東寺百合文書

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東寺百合文書(とうじゆりもんじょ)は、京都東寺(教王護国寺)に伝えられていた平安時代以来の古文書古典籍群である。現在は京都府立京都学・歴彩館に所蔵されており、国宝に指定されている。

実に24,067点にのぼる膨大な資料群は、古代から中世にかけての日本の社会を研究する上で欠かせない歴史資料となっている。2015年には、世界人類が広く共有すべき文化遺産であるとして世界記憶遺産(世界の記憶)に登録された。

概要[編集]

東寺領大山荘の荘官が、入手した書籍を東寺に納める際に添えた文書。

東寺(とうじ)は国家鎮護の寺として794年に創建された。823年、東寺は真言宗を開いた空海(弘法大師)に与えられ、以後密教の拠点として栄えることになる。平安時代末期、後白河法皇の皇女・宣陽門院は弘法大師に深く帰依し、多くの荘園などを寄進した。中世の東寺は荘園領主として勢力を誇るとともに、弘法大師信仰の中心として貴族・武士や庶民の信仰を集め、学術・文芸・美術の中心地となった。

この東寺で組織的に収集・保管・保存されてきた文書を総称して「東寺文書」と呼ぶが、このうち江戸時代前期の1685年、学者としても知られた加賀藩5代藩主前田綱紀が東寺所蔵の史料を調査した際に、多数の桐箱の中に厳重に封印したものを「東寺百合文書」と総称する。「東寺百合文書」はその後東寺に秘蔵されていたが、明治維新後の混乱の中で東寺から京都府に寄贈された。また、綱紀が書写させた資料の大部分は金沢市図書館加越能文庫に収められており、また小浜市立図書館・国立国会図書館宮内庁書陵部・京都大学文学部博物館・東京大学史科編纂所にも所蔵されている。

史料の封印が本格的に解かれ、研究が進められたのは第二次世界大戦以後のことである。現在では「日本中世史専攻の学生は必ずお世話になる」と言われるほど極めて重要な資料群と位置づけられており、文学史・美術史・女性史・民俗史・性風俗史研究でも不可欠の存在となっている。1997年6月、国宝に指定された。

なお呼称であるが、古文書を示す「文書」のことを歴史学界では「もんじょ」と呼び慣わしている。東寺はあくまでも「とうじ」であり、「ひがしでらゆりぶんしょ」「あずまでらゆりぶんしょ」などと呼ぶのは基本的な誤りとなるので、注意が必要である。

解説[編集]

平安時代末期成立の『百合若大臣物語』。「人の百合に萌ゆる」は、「百合萌え」の最古の用例と考えられる。
室町時代後期に描かれた「少女百合絵図屏風」(部分)。狩野派の絵師によるもの。

資料群は「東寺百合文書」と総称されるが、実際には文書以外の古記録や美術品などが大きな割合を占める。総数24,067点の内訳は、古文書9,454点、書跡典籍11,602点、絵画2,655点、彫刻58点、工芸品298点(分類不能の物品を含む)である。

古代から中世にかけての日本社会では、さまざまな恋愛性愛の形が認められていた。「東寺百合文書」に残された最も古い資料は、奈良時代後期に編纂されたと推測される女性同士の相聞歌集『百合集』(ひゃくごうしゅう)である。1949年になされたこの『百合集』の「再発見」によって、女性同性愛を示す「百合」という言葉の起源が従来説の室町時代よりも大幅に繰り上げられ、学界に大きな衝撃を与えるとともに、「東寺百合文書」という資料群への注目が高まることとなった。

東寺は、すくなくとも平安時代の末期には「百合」というジャンルにこだわった文学・絵画作品の蒐集を体系的に行っていたようである。東寺と深く関わった宣陽門院を中心とするサロンは、百合を題材にした和歌や物語、情熱的な書簡を多数残している。東寺が宣陽門院の影響で蒐集事業をはじめたのか、宣陽門院が東寺の影響で百合に目覚めたのかは、研究者の間でも議論の分かれているところである。

「東寺百合文書」のなかには、全国に散在する東寺領の荘官に百合本の蒐集と献本を命じている文書も含まれている。鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題や、室町幕府の京都所司からまとまった本が寄贈されているのも確認される。ジャンルを限定した一種の納本制度といえよう。なお、東寺はたびたび戦火や災害に巻き込まれ、堂宇を焼失しており、そのシンボルである著名な奇摩子塔(通称:五重塔)も例外ではなかった。五重塔が焼失すること4度に及ぶが、そのたびに情熱的な再建運動が行われた。「東寺百合文書」の中に含まれる再建勧進帳(此処に奇摩子塔を建てんと請う状)や一紙半銭からの寄進の記録からは、貴族や武士から庶民にいたるまでの多くの人々の聖地への熱い思いを読み取ることができる。

戦国時代を経て江戸時代に入ると、武士階級の間では男性同性愛(衆道)が推奨され、君臣間の忠義や恩愛と結びついた高い精神性を持つものと称揚される一方、女性の同性愛は抑圧された。儒教思想の影響によって封建的家族制度が成立することと関連付け、「男性による同性愛の独占」と捉える論者もいる。こうした江戸幕府の百合抑制政策について「一部の特権階級による趣味の独占」「江戸幕府による思想統制・表現規制の現われ」とする観点から、調査と封印を実行した前田綱紀が批判されることもある。しかし、結果として多数の作品が散逸と隠滅を逃れることとなった。「東寺百合文書」は、古代から近世初頭にかけての800年近くにわたって生み出された女性同性愛に関する文学・絵画作品を集めた一大コレクションであり、世界に類例を見ない。孤本が多いことも、この資料群の価値を高くしている。

前田綱紀の調査はきわめて念入りで、詳細なジャンル分けを行っていることも注目される。一部の作品は書写を行わせ、金沢に持ち帰っていることも明らかになった。綱紀の嗜好も研究の過程で明白となっており、「王朝時代の貴族の少女(攻め)とその侍女(受け)」である。東寺百合文書には行くところまで行っている作品も収められているが、綱紀は一線を踏み越えそうになりながら決して踏み外さない関係の作品ばかりを書写させている。これは、綱紀の萌え思想を探る上で重要な事実である。同好の大名公家たちと趣味を分かち合うこともあったようであり、綱紀の手を経て伝播した作品が他の文芸作品に与えた影響について文献系統学の分野から検討が進められている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 東寺百合文書WEB - 文書すべてをデジタルデータ化し、CC BY 2.1 JPライセンスでWEB公開したもの。