松平容保
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松平 容保(まつだいら かたもり、天保6年12月29日(1836年2月15日)~明治26年(1893年)12月5日)とは、日本の歴史上において全く重要な人物でもなく、果たした役割も犯した重大な悪行も全くないのに、中学や高校の日本史の授業で反復的にその名を聞かされる人物。親藩とは言えごく普通の大名に過ぎない人物だが、彼を取り巻く様々な事情によりその毀誉褒貶は織田信長や豊臣秀吉をはるかに凌駕する極端なものである。
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[編集] 貧乏籤を引かされまくった不条理な人生の概略
- 尊皇攘夷を掲げる人斬りどもが縦横無尽に暴れ回っている京都に京都守護職として赴任。家老の西郷頼母は断固反対したが人の良い容保はホイホイ承諾。一本目の貧乏籤を引かされる。
- 素朴で実直な容保は孝明天皇から篤く信頼された。朝廷内の佐幕派と協調して公武合体を推進、薩摩藩と結託して尊皇攘夷の巨魁長州藩と過激派の公家達を文久三年八月十八日の政変で京都から追い出す。
- しかし変節漢の薩摩藩は長州藩と結託して倒幕へ傾斜。容保と懇意だった孝明天皇もポックリ逝ってしまい、過激派の公家達が捲土重来を期し、幕府軍は薩長連合と鳥羽伏見の戦いで激突する。容保は将軍徳川慶喜と共にこれを迎え撃つが、朴訥で真面目な容保には慶喜の複雑怪奇な思想が理解出来ず、気がついた時には無理矢理慶喜に連れ去られ一緒に敵前逃亡させられる。貧乏籤二本目。
- 慶喜と共に官軍となった薩長から朝敵の烙印を押されてしまい、更に奥羽越列藩同盟の旗頭に祭り上げられる。貧乏籤三本目。
- 薩長(実際には薩摩と土佐。ちなみに長州軍はほぼ全く会津で戦っていない)軍によって会津の地は蹂躙され、会津藩は奮戦するもついに降伏する。容保を殺しては会津藩士達の感情を逆撫ですると薩長の参謀らが案じたため命は助けられたが、逆に世間から生き恥を晒したと後ろ指を差され笑われる。貧乏籤四本目。
- 実際に奥羽越列藩同盟で最も奮戦し、官軍に痛手を負わせたのは庄内藩だが、何故か薩長は会津に強い怨嗟を抱いた。貧乏籤五本目。
[編集] 後世の扱い
新選組の上司だったことから、新選組を描いた小説やドラマでは必ずと言っていいほど登場し、義侠心に溢れた人物として描かれる事が多く、それなりの認知度を得、新選組ファンからは強い同情や好意を向けられている。
一方で、西郷隆盛や高杉晋作などのファンからは時流が見えず旧弊に縋る頑迷暗愚な人物、因循姑息の代名詞として嫌悪・唾棄される傾向にあり、評価が激しく二極化している。
[編集] 歴史の授業における扱い
学校の歴史の授業の先生が容保、並びに会津について語る時やたらと饒舌になることがある。歴史の先生というのは大抵偏狭で険介なオタクが嵩じて教師となったものが多く、毀誉褒貶の激しい会津藩に対してはひどく肩入れしてるか、蛇蝎の如く嫌っているかのどちらか一つであるといってよい。
その先生が会津マンセーなら、薩長の卑劣さ、蹂躙された会津の悲惨さ、容保の優れた人物像という個人的な脳内捏造などをカリキュラムを完全に無視、いや放棄して延々と語り続け、酷い時には早乙女貢・星亮一・中村彰彦の著作を読むことを推奨、いや強要したあげく、生徒の目の前で古川薫の著作を文字通り焚書にする。
しかしその先生がアンチ会津だった場合、会津藩の愚かしさ、今だ薩長に的外れの怨嗟を抱く会津人の粘着振りという個人的な脳内捏造などをこれまたカリキュラムを完全に無視、いや放棄して延々と語り続け、酷い時には古川薫の著作を読むことを推奨、いや強要したあげく、生徒の目の前で早乙女貢・星亮一・中村彰彦の著作をこれまた文字通り焚書にする。
当然どちらにせよ生徒は辟易し、したり顔で持論を語り長広舌を振るう教師の醜く浅ましい姿を反面教師にして俯瞰的な視点の何たるかを学び、ついでに「会津の勉強だけしてれば次のテスト満点取れますか」、或いは「会津の悪口書けばテスト満点にしてくれますか」などと先生に皮肉を言ったりする。もちろん、会津論争に全然興味がない先生もいるが、そんな奇特、もとい貴重な先生は極めて稀である。