核実験
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
核実験(かくじっけん)は核兵器を用いた大規模な実験の総称。爆発マニアを喜ばせ、国力を見せびらかすために行われる。冷戦中にアメリカ合衆国とソビエト連邦が核実験の実施回数やその内容を競った経緯がある。そのため、2008年にあるかもしれないし、ないかもしれない。
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[編集] 前史
人間は華々しい爆発を好む傾向がある。とくにおつむの弱いアメリカ人は、数々の映画に代表されるように、圧倒的な迫力の爆発シーンを見せれば満足する。しかしこれはアメリカ人に限ったことではなく、ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタもラピュタの強力な力を手に入れて最初にしたことは、大規模な爆発を起こすことであった。モンゴル人もすでに13世紀には「てつはう」と呼ばれる、当時としては強力な火薬を使用することに快感を覚えていた[1]。このように大きな爆発を起こす行為は、人類にとってのごく基本的な欲求ということが出来る。また古来から、より大きな爆発を起こすことへの需要は大きいかった。
上で述べたモンゴルの「てつはう」は、そうした欲求を満たすものとして開発された。しかし一瞬にして火炎が立ち上がるというものではなく炸裂弾のようなものであったと考えられる[2]。そのため、世界各地(とくにヨーロッパ)で改良が重ねられることになった。なお、現在、地球上に広く普及している鉄砲とは似て非なるものである。
飛躍的な進歩をもたらしたのは、アルフレッド・ノーベルである。彼は高性能爆薬ダイナマイトを発明した。当初は土木工事などに使われたが、その威力を誇示したい軍人がこれに着目し、戦中に積極的に敵軍にその威力を見せびらかした。あまりに相手の近くで使用するため、敵兵に死者が生じることが多かったと言われている。 現在、ダイナマイトは、ビル解体に使用されるが、最近では、銀行強盗や、無理心中、覚醒剤としても使用される。
1891年にはトリニトロトルエンの工業生産が実現し、高性能爆薬がより簡単に、大量生産できるようになった。この火薬は20世紀後半に入っても、リビアなどで愛用された。破壊性能に加えて、同時に大量に使用すれば大きな火球が現れやすい点が人気の理由である。
火薬の改良競争はこのころから激化し、より手ごろな火薬(手榴弾など)とともに、より威力の強い火薬の開発が進められた。
[編集] 核実験の実現
1930年代にはアメリカの物理学者エンリコ・フェルミはが、核分裂により非常に大きなエネルギーを取り出すことが出来ると予言した。そしてまもなく、第二次世界大戦が始まった。ドイツの爆発フェチとして知られたアドルフ・ヒトラーがこれに目をつけないはずもなく、アーリア人の優越性を示すためにも、核分裂を用いた大爆発実験を成功させようとした。
フェルミらと同じく核分裂を研究していたレオ・シラードは、ナチスが開発中だった核爆弾の設計図を盗み出し、これをアメリカ合衆国のオットー・フリッシュらに密売した。フリッシュはこの設計図を、さも自分が考えついたものかのようにフランクリン・ルーズベルト大統領に見せ、核爆弾の製造が可能であることを進言した。ルーズベルトはアメリカ人の優位性を見せつける絶好の機会として、すぐさま開発を全面支援することを決めた。こうした経緯には、20世紀最大のイベントとなった第二次世界大戦中に史上最大の爆発を見せて全世界からの注目を集め、さらには政治家や科学者として名を挙げようとした彼らの醜さを見て取ることができる。
ドイツや日本との競争に勝つべく開発を続けたアメリカは、1942年には核分裂を制御することに成功した。こうして、超強力な火薬を用いた大規模爆発が現実味を帯びてきた。1945年にはこれを爆弾としてまとめることに成功し、ネバダ州でアメリカ軍人たちにより実験が行われた。強力な閃光と、高々と上がる煙を見て、当時の将校たちは喝采したと言われている。
[編集] ヒロシマ・ナガサキ
初の核実験に成功したアメリカ人は、その素晴らしさを世界に見せつけようとした。輝かしい歴史の1ページを飾るのに最適な場所は、世界がもっとも注目する場所でなければならない。当初はニューヨークが予定されていたが、第二次世界大戦中にあってはニューヨークが必ずしも世界で最も目立つ場所ではないと判断された。ヒトラーの度肝を抜こうかとベルリンでの実施も検討されたが、すでにヒトラーは自殺していた。そこで孤立無援ながら無意味に戦闘を継続する姿が哀れみの対象として世界から注目されていた日本で核実験を実施することにした。
まず東京での実施が検討されたが、すでに東京大空襲で主要な建物が破壊・消失していた。爆発マニアたちは、大爆発によって生じる火球・煙・建造物の破壊の3点を重視するが[3]、東京では3点目が満たされない。そこでまだそれなりに建物が残っている広島市と長崎市が選ばれた。
なお、アメリカは核実験の実施をにらんで、ドイツと日本の主要都市はあえて攻撃せずに残しておく方針であった。しかし軍人にしては珍しくアンチ爆発のカーチス・ルメイが先に東京や大阪などで大火を起こして喜んでしまったために、東京での核実験の実施を断念することになってしまったという逸話がある。
広島市や長崎市での実施の際には、爆発マニアを喜ばせるために建造物の破壊は必須であった。しかし当初から殺傷目的はなかった。そこでアメリカ人たちは事前に実験日と実験地を記したビラ(伝単)を撒き、実験の巻き添えにならないように警告していた。しかし日本政府はビラの内容を精査しないまま、これに惑わされないように通達を出してしまったために、広島市や長崎市から一時避難する人間は僅かであったという[4]。
広島市では8月6日、長崎市では8月9日に実施された。アメリカ軍は細部にまで細工を施し、投下時には落下傘を用いて見物人の注目を引き、爆弾には反射材を用いて太陽光を反射させた。広島市内で見物していた人の多くが、「キラキラと光っていた」と証言している。こうした装飾にも気を配った点からも、アメリカの力の入れようが分かる。
広島市では産業奨励館の上空で爆発、巨大なキノコ雲を作り上げた。また、爆心地付近では建造物がほぼ完全に破壊したが産業奨励館だけが残り、かえって爆発マニアは喜んだ。日本人たちも「ピカドン」と呼称し、巨大花火のように捉えていた[5]。広島市の日本軍司令部はその状況を直ちにこれを福岡指令に打電、瞬く間に日本全国や朝鮮半島、満州にまでこの情報が伝えられた[6]。また、アメリカのルーズベルト大統領は、全世界に対して
- 16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、二千倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。
と発表した。この声明を見ても、アメリカがイギリスに代わって世界のリーダーになりたいと考え、その自慰示威行動の1つとして広島市で核実験を行ったことが分かる。
3日後には長崎市でも核実験を行ったが、さらに強力なものであった。キノコ雲も整ったマツタケ状となり、広島市以上の成功を収めた。なお、長崎市では爆弾の投下点に刑務所が選ばれた。これは不当に逮捕・監禁されている思想犯囚人を解放しようという、まことに自由の国アメリカらしい発想であったが、爆発の威力が大きすぎたためにほぼ全員が生の苦しみ自体から解き放たれる結果となってしまった。
実験を通して広島市で15万人、長崎市で7万人が死亡した。日本はアメリカに対して厳重に抗議したが、アメリカは事前に核実験の実施を通達したと発表しており、避難しなかった日本人が悪いと返答した。ちなみにこの核実験を指揮したルーズベルト大統領や軍の幹部は誰一人として、殺人罪はおろか業務上過失致死傷罪でも立件されていない。このことからも今日では、アメリカに瑕疵はなく、避難しなかった日本人の自己責任との見方が支配的である。
被爆した市民が死亡すると、この実験の犠牲者数に算入していることが知られている。焼死や圧死ならば実験による死者と推定されるが、近年の被爆者の死因はほとんどが悪性新生物(がん)である。彼らは実験時に放出された放射線によるものだと主張しているが、日本の死因の第一位が悪性新生物である点に注意しなければならない。つまり、単に高齢などを理由に発病した疾病による病死も、無理やりこの核実験の死者に算入して被害を大きく見せかけているのである。被爆者の中には実験を行ったアメリカに対して謝罪を要求している者も多いが、データをでっちあげて不当に賠償金を要求する被爆者に対してアメリカが応じるはずはないのである。
[編集] 冷戦中
冷戦中は、米ソ両国が核実験を競い合った。核実験の実施のためには高い技術力と莫大な資金が必要とされたため、国力を誇示するにはもってこいであった。結果が華々しく、翌日の新聞の1面で写真つきで大々的に報じやすい点も好都合であった。
しかし両国の対応には差があった。アメリカは実施前から大々的に宣伝し、多くの報道陣を招待して実施することが多かった。そのため写真が多数残されている。ドワイド・D・アイゼンハウアー大統領は積極的に写真を撮らせ、後世までその栄光を伝えたいという思惑があったものと思われる。宣伝方法も工夫がなされており、ビキニ環礁などの南洋リゾート地で実施することで、バカンスを楽しむ世界のセレブたちに間近で楽しんでもらうことを考えた。しかし環礁では建造物の破壊が困難であり迫力に欠けるため、代わりに戦艦長門を破壊するなどした[7]。
一方ソビエト連邦では核実験を他国に公開しない方針をとった。これは国民から多額の税金を徴収して実施する核実験を、税金を払っていない他国民にも公開することは、租税負担の不公正を招くという考えに基づいたものである。そのため実験ももっぱら自国で実施された。
爆発フェチが注目する火球や煙の美しさや多様性は、両国とも力を入れていた。上述の通りアメリカの核実験は写真が多く残っている。たとえば人類初の水爆実験となったIVY MIKE作戦では、細い煙柱の上に球状の白い白煙をたたえ、「綿菓子」の通称で喜ばれた。その後も美しい水柱を作ったり、ベールのような薄い煙の膜を作ったりと、趣向を凝らした実験が行われた。ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタの意向で行われたレッドウィング作戦では、大迫力の火球に本人もご満悦だったという。
ソ連の核実験の写真は少ないが、それでも初の核実験では不気味な黒煙を上げる写真が残されている。初回にしてはなかなかの出来であり、「黒い綿菓子」の通称で爆発フェチから喜ばれた。そのなんとも言えない不気味な様子はホラーマニアや廃墟マニアまでが注目しており、世の中の関心の高さを伺わせる。しかし同国の方針によって、その後の実験の写真がほとんど残されていないことが惜しまれる。
両国の対応の差こそあれ、1960年ごろまで競争は続いた。その中でも飛び切り大きな実験が、1961年にソ連のノヴァヤゼムリャで行われたツァーリ・ボンバの核実験である。爆煙は1,000km離れた場所からも確認できるほどの規模で、人類史上最大の爆発を作り出したと、ロシア国民の間では今なお語り草となっている。しかしここでも写真の流出が制限されている。ウィキペディアには一葉だけ掲載されているが、しっかり知的財産権を主張している点が興味深い[1][8]。
核実験は1950年代に全盛を迎えたが、1960年代以降は国力を見せ付けるための手段が宇宙開発に移ってしまった。1969年にアポロ11号が有人月面着陸を果たすと、核実験はほとんど注目されなくなってしまった。1962年にはジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフの米ソ首脳が政治的パフォーマンスを見せて、両国は決して核兵器への関心が薄らいでいるわけではないことをアピールした。しかし華々しい爆発シーンが見られなくなったことは事実である。
[編集] 地下核実験
実は地上での爆発シーンが見られなくなったことにはある理由が存在する。地球科学業界からの要請である。
地震波は地球内部を研究する手段として有効であるが、地震は自然現象であるためその波も複雑な形をする。そもそも地震は断層破壊現象であるから、断層のあっちとこっちで異なる波を発生させるのは当然であり、そうした方向依存性を取り除きつつ地球内部を研究することは非常に骨の折れる作業であった。しかし地下核爆発を行えば、それは等方爆発であり、すべての方向に同じような波を出す。それゆえ研究がはかどるのである。
1960年代初頭に、アメリカ地質調査所は政府や軍関係者に対して、今後は核実験を基本的に地下で実施するよう要請した。研究機関が軍にこのような要請を行うことは嘘と思われるかもしれないが、NASAが研究目的から軍事偵察衛星の共同利用を求めることと同じである。地下核実験は爆煙を生じないため本来の目的と相反するとしてケネディ大統領は難色を示したが、プレートテクトニクス理論の発表などによって地球科学が大きく注目されていたこともあり、最終的に了承した。
しかしアメリカが爆発フェチの需要を切り捨ててまで行う地下核実験のデータを、ソ連などの他国にも簡単に使用されることが課題として残った。そこで1963年、ケネディ大統領はアメリカン大学で演説し、すべての核保有国が地上核実験を停止して地下核実験に切り替えるよう求めた。これにソ連とイギリスが同調し、部分的核実験禁止条約が締結された[9]。アメリカは1965年以降は、南洋での地上・水中実験からアムチトカ島での地下核実験に切り替えている。しかし発展途上国の中華人民共和国は外国人観光客から外貨を獲得しようと、その後も熱心に地上実験を行った。ルールを破るのが大好きなフランスもこの条約を無視して華々しい爆発の姿に酔いしれた。
大国が地上実験から地下実験へ移行したことにより、爆発フェチは落胆を隠せなかった。しかし腹に響くような地面からの独特の衝撃が流行した。同じような衝撃を生む楽器として、太鼓や銅鑼にも関心が集まったのは思いがけないことであった。また、地震波の記録を使って地下のどこで実験が行われたかを探る知的ゲームが流行し、攻略本まで出版された。
[編集] ソ連の失敗
1970年代なかば以降は、地震学が飛躍的に進歩し、もはや核実験は学術的にも必要なくなった。ソ連は核実験の新たな展開を試みるべく、中性子爆弾の開発を推進した。この爆弾の利点は、大規模な爆発を伴わないことから、部分的核実験に抵触しないことである。
1986年、ソ連はチェルノブイリで人類史上初の中性子爆弾地上核実験を実施した。大規模な爆発こそないが、ソ連が地上核実験を実施することは約20年ぶりであり、多くのファンが集まった。しかし中性子爆弾は極めて多量の放射線を周囲に撒き散らす。集まったファンや、ファンを整理する公務員多数が放射線障害を患い、およそ4万人が死亡する事態となった。これ以後は大規模な中性子爆弾についても地上での使用が禁じられることとなった。
[編集] 冷戦後
冷戦終結宣言が出されてソ連が崩壊すると、核実験を取り巻く環境も大きく変化した。中でも重要な点は核拡散である。五大国が独占していた核開発技術を多くの国が手にし始めた。1998年にはインドとパキスタンが相次いで核実験を成功させたが、とくにインドは21世紀を主導することが予想されるBRICsの一員であることを国際社会に強くアピールした。2006年には朝鮮民主主義人民共和国が核実験を行い、経済的に恵まれていない同国が大きな観光資源を手にすることとなった。
五大国側も核兵器の輸出に熱心である。1980年にアメリカは山岳地下で新たなタイプの核実験(セントヘレンズ作戦)を成功させた。これは山頂の地下浅くで核爆発を起こし山から煙を吐き出させるもので、部分的核実験禁止条約を履行しつつ煙を見ることができるという利点がある。これをアメリカの旧植民地であるフィリピンに技術指導し、1993年に同タイプの核実験を成功させている(ピナトゥボ作戦)。しかもピナトゥボ作戦では煙の形も改良され、東南アジアでも高水準の核実験を実施できることが示された。
技術移転が加速したために自国での需要が減少しつつあったアメリカは、2003年にイラクの核実験阻止を目的として同国に侵攻した。これに対してイギリス、日本、大韓民国、トルコなどを除く国際社会の大半は猛反対した。日本でも菅直人や小沢一郎らはアメリカを批判している。このイラク戦争が示すように、もはや核実験は大国の独占的観光資源ではなく、世界のあらゆる国が核実験を行う権利があるとする考え方がグローバルスタンダードとなりつつある。
現在は包括的核実験禁止条約によって核実験は禁止されている。 しかし臨界前核実験は包括的核実験禁止条約対象外なので アメリカは依然未臨界核実験を行い続け核兵器の性能を維持している。
[編集] 今後の展開
1996年にはフランスが南太平洋のムルロア環礁で核実験を実施した。これはかつてのビキニ環礁の例と異なり、開発途上国に大きな観光資源を提供することによって開発を援助する目的があった。前節で挙げたピナトゥボ作戦なども含め、今後はさらに核実験を利用した援助が期待されている。
一方で2001年にはアメリカのニューヨーク市中において、核兵器を使用しない大爆発が実施された。核実験実施国が増え、核実験だけでは大国の証明とはならなくなった今日において、アメリカなどの先進国では爆発フェチを喜ばせるための様々なイベントを創造していく必要に迫られている[10]。
[編集] 核実験の種類
すでに様々な核実験を紹介したが、以下に整理する。
- 地上核実験
- 地上で核実験を起こすもので、爆発マニアたちが鑑賞しやすく、もっとも喜ばれるタイプである。クルーズしながら楽しむための水上核実験もこれに含まれる。米ソを中心に各国で実施された。
- 臨海前核実験
- 港などのすぐ目の前で行う核実験であり、地上核実験とは区別される。爆発の迫力を間近で感じられることから、爆発マニアたちの間では人気がある。熊野花火大会と同じ感覚と言えよう。
- 水中核実験
- おもに海中で核実験を行うもので、水柱が生じることから一部のマニアから強く支持されている。おもに南太平洋で行われる。
- 地下核実験
- 地下で実施する核実験であり、その様子を直接映像として捉えられないことから、爆発マニアを落胆させる。しかし地球科学分野からの需要が高いほか、場所当てゲームと呼ばれる新たな需要を掘り起こした。
- 大気圏外核実験
- 宇宙空間で実施する核実験で、夜空に閃光が現れる様子はロマンチックである。実施費用がかさむことから実際にはほとんど行われていない。しかしこのタイプへの関心は高く、「宇宙水爆戦」など、大気圏外核実験を扱った多数の映画が制作された。実際の実験では大気がイオン化するため地上の核ミサイル発射基地等の電気設備が機能を果たさなくなり、地上爆破より極めて効率的な攻撃手法である。
- 臨界前核実験
- 爆発前に止めてしまう核実験であり、多くのファンを落胆させる。アーン♥♥の寸止めを食らったことがある男性諸氏のあの感覚である。空気の読めないアメリカ人が頻繁に実施する。
[編集] 反対運動
多くの人が素晴らしいと認めることには、一方でいちゃもんつけも現れる。核実験も例外ではない。
たとえばアムネスティ・インターナショナルは熱心に核実験に反対している。しかし彼らはむしろ政治的な問題にはとりあえず反対するというプロクレーマー集団なので、まともに取り合う政府は存在しない。
[編集] 科学者の運動
科学者は核実験反対に熱心である。たとえば「原子科学者会報」では世界終末時計という架空の時計で地球が核戦争によって荒廃するまでの時間を示している。しかしこの時計の針の進め方はフィーリングで決められ、極めて非科学的であることが指摘されている。
バートランド・ラッセルやアルベルト・アインシュタインらはラッセル=アインシュタイン宣言を発表して核兵器の廃絶を訴えた。しかしアインシュタインは戦争を公然と批判して徴兵拒否を呼びかけながら、第二次世界大戦で手のひらを返したように戦争を正当化するお調子者である。彼が思いつきで始めた同宣言とパグウォッシュ会議を重要視する政府は存在しなかった。湯川秀樹や朝永振一郎も会議に参加したために日本ではこの会議がしばしば取り上げられたが、会議の内容自体はほとんど知られていないことからも、この会議が単なる思いつきで始まっただけで実のないものであったことは明らかである。
「原爆の父」とされるロバート・オッペンハイマーも戦後は反核運動を行ったとされるが、彼の場合は「水爆の父」エドワード・テラーと対立したことで赤狩りの対象となったことが影響していると考えられている。つまり赤狩りに対する当てつけで核実験に反対し始めたのである。
[編集] 日本の運動
広島市や長崎市で多くの犠牲者が出たほか、ビキニ環礁の核実験で被爆した第五福竜丸の乗員に死者が出たことから、日本では早くから反対運動が起こった。しかし第五福竜丸は当時危険区域内で操業しており、被害を受けることは当然であった。このように日本では自らの過失を棚に上げて核実験にいたずらに反対することが特徴である。
第五福竜丸事件を受けて、日本では原水爆禁止日本協議会と原水爆禁止日本国民会議が発足し、原水爆禁止世界大会を開催してさかんに核実験停止を訴えた。しかし両団体は世界大会を別々に開催し、さらに日本原水爆被害者団体協議会とも思惑の違いなどから対立し、核実験の停止や核廃絶を求めるよりも団体間の勢力争いに関心が移ってしまった。
広島市や長崎市では行政と市民が一体となって反対していると認識されているが、これも誤認である。広島平和記念式典では、2007年現在現職市長の秋葉忠利まで市長は自ら平和宣言を書いたことなかったことも、式典ひいては運動が重要でないことを物語っている。その宣言も、こんにちではアメリカ偏重の政府批判や北朝鮮批判に終始しており、核廃絶とは関係なく、地方都市の日頃の鬱憤を晴らす手段に成り下がっている。また広島市の平和記念公園に折り鶴を捧げることで犠牲者を慰霊し平和を祈ることになるとされたが、まったく実効性のない非生産的なこうした行為に対する批判もあり、2003年には折り鶴放火事件が起こっている。さらに2001年には地球平和監視時計も設置されたが、知名度は極めて低い。
こんにちでは、日本は反米、反朝感情を表現する手段として核実験廃止を訴えているだけであるという見方が支配的となっている。
[編集] アメリカの運動
核実験の本家アメリカでは、むしろ反対運動に対する反対運動がさかんである。スミソニアンで起こったノーモアヒロシマ・ナガサキ国際市民会議では、いたずらに反核を唱える広島市民、長崎市民、そして被害妄想が激しい被爆者を批判している。「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ ノーモア・ヒバクシャ」というメッセージがそれを象徴している。
[編集] 呼称について
示威行動の一種である核兵器使用を「実験」と称することには疑問があった。言語学者の銀田二冬彦は専門雑誌『言語』で、「核爆発を用いた示威行為を実験と称する理由について」という論文を寄稿している。これによると、当時の軍上層部の英語力は極めて貧弱であり、explosion(爆発)とexperiment(実験)を混同したからだと指摘している。
この説に対しては、いくらなんでも高等教育を受けたものの語学力としてはお粗末過ぎるだろうという反論もあった。銀田二は、当時英語は敵性語であり英語教育が遅れていたためだと反駁したが、軍上層部は情報収集のためにもある程度の英語力を身につけていたと考えるほうが自然だと再反論された。
しかし2002年の瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件で、高級官僚の中でもとくに英語が得意とされる外務省職員ですら、平易な英語の文章を理解できなかったことが露呈した。まして体育会系の叩き上げの軍人たちが今日の外務省官僚以上に英語を理解しているはずがなく、銀田二の説は一転して支持されるようになった。つまり今日では、「核実験」は「核爆発」の誤訳であると考えられている。
[編集] 注釈
- ↑ モンゴル人は「てつはう」を見せびらかすために大人数で日本を訪れた。そして日本人たちを驚かせると、海岸に上陸しただけで帰っていったと言う
- ↑ その様子は『蒙古襲来絵詞』に描かれている
- ↑ ハリウッド映画などを見ても、爆発の発火点はホワイトハウスやエンパイアステートビルなどになることが多く、こうした有名な建造物が派手に壊れることを喜ぶ人間は多いことを裏付けている
- ↑ アメリカのビラは平易な文で書かれていたが、日本の通達は読みづらかったという。通達の意味がわからなかった小学校(国民学校)以下の幼児・児童に限っては、避難(疎開)していた者が多い
- ↑ 筆者はyahoo!Japanを用いて「ピカドン 美しい」で検索したところ、ヒット数は24,500件であった。これは「ピカドン 恐ろしい」のヒット数6,360件を大幅に上回る。日本人はピカドンを恐怖の対象としてではなく美の対象として捉えていることが分かる
- ↑ 軍部は情報を出し惜しみすることが多く、とくに日本不利の情報は一切公開しない傾向にあった。それにも関わらずこの状況が全国に伝えられた背景には、人類史上初の核実験の実験地として選ばれた栄誉を広く国民に知らせんとした思惑があったものと思われる
- ↑ なお、ビキニ環礁は核実験のメッカとして知られるようになり、現在でも土産売り場には「水爆水着」などの商品が並ぶ
- ↑ アメリカの核実験写真については知的財産権が放棄されている。インターネットなどを通して広く流布し、アメリカの国力を末端市民にまで誇示するための手段である
- ↑ この条約には地上や水中実験に加えて、地震波形を大きく変化させるプレート沈み込み帯での地下核実験も禁止している。この条約が根拠となり、全土がプレート沈み込み帯に位置する日本では核実験が実施できなくなった
- ↑ その一環として、爆発前に止めてしまう「臨界前核実験」も考案されしばしば実施されたが、爆発マニアを落胆させるだけで得るものがなく、批判が強い
[編集] 関連項目
- 利用者:(あ)/執筆コンテスト:本記事は執筆コンテストに参加しています。
- 核兵器
- 冷戦
- 原子力発電所
- 赤い核実験場
| 本項は第一回執筆コンテストに出品されました。
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