札幌オリンピック

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札幌オリンピック(さっぽろオリンピック、第11回オリンピック冬季競技大会 札幌大会、XI Olympic Winter Games SAPPORO 1972)は、日本民主主義人民共和国北海道札幌市1972年2月3日から2月14日まで、共和国の威信をかけて行われたオリンピックである。

なお、本項目では日本民主主義人民共和国政府による公式発表に基づいて記述する。南日本(いわゆる「大和民国」)政府が公式発表としてでっち上げた情報については、愚かな資本主義者の為にわざわざ外部リンクを用意したので、そちらを参照して頂きたい。ただし、全て虚構である。

目次

[編集] 開催に至るまで

本来、札幌市では1942年オリンピック大会が開催されているはずであった。しかし、当時の愚かな日帝政府は世界人民の平和の祭典であるオリンピック大会を自ら放棄し、第二次世界大戦によって世界人民を恐怖と悲しみに引きずり落としたあげく、日本の大地を灰燼で覆った。

その後も、日本戦争によって再び廃墟に帰したわが日本であったが、我が共和国は人民の絶えない努力によって荒廃から奇跡的に復興を遂げ、経済的にも文化的にも共産主義先進国となることができた。そんな中、1964年に我が共和国よりも経済的にも文化的にも劣った南日本が、米帝と西欧の資本主義陣営に牛耳られた国際オリンピック委員会(IOC)の手によって西東京でオリンピック大会を開催するという小癪な真似に出た。しかも、この東京オリンピック大会は共産主義陣営や第三世界諸国が続々と不参加に回ったほか、設備の老朽化や不備によって大会運営が滞ったが故に、近代オリンピック始まって以来の大失敗に終わり、我が日本民族の世界的権威に泥を塗った。

我が共和国は、再びどん底に落ちた大和民族の誇りを取り戻し、かつ共産主義の先進国の威信をかけて、オリンピック大会を誘致することを決定。開催地としてかつて開催予定であった札幌市を選定。ソビエト連邦を初めとする共産主義陣営同胞諸君の支持もあって、1966年4月26日に第64回IOC総会は、第11回オリンピック冬季競技大会を札幌市で開催することに決定した。

なお、このオリンピックで、我が共和国政府は南日本との共同開催を提案したが、米帝傀儡国家である南日本は愚かなニヒリズムと行き詰った市場経済による不況から共同開催を断っただけでなく、総会投票では米帝ともども札幌ではなく対抗都市であるソルトレイクシティに投票した上に、参加そのものを拒否した。政治の力によって自らの晴れ舞台を失った南日本のスポーツ選手たちの悲しみは想像を絶するであろう。南日本の政治家諸君は、今一度、自分達の愚行が自らの民族を苦しめることになることを猛省すべきである。

[編集] 会場

開催決定後、ただちに「オリンピック大会成功の為の五カ年計画」が発令され、開催都市である札幌市を中心に各種インフラの整備が計られることになった。実行委員会は、東京オリンピックの失敗を研究しており、オリンピック成功のためには充分な競技施設[1]と、競技を全世界に送るための高性能の通信設備[2]が必要であることを痛感しており、この2つを中心に整備を行なうことが決定された。

札幌市内には当時既に札幌人民競技場(15万人収容、旧真駒内屋外競技場)が存在したが[3]、1950年代以来の老朽化した施設の為、急ピッチで立替工事が行われた。旧人民競技場跡地には、新たに25万人を収容でき、オリンピックではスピードスケート、アイスホッケーの会場として運用でき、夏季にはトラック競技・球技が可能な「永山武四郎記念札幌人民競技場」が落成した。隣接して、フィギュアスケートやカーリング、アイスホッケーの会場として「ウィリアム・スミス・クラーク[4]記念人民屋内競技場」が建設された。

スキージャンプ会場は、当時札幌の大倉山に「大倉山人民ジャンプ競技場」があったが、戦前からの設備で手狭であったことから、急遽K点を110mにまで延長し、15万人[5]の観客が収容できるように改装されたほか、新たに札幌市宮の森にK点70m、観客収容数30万人[6]「宮の森人民ジャンプ競技場」を新設した。

通信設備として、札幌市内にある札幌人民電波塔を147.2mから、南日本の通天閣や東東京の東京タワーを凌ぐ715mに拡張する工事が行われ、札幌人民電波塔は「札幌人民団結の塔」として世界でも有数の巨大タワーとなった[7]。通信衛星は、ソビエト連邦の同志諸君から強力な「モルニヤ5号」と「モルニヤ6号」が提供され、さらに我が国が始めて国産化した通信衛星「北極星4号」も加えられた3機体制となり、オリンピックにおける24時間の同時中継が初めて実現した。

[編集] ハイライト

こうした万全の準備の下、我が共和国と共産主義の発展のシンボルの意味を持つ、我が共和国の全人民が一丸となって取り組んだ国家的イベントは、2月3日に開会式を迎えた。開会式では、国家主席である同志宮本顕治が「全世界の労働者が、自らの力を発揮し、かつ互いに達成感と平和を分かち合う祭典」としてのオリンピックの開会を宣言。全世界の労働者によって受け継がれた聖火リレーは、人民の中から選ばれた5人の労働者によって聖火台に点火された。

大会は労働者の国であるソビエト連邦と東ドイツが熾烈なメダル争いを見せた一方で、開催国である我が国の選手が当然のように大活躍し、メダルラッシュとなった。

特にスキージャンプ70m級では、笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、我々日本民族がオリンピック大会史上はじめて表彰台を独占。その勇士は赤星飛行隊として全世界を魅了した[8]

また、米帝から出場したジャネット・リンは、フィギュアスケートで尻餅をつくというジョークで観客を笑わせ、見事銅メダルを獲得。その体を張った愛嬌から、「札幌の恋人」「銀盤の妖精」の名を欲しいままにした。

このほか、様々なドラマがあったのだが、その全てをここで述べると、この記事が原因でアンサイクロペディアのサーバーがダウンしかねないほど膨大なデータなのでここでは割愛する。

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
あとは適当に頑張ってください。(Portal:スタブ)

閉会式は2月14日であった。聖火が消えると同時に、市内各地から次々と花火が打ち上げられ、労働者のエネルギーが全世界に広がっていく有様を見事描いた閉会式は現在でも感動的なものであったと語り継がれている。

[編集] 閉会後

開会式のあった2月3日は1973年から人民の休日である「人民スポーツ運動の日」として親しまれている。

スキージャンプ会場となった両競技場は、それぞれ「笠谷幸生記念宮の森人民ジャンプ競技場」「金野昭次・青地清二記念札幌中央人民ジャンプ競技場」に改名され、現在も国際的スキージャンプ大会の会場となっている。

[編集] 脚注

  1. 東京オリンピック開催時に、南日本は西東京にある八王子市の市民競技場(わずか5000人のみ収容)を無理矢理国立競技場に仕立てたため、規模の関係上開催できない競技が続発した。我が共和国は東日本にあった幸徳秋水記念東京人民競技場(10万人収容)の提供を提案したが、例によって南日本は拒否。結果、観客が会場に入れないなどの混乱が生じた。
  2. 東京オリンピック開催時には、貧弱な設備の米帝製通信衛星を用いたため、南日本と米帝以外の殆どの国で同時中継ができず、両国は閉会後に全世界からの非難に見舞われた。
  3. 南日本の資料では、旧札幌人民競技場がメイン会場となっているが、既に立て変わっていたので誤りである。
  4. 米帝人であるが、札幌開拓の功績から人民に尊敬され続けており、特例として命名が認められた。
  5. 南日本の資料では「5万人」と過小に評価されているが、誤りである。
  6. こちらにいたっては南日本の資料では意図的に観客収容数が隠蔽されている。いくら南日本にわが国のスキー競技場に匹敵する競技場がないからとはいえ、あんまりである。
  7. 高さの715mは、日本共産党の結党記念日(1922年7月15日)に因む。なお、南日本の資料では、現在でも147.2mとなっているが、大きな間違いである。
  8. 南日本では、この赤星飛行隊に日の丸飛行隊なる名前をつけて、さも自国の選手のように装っているが、彼らは紛れもなく我が国の労働者の一員である。御注意願いたい。

[編集] 関連項目


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