柄谷行人

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柄谷行人(からたに こうじん、1941年8月6日-)は、日本のアナーキスト。こども銀行総裁(初代)。

80年代・90年代を通して日本の論壇で最も強い影響力を持った論客で、思想史的には丸山眞男ら近代主義の左翼(オールド・リベラリスト)の系譜に連なる。左翼系文芸誌「群像」の新人文学賞選考委員として推した山城むつみ(評論部門。『転形期と思考』は福田和也も褒めた)、教授を務める法政大学に原稿を持ち込んだ東浩紀など、「とうてい世に受け入れられようもない人を世に出してきた(笑)」。

趣味は取り巻きの学生を集めてする床屋政談で、生意気な大学生が「柄谷さんの言う他者って三島由紀夫が語る天皇と同じでしょ?」とか言って茶々を入れるとマジギレする。興が至れば息子の学校に怒鳴り込む子煩悩ぶりでも知られている。

絶望から出発しよう[編集]

岩波書店論壇誌世界」掲載論文「超国家主義の論理と心理」で熱狂的に迎えられた丸山ら1945~55年の「第一の戦後」(©小熊英二)知識人が「世界は条理によって覆うことができる」とする近代的合理主義を全共闘運動の指導者吉本隆明や軽薄な学生らにブッ叩かれて1968年以降急速に影響力を失っていくのを目の当たりにした柄谷は、相対主義・懐疑主義的世界観が支配的になった「第二の戦後」の用語で近代主義の思想を語り直そうとした。柄谷は吉本の論敵の一人埴谷雄高[1]を経由してカントの主著『純粋理性批判』を耽読し、 近代的な「秩序によって把握できる世界」観を提示したいという価値判断、「統制的理念」(=現実には満たされない欲望)の語り方を体得した。

柄谷は長年左翼仲間と自前の論壇誌を作って来たが、今やめぼしい書き手がほとんど寄り付かなくなった「世界」などに寄稿することもある(まず巻頭に掲載される)。現代の論壇ではレヴィナス教信者によって神秘化されがちな「他者」概念 [2]に対して「平面的な他者」「ありふれた世俗的な他者」を提示する宗旨論争を展開しており、相対主義(全共闘世代の新左翼)と相容れない左右の学生を信者に持つ。

知的アイドルとしての「批評空間」[編集]

ニュー・アカデミズム」論壇の旗手、浅田彰らと運営していた「季刊思潮」に続いて創刊した雑誌「批評空間」には読まないでくれと言わんばかりにハイレベルな教養を読者に求める記事がたびたび載り、「エリート主義」とも言われた定価2000円以上の季刊誌だったが黒字経営を続けていた。

9.11当時に「新潮」で近代戦争の大量殺戮を賛美する[3]『イデオロギーズ』を連載中だった福田和也を呼んで座談会を開いたり、柄谷凛(柄谷の妻)がイスラム原理主義によるマルクス主義の包摂・政治利用を指摘する海外の言説を紹介したりと、絶えず論壇に話題を撒いていた。

誌名「批評空間」はアメリカの白アリ駆除会社「critical space」にあやかったもので、当初資本制国家の首相官邸や国会議事堂に白アリをバラ撒いて世界同時革命を実現する計画があった。

「プロレタリアートは鉄鎖の他に失うべきものを持たない」と言うけれど、われわれは鉄鎖も持っていないのだから(笑)」
共産主義革命 について、柄谷行人

「批評空間」も従来利用していた太田出版を離れて新たに設立した出版社「㈱批評空間」から発刊、柄谷も同社から10年がかりの大著『トランスクリティーク―カントとマルクス』を刊行した。『トランスクリティーク』では柄谷教の教理である「ネーション・国家・資本制」の三法印の理論体系を初めて本格的に展開した。だが、西洋史がサード・ミレニアムに入って間もない2002年、釈迦の法(ダルマ)が完全に失効し、「批評空間」発行人の内藤裕治が白アリに食われて死亡、㈱批評空間は経営が立ち行かなくなる。また、柄谷らは共産制社会を実現するため生産者共同組合アソシエーション運動NAM(仏教用語南無から。「柄谷に帰依します」の意)を続けていたが資本制を打倒する目処は付かないままみんな色々忙しくなり、グズグズになってしまった。柄谷・浅田が暗黒空間「大殺界」に引き込まれ存在を失っていくことに気付き災厄を逃れたのは東浩紀ひとりだけだった。

「すまないね……父さんの会社は、倒産したんだ。」
㈱批評空間 について、柄谷行人

持ち前のカリスマ性で何とか閉鎖空間を抜け出た柄谷は、運命論に惹かれがちな生来の気質(亡き前妻も占い師の冥王まさ子)が亢進し、マルクス経済学の(近代経済政策によって克服されて久しい)60年周期恐慌説に期待をかけるようになった。

いまだ妖怪は徘徊している!

豪腕ハスミン[編集]

東大総長の映画評論家、蓮實重彦(ハスミン)は世界各国の紛争地域で柄谷と共闘した戦友。柄谷・浅田・蓮實の三人が揃うと吉本隆明が「知の三馬鹿」と呼んで揶揄するので普段三人は別行動を心がけている。三人の思想的立場には元々違いがあったが、浅田は柄谷と長く一緒にいたためかポストモダニズムから近代主義に近づいている。

「あなたがバカだからです」事件
1988年の夏のことだった。その夏、東京大学教養学部で、浅田のマブダチであるオウム真理教信者の宗教学者中沢新一が、人事で委員会を通りながら教授会で否決され、当時すでに右傾していた西部邁が抗議の辞職をするという、いわゆる「中沢事件」があった。教養学部では、中沢を弁護した蓮實、村上陽一郎と、歴史学者の義江彰夫に、中沢人事に反対した宇宙物理学者の杉本大一郎ともう一人理系の教授を揃え、駒場でシンポジウムを行った。
その際蓮實は、「蓮實は胸に辞表を入れているのではないかと言われていますが」などと言って正直目ざわりだった西部を政治的に利用しながら結局見殺しにし、自分だけトントン拍子に出世コースを進み総長になった。「えっ、どうしてアンタだけ……」と絶句した西部にひと言。


  「あなたがバカだからです」


それから10年後、西部が福田和也と連れ立って「批評空間」のシンポジウムに参加した際報復を恐れた東大総長ハスミンは机の下に隠れていた。
権力への意志
後の東大総長南原繁の庇護下で特高に怯えながら政府批判を続けた丸山眞男とは対照的に柄谷は権力が大好きである。このキャラクターが「世界」よりは「文藝春秋」を好む今時の右傾した学生連中や「保守」論壇に許容される要因にもなっており、柄谷は文藝春秋社からも単行本を出している。
蓮實の総長在任中(1999年)に当時58歳の柄谷は、「批評空間」の公開シンポジウム「共同討議」で「ぼくにはもう時間がない」と焦りをあらわにし、「誰にせよ、何らかの選択を迫られる時期が来る。東大総長になる手もあるわけです(笑)。」と言って、その場に居ない蓮實に具体的な人事を打診した。これを受けて蓮實は全力で暗躍したが根回しに失敗した。
蓮實ですら東大教授になってから教養学部長、副学長を経て総長になるまで足かけ10年かかり、総長を5年務めることになったくらいなので柄谷を定年(当時65歳)までにねじ込むのは流石に無理だった。

こども銀行総裁として[編集]

ソ連の崩壊まで素朴なカタストロフィ待望論者だった柄谷は資本制の積極的打倒を唱えながらも「地震が来た時中央にとって代わることができるよう」西部忠の理論に従って、私立の発券銀行「こども銀行」を設立、こども銀行券「Q」を発行している。「Q」の兌換制度には「人物本位制」を採用しており、貨幣の信用は柄谷のカリスマ性で担保している。 柄谷が全国の大学を回って「Q」の素晴らしさを説いたところ、こども銀行には200人もの学生会員が集まった。

「Q」のネーミングについて柄谷は「Q(球)は三次元ですから(日本)円より優れているわけです(笑)」(大意)と述べ、 「批評空間」の外では宮台真司山形浩生らの温かい声援に迎えられた。柄谷は経済学部の学生時代にアカの預言書ばかり読んで数理経済学をおろそかにしたこと、論敵の吉本隆明(理系)が無闇に振り回す数学・理科用語に翻弄されたことなどから抜きがたい理系コンプレックスを持っており、自分の思想を語る際にしばしば独自の数学理解を披瀝して周囲を困惑させている。

晩節を汚した後継者問題[編集]

柄谷には西洋コンプレックスもある。「西洋人は日本にものを考える人間がいないと思っている」と危機感を示して、 たびたびアメリカに行って現地の知識人と交流を持とうとしている。

「アメリカから帰ってきた時に読んだのですが、吉本隆明が高橋源一郎との対談のなかで、私のことを嘲笑していたのを覚えています。嫌な言い方をしていたので、今も覚えているのですが、「ほんとうにいい仕事をしていたら外国に行く必要なんかない、向こうからやって来て、カラターニなんていうだろう、ワッハッハ」というのです。そのとき、それは違うと思った。そんなことは絶対にない。自分が出て行かなかったら、向こうは来ない。来るとしても、向こうにも別の動機があるわけで、彼らに都合よく料理されるだけです。」
オリエンタリズム について、柄谷行人

20世紀末に「批評空間」の第Ⅱ期刊行を終える時、東浩紀が柄谷・浅田に「今の学生は批評空間なんか読んでない」と警告したが、東の言い方が気に入らなかった二人はそれを無視してしまった。その結果が人材層の薄さによるトラブル耐性の低さであり、Ⅲ期初頭の頓挫として表れた。柄谷としては自分の弟子筋である東に論壇を禅譲して院政を敷くつもりでいたが、ここで機嫌を悪くした東は学生読者を根こそぎ奪って柄谷を放伐してしまった。若者の柄谷離れが急速に進行した結果、柄谷は「右翼だか左翼だかわからない」福田和也との関係を強化するなど迷走し始めた。

ついには(あんまり頭よくない)読者を多数抱えるフェミニスト東大教授上野千鶴子(思想は吉本隆明に近い)に頭を下げて一緒に雑誌「at(アタシは東大教授)」を創刊するが、権勢欲のかたまりウエノの顔を立てるため論壇の挨拶回りをさせられ、あげく自分の思想までウエノに「都合よく料理され」て疲れ切った柄谷は2009年に結局休刊。サブカル論壇に「閉じて」いく東を横目に見た柄谷は、福田と坪内祐三が編集する雑誌「en-taxi」に食指を動かしていたらしいがこの雑誌も2015年に休刊している。

脚注[編集]

  1. ^ カントが人知の限界を超えるものとして想定した「物自体」が理性によって捉えられるとしたら、という仮定を文学的に語った。吉本に「お前の『死霊』には同じ本屋の「コム・デ・ギャルソン」と同じ価値しかない」という「コム・デ・ギャルソン論争」で葬られた。
  2. ^ 近代的な「文明人」の世界観を際限なく脅かすものとして語られる。
  3. ^ このテーマをハイデガーベンヤミンモリスマリネッティで語る構図は『知の欺瞞』で吊るし上げられたヴィリリオ以来のもので、80年代に浅田が主催した思想誌「GS」の特集「戦争機械」の焼き直し。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]