で15位のヴィッセル神戸と16位のガンバ大阪が引き分け以下で残留が確定するという、まさに首の皮が一枚つながった状況で運命の12月1日を迎えることになる。

なお、10月末のサガン鳥栖と11月17日川崎フロンターレ戦で2敗を喫し、首が2回ほどちぎれた件と、そのたびごとに残留を争う2チームが足踏みを続けたおかげで首がつながった件については、アルビレックスの力ではなく、ヴィッセルとガンバに取り付いた悪霊のお力によるものである。でなけりゃ、17位のアルビがリーグ31節、32節と連敗した上でなお残留の可能性がわずかに残されたなんて話があるわけない。

そして、神が知っていた大変にロクデモナイハナシがアルビレックスファンの目の前で繰り広げられる。2012年12月1日、17位で最終節であるJ134節を迎えたアルビレックス新潟はコンサドーレ札幌を相手に4-1で勝利し、同時刻に行われていた残留争いの相手ガンバ大阪ヴィッセル神戸が相次いで敗れたため、15位というJ1に昇格して以降、最も苦しい残留を決めることになる。(詳しくはこっちにもあっちにも書いてある。どっちを見てもうれし泣きできるのがアルビレックスファンってぇもんであり、思い出し笑いできるのが普通の人である。)

てゆうか、最終節まで残留の可能性を残したことだけでも奇跡だってのに、その上を行く話がやってくる。なんせ、1シーズンを通して連勝したことのないチームが最後の最後で2連勝して、なおかつ残留を争う2チームがそろって敗北する段階で、何か別の意思が働いている。

いや、まぁ、これが神の意思だってんなら、あまりのヒネクレ具合に愕然としたくなる。心から感謝しますけれどもさ。

けれど、そんな別の意思が働くまでの半年にわたる非常事態の中、チームを崩壊させなかった本間選手の人徳かもしくは妖怪徳というものがいかにすごいかという話もそーなんだけれど、逆にチームを浮上させられなかったちょーっとアレなキャプテンシーというものの2つが、新潟県民の胸に深く突き刺さるものである。突き刺さった上で、背中にまで突き抜けて先っぽに心臓がぶら下がるものである。

その上で、もう一回引っこ抜いて、今度は脳天からどたまをかち割るレベルである。それぐらい、タチが悪いとしかいいようがない。

結局、そんなこんなで幸も不幸も一切合財ひっくるめて、チームの土台をひょうひょうと支え続けた本間選手は、確実に妖怪である気がする。開幕前の移籍連発で開いた新潟の左サイドの大穴は、いつまでたっても、からにかけてもまだ穴が開いたままであり、さらに昨年、アルビレックスを苦しめ続けた得点力の無さは、さらに勢力を増大させ、もはや広域災害のレベルでチームを苦しめ、34回試合をした中で、4回しか2点以上取れなかったというJリーグの歴史に残る醜態をさらすことになる。そして、毎年毎年アルビレックスを苦しめ続けるGKの負傷はやはり今年も新潟にやってきて、自身最高のシーズンを送っていた東口順昭選手が来年の夏までかかる大怪我。ならばとファンが期待した渡辺泰広選手が来年の秋までかかる大怪我。そして黒河選手が3年連続となるシーズン開始直後の大怪我。幸い、チームには小澤英明選手が残っていたことと、東口選手の大怪我の前に黒河選手の怪我が治っていたため辛くもチームの崩壊は免れる。

この段階で、アルビレックスが呪われていることは明らかであり、そんなむごい状態のチームを残留させた彼の能力は、確実にJリーグの歴史に残るといえる。とりあえず、2012年のアルビレックス新潟を残留させるのだから。所属選手の実力とチームの財政、なおかつJリーグ屈指の度重なる不運のコンボを生き延びたのだから。

結局、左サイドの穴は9月から10月にかけて徐々に埋まり、逆に新潟唯一の攻撃の突破口にまで成長、そしてGKもケガから復帰した黒河選手が獅子奮迅の活躍。その上でなお、点が取れない攻撃陣。こんな現実から残留を勝ち取るには、どれぐらいの困難を伴うかについてはもはや想像を絶する。とりあえず今期のアルビレックスをJ1に残留させ続けることが出来た以上、誰がキャプテンであっても、その人間は相当な実力を保持していると見なせる。もしくは、ごく普通に大妖怪レベルの妖力を持っている。

(誰が、「としか思えない」なんて書くか)。

あわせて、シーズン終了直後から2013年に向けて続々とアルビレックスの主力選手の引き抜き情報が出てくるのがいいところ。2012年のアルビレックスをリーグ2位の失点で抑えたDF石川直樹選手がベガルタ仙台に引き抜かれ、同じくDFでロンドン五輪代表に選ばれた鈴木大輔選手が柏レイソルへ移籍。Jリーグ屈指のディフェンス能力を誇るFW矢野貴章名古屋グランパスがお持ち帰りされ、平井将生選手は結局、活躍できないままガンバ大阪に戻ることになり、アルビ攻撃陣を3年間支え続けたミシェウ選手も高年棒がネックとなり契約満了でチームを去ることになる。

中心選手だけでこの惨劇である。他にも、アルビの危機を救った小沢選手も契約満了となり、最後までやせなかったアラン・ミネイロ選手もレンタル終了でブラジルへ帰っている。けれども、まぁ、笑ってすごすしかないのがあるびれーっくす。ここまで来ると、ルーベンスの絵の前で天に召されるネロとパトラッシュに手をかざすだけで、新潟ファンは暖を取れる。むしろ、この状況でも例年より暖かい。

2013年[編集]

などという悲観的な話が翌年に持ち越さなかったという点において、新潟に小さな幸せを運ぶ本間選手のありがたさが身にしみる。

しかも、2013年のアルビレックス新潟は、なんとアルビレックスの歴史上最高のシーズンを送り、最終的に勝ち点55(17勝4分13敗)賞金1000万円を獲得するんだから、すんごいすごい。けれども、残念なことに本間選手の2013年シーズンは苦難の1年になってしまう。その大きな原因は、春のキャンプの段階で新外国人であるレオ・シルバ選手と三門雄大選手とのポジション争いに敗北したことにある。その結果、本間選手は長年愛用していたアルビのキャプテンマークを三門選手に譲り渡し、ベンチメンバーへと一歩後退することになってしまう。

もっとも、そのレオ・シルバ選手がものすごいものすごい。2013年シーズンの春の段階で、ぶっちぎりで2013年シーズンもっとも怖い外国人新加入選手として全てのJ1チームに恐れられ、夏の段階で他のチームのファンから獲得の申し出が殺到するのだから恐ろしい。で、その恐怖の源にして、それまでJ1に存在しなかった彼のボール奪取能力は、なんとアルビレックス全体に波及していくんだからとんでもない。その結果、FWも含めた全ての選手が前線から強烈なプレスを掛け続け、それまで献身的な守備という話が存在しなかったFWの川又堅碁選手ですら相手DFからボール奪取することをいとわずにダッシュとチェイスを繰り返す、戦術名「レオ・シルバ」が出来上がっていく。

何この不幸な新潟ではあるまじき、新加入選手全員が大当たりって。

そして、レオ・シルバ選手のほか、開幕直後にレギュラーになった成岡翔選手のほか、田中達也選手と岡本英也選手の2人のFWがアルビレックスの超協力な(相手DFに対して)攻撃陣に革命を起こし、アルビに得点パターンを生み出し、そしてJ2レンタルから帰ってきた川又選手の覚醒もあわせた結果、最終的に年間で48点ものゴールを奪うことに成功。さらに、悪夢の移籍で中心選手2人を失ったDF陣も、春から夏にかけて大井健太郎選手とキム・クナン選手で支え、8月からはこれまたレンタルから帰還したフィッツジェラルド舞行龍ジェームズ選手が台頭。その結果、2012年のDF陣に負けないレベルの固い固い守備組織が出来上がっていく。そして、悪夢の大怪我から東口順昭選手が復帰し、試合感を取り戻した2013年8月以降、アルビレックスはどこに出しても恥ずかしくない立派な強豪チームとして強烈に白星を積み重ねまくることになる。なお、そんな言葉、書いてるほうも正直、信じられない。けれども、事実である。

最終的に、アルビレックスはチーム記録となるホーム9連勝にリーグ戦5連勝を達成。この数字は、今期新加入の選手たちの活躍と何よりも柳下正明監督の指導力がなければ到底不可能だったことは確かである。

んが。んーーーっがっ。こんな光景、数年前に見たことがある人は、新潟県民に多い。てゆうか、まったくもってマルシオ・リシャルデス選手が新潟を支えてくれていたときと同じパターンである。しかし、よく考えると、2013年が丸様がいた4年間とまったく同じではないってところに本間選手のありがたさが存在する。

というのも、レオ・シルバ選手が怪我やカードの累積で試合に出場できなかった際に、本間選手がいたおかげで、チームの崩壊が防げたという事実がことのほか重い。丸様がケガや不調で試合を欠場した際のアルビレックスの動揺っぷりと戦術の崩壊っぷりは、それはまあひどいものであって、少なくとも本間選手がいてくれたおかげでチーム全体が不安感に襲われるような話がなかったところが、大変に重要である。

層のうっすいうっすい新潟で中心選手が欠場をしても、試合を壊さずにやっていけたこと。これは、今後の大きな財産になる。もっとも、あくまでもそれは対応力の話であって、得点力についてはさすがに厳しいことはしょうがない。けれど、多くのJ1チームを地獄に追いやった、連敗でチームがバラバラになるような話が新潟にやってこなかったという点が重要である。大変に、重要である。なんせ、2013年はそれで名門ジュビロ磐田がJ2に降格し、これまた名門の名古屋グランパスが終盤においてチームがバラッバラになっていったのだから。

最終的に、2013年シーズン、本間選手は11試合しか出場できなかった上、ほとんどが試合終了間際の出場となっており、先発として2試合しか出場機会を得ることができなかった。しかし、そんな立場でも腐らずチームの和を乱さずにベテランの立場でアルビを控えの立場から支え続けた結果、アルビ史上最高の勝ち点と、2014年の躍進を期待できる体制が整えられる。無論、新潟県民が全員叫べるような無体な移籍がなければの話だけれど。

なお、2013年の最終戦が終わってから即、叫ぶ準備万端ってところが悲しい話だけれど。

2014年[編集]

なお、躍進した2013年、本間選手からキャプテンを引き継ぎチームを立て直した三門雄大選手が横浜・F・マリノスに。そして、アルビレックスの守護神として2012年の奇跡を成し遂げる原動力となったGK東口順昭選手がガンバ大阪に移籍。

この段階で、叫ぶ準備をしていて良かったと思う反面、ああ、今年はこんなもんかと達観している新潟ファンが多いのが頼もしくも悲しい。

けれど、いきなりのキャプテンの移籍ということはすなわち、本間選手にとって2013年に激減したスタメン出場試合数を取り戻す絶好のチャンスが訪れたことを意味している。無論、ボランチの競争相手はレオ・シルバ選手を筆頭に、2013年後半戦にそれまでの右サイドから中央に移動して5連勝の立役者となった成岡翔選手、さらには2014年にジュビロ磐田から移籍してきた小林裕紀選手や期待の若手である小塚和季選手といった面々とポジション争いをしなければいけないのだけれど、キープレイヤーであるレオ・シルバ選手は別格として、後半戦不動のスタメンだった成岡選手は、岡本英也選手の起用方法によっては右サイドへ再び戻る可能性もあり、最後の1枠を本間選手と小林選手、そして小塚選手が争う状況である。

無論、選手間との連携や経験の有無といった話をかんがみれば、本間選手は真っ先に最後の1枠を担う人材と言えるのだけれど、そこはそれ、柳下正明監督がもとジュビロ磐田の監督で、小林選手を重宝していたことを考えれば、その立場は危うくなって当然であり、そしてアルビレックスの未来のことを考えれば、小塚選手の起用についても決しておろそかにはできないため、ぶっちゃければ、大変に厳しい。

が。それはそれ、ベテランという立場である以上致し方ない話であり、むしろ、ベテランだからこそこういった少しさびしい話を乗り越えていかざるをえない。むつかしくそしてさびしい話でもあるけれど。

栃木SCへレンタル移籍[編集]

2014年8月12日、ミスターアルビレックス本間勲選手、栃木SCへレンタル移籍の一報がマスコミを通じて全国のサッカーファンの間に広まる。

けれど、うん、その、なんだ。全国のサッカーファンが後半戦からベンチ外の続いた川又堅碁選手の移籍に一挙手一投足を注視してた中、不意に伝えられた&一度ショックになれるために伝えた感が強く、しかもその4時間後にしっかりと川又選手の名古屋グランパスへの移籍が全てを持っていくんだからもう。おかげで、ダブルのショックから逆に冷静になるアルビレックスファンが続出。もんのすごく冷静に本間選手を見送る状況が形成される。実際、2014年になってから、ルーキー小泉慶選手の台頭により、本間選手は公式戦に1試合しか出場しておらず、引退すらささやかれている状況であったため、今回の栃木へのレンタルについては、出場機会はもとより、ファンからは今後のサッカー人生においてより広い視野を手に入れて新潟に帰ってきてもらいたいとの声が多数となった面が強い。

同じように、川又選手の移籍についても、ファンはしょうがない仕方ないフロントはすごい代理人のアホといった、大変に冷静な空気がアルビレックスファンを支配する。なお、どれだけ深い傷を負ったかは聞くな

そして、移籍直後に栃木でスタメンを獲得するからこそのみすたーあるびれっくす。もっとも、移籍時点でJ2で16位の栃木であると同時に、もんのすごく経済的に困っている栃木である。そんな中、チームの中心選手がガンガンレンタル元へ帰還するような非常事態も発生しており、そんなチーム崩壊の危機の中、本間選手が来たという話でもある。いや、でも、うん。一番大事なのは、すがることではなくて、少しの力でも支えることなんだけれども、果たしてアルビレックスを生き延びさせたざしきわらし本間選手が、絶賛崩壊寸前の栃木を支えきれるかが今後の焦点である。と同時に、移籍直後の試合を3-0で落としたけれども、さすがに相手がJ2爆走中の湘南ベルマーレである以上、運が悪かったという話である。

基本、確定的な不運に負けないからこその本間選手である。多分。

あわせて、大変に下世話な話ながら、ぜひとも、栃木SCを支えるJリーグ屈指の名監督であった松本育夫現取締役とのツテおよび彼の人脈とつながることを大切にしてもらいたい。もっとも、ミスターアルビレックスとしてすでに築いているツテやら人脈が、実はものすごいものになっているけれどもさ。

栃木SCでの活躍[編集]

その後、本間選手は栃木のレギュラーとして瞬く間にチームに浸透することに成功する、と同時に、チームに小さな幸運と落ち着きをもたらすことに定評のある本間選手の特殊能力もまた遺憾なく発揮され、8月12日に栃木に加入した後、湘南ベルマーレ戦と次節のコンサドーレ札幌戦の引き分けを挟んでから徐々にチーム状況も良くなっていき、本間選手が試合感を取り戻すのとチームが復調する軌道が見事に合致することになる。まぁ、何をやったかといえば、混乱しやすいチームに考える余裕を与えたという話であり、中盤の底でボールをタメる、散らす、相手の攻撃を遅らせるといった、本間選手のプレイスタイルがチームが瓦解の危機にあった栃木をギリギリのところで踏みとどまらせた上で、反転攻勢する余裕をなんとか作り出した。その一点に尽きる。最終的に、栃木は3連勝でシーズンを終えることになり、来シーズンに向けてちょっとだけ期待できる体制が整えられる。ちょっとだけ。

なお、最終的に栃木の成績は15勝17敗10分の12位となっており、本間選手の加入後の戦績は6勝5敗5分と、一時6連敗で降格危機と経営危機の2つの危機があったチームとしてはまずまずの数字を獲得。そして、12位という数字がまた、大変にアルビレックスらしい数字すぎる気がしてならない。そのため、栃木SCファンからはシーズン終了後、即座にレンタル延長が求められることになるのだけれど、こればかりはアルビレックスノフロントがどう動くかにかかっていると同時に、2015年シーズンに34歳になる本間選手のプレイを求めるチームがあるということは、けっこーすごい話、でもある。

2015年[編集]

2015年1月5日、本間選手に新たな転機が訪れる。

というわけで、栃木SCへの完全移籍。まぁ、その、なんだ。降格させない本間選手の神通力を欲した栃木サイドからのオファーに、選手の移籍についてはまさに仏のあるびれっくすが動いた結果、何よりも本間選手サイドがオファーに応じた結果、33歳にして新天地へと飛び立つことになったわけなんだけれども、アルビレックスにとっても栃木にとっても本間選手にとっても素晴らしい移籍であるにも関わらず、ファンの絶叫のすさまじいことすさまじいこと。そらそうだ。アルビレックスの歴史の生き証人がいなくなるんだから、叫びたくもなるわいな。しかし、2013年の夏にレンタルで移籍して以降の本間選手の活躍と栃木SCの経営状況、さらにはアルビレックスのレギュラー陣を見れば、この移籍についても致し方ないどうしようもないしょうがない。ただただひたすらに寂しさと感謝の念と、本間選手のこれからの活躍を願うからこそのファンの嘆きである。

なにより、これまた一つのあるびれっくすの歴史なわけで。

あわせて、本間選手がアルビレックスにいた時代、若手が異常なペースで成長しまくったという話があるため、栃木の若手育成についても、もしかしたら、本間選手が何かの参考になる可能性もある。まぁ、具体的にいうと、視野の広さとケアの早さ、何よりも若手選手を委縮させない存在感は、アルビレックスの成長の歴史と見事に合致しているわけで、さらにそこに、ちょっとヘタ、完璧じゃない、けれども、こういった考えでこういった形でチームにあわせてプレーすれば、たとえJ1でもチームを破綻させずに第一線で活躍を続けることができるという、大変に素晴らしい生きた見本なわけです、ぇぇ。

まぁ、改めて、褒めるのに苦労する能力である。けど、貧乏なチームではめちやくちやありがたい存在である。と思う。

伝説の終了[編集]

そんな本間選手でもどうにもならなかったこと。それが2015年シーズンの栃木SCである。それは、1人の妖怪による小さな奇跡では到底追いつかないレベルで、組織全体が一気に沈むときに何が起こるかを明確に示すこととなる。それは、シーズンが始まる前、2014年12月に栃木のブレインであり日本サッカー界におけるカリスマの1人でもある名将松本育夫氏が栃木SCの代表取締役から退任。大きな傘を失ったことから始まる。

その後、前年度からの財政緊縮の影響で降格圏ギリギリで順位を保っていた栃木SCだったのだけれども、なんと秋を迎えた9月2日に内紛が勃発。なんと、チームの指導方法を巡って7月に就任した倉田安治監督と上野優作ヘッドコーチがチームの指導方法を巡って対立。上野コーチが退団する時点ですいません。小さな幸せを運ぶ妖怪ではどうしようもできない、ニンゲンカンケイのドロドロが栃木SCを覆うことになる。ついでに言うと、上野コーチは2010年から栃木SCとかかわっており、おもいっきし人脈的に本間選手と関わった人物だというのに、まーさか、こんな話になるなんて。その結果、見事に、ものの見事に栃木が未勝利地獄へとはまることとなる。

しかし、何が恐ろしいって、本来であればチームが崩壊し即座にJ3行きが確定であるはずの栃木がなぜか、なぜだか、残留を争う大分トリニータの不運によって残留確定を免れる事態が連発。その結果、11月8日、J2第41節までもつれることとなり、あらためて本間選手の妖力のすごさが身にしみる。しかし、栃木もまたニンゲンカンケイで呪われていることに代わりは無く、なんと最後の最後、40節、41節と連続で後半ロスタイムに同点弾を食らう時点でほぼ終了。最終的に京都サンガに0-1で敗北したことで、本間選手の小さな奇跡も終わることになる。もちろん、降格の原因の1つに本間選手のいらんレッドカードがあったりするんだけれども気にしない。あわせて、すでに選手としては次のステップを考える時期に入った本間選手であるけれど、果たして、これからどうなるかはまだ誰にも分からない。けど、まさか最後の最後でニンゲンカンケイでチームが崩壊する現場にぶち当たるというのも、ある意味、経験である。ある意味。

2016年[編集]

ある意味、サッカー選手として初めてとなる大きな挫折を味わった本間選手。しかし、戦いの舞台をJ3に移して始まった栃木SCの2016年は、本間選手のよさを存分に発揮させることとなる。とにかく、チームのコンディションや精神状態を安定させることに特化したようなその存在感は、J3の前半戦の栃木の躍進を大きく支えることとなり、35歳というサッカー選手の晩年としては破格の出場試合29という数字が、栃木における本間選手の存在価値を大きく知らしめる。

が、しかし。

日本のサッカー界には魔物が住んでいることで有名なのだけれども、それはしっかりとJ3にも存在していたことが、悲しくも魔物の1人である本間選手にも大きく影響する。というのも、基本的に、日本のサッカーとはチーム全体を調子付かせて成熟させて、夏場以降に一気に飛躍したチームが優勝、もしくは昇格という利を得ることが多く、そのことを深く心に刻んでいる指導者がいるかいないかで世界が変わる傾向にある。そして、そんな指導者、しかも、とんでもないレベルでそのことを熟知していた監督が2016年のJ3にいたことが大きく災いする。というわけで、Jリーグ屈指の名コーチとしてガンバ大阪の三冠他多くのタイトルに貢献した大分トリニータ片野坂知宏氏は、J3に降格した大分にとって最後の切り札としてガンバから引き抜かれ、初めてとなる監督業にあたることとなる。とりあえず、春先については初めての監督業ということで若干足踏みが続いたものの、夏場以降、チームと一緒に覚醒。シーズン後半の15試合でわずかに3敗、その上、シーズンの最後の最後を5連勝で締めて見事に栃木を逆転。見事チームをJ3優勝に導くことになる。

とりあえず、戦力的にも経営的にもJ1で劣っていたサンフレッチェ広島で、森保一監督の懐刀としてリーグ連覇に貢献した段階ですでに化け物に近かった人が、その後のガンバで三冠を達成した時点で完璧に化け物、てゆうか日本屈指の人材となった後、まーさか、J1チームではなくてJ3の大分の監督になるとは夢にも思うまいて。

が、しかし。現実は非情である。1年を通してコンディションを維持し、J3で17勝もの勝ち星をあげた栃木SCは、化け物の率いる大分に最後の最後で逆転を許し2位で昇格プレーオフに回されることとなり、J2で21位となったツエーゲン金沢とホーム&アウェイ方式で戦うこととなる。結果、2敗。それも、文句もない完敗。特に、初戦のホームでは本間選手が交代した後のコーナーキックで失点し敗北。2戦目も前半の時点で栃木が金沢にPKを与えた段階で、悲しいかな、本間勲選手35歳の2016年と栃木SCのJ3初年度はほぼ終了する。悲しいかな、2戦とも決して固いわけではない金沢DFに零封されたことから、J3でも顕著だった栃木の得点力不足は、J2相手だと相当に堪えることが分かったことだけが大きな収穫となる。

そして、J2昇格に失敗したチームに当然の結末が訪れる。

本間選手、アルビレックス新潟に復帰。すなわち、栃木の経営的に本間選手の給料がきつくなることは当然である。結果、チーム事情的に本間選手を必要とする新潟が名乗りを上げ、これにより、新潟は将来の幹部候補生かつファンの絶大な支持を誇る選手を獲得することとなり、栃木はチームの若返りに成功、両方に大きな利点があるのだけれども、本間選手の経歴についてはやはり微妙な傷である。もっとも、新潟時代がよすぎたというか、悪魔的な幸運に恵まれすぎた感も強いため、まずは現実に立ち返るという意味では、汚点もまた重要である。壊れたチームと壊れないチーム、もしくは壊れてもやり直せるチームのそれぞれを本間選手が体験していることは、後の財産になる。はずである。はずであってくれ。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]