桜山茲俊

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桜山 茲俊(さくらやま これとし)は、楠木正成捨て石にされた鎌倉時代末期の可哀想な武将。一応、後世に名を残すことには成功したようで、吉野神宮後醍醐天皇や南朝の忠臣達のついでに合祀されている。

[編集] 生涯

備後国の小豪族で、葡萄の栽培によって財力を蓄え勢力を拡充した。土地を統括する権力機関である鎌倉幕府荘園制度の影響下に置かれず勢力を伸張した「悪党」と呼ばれる新興武士であり、同じ悪党で、後世に忠勤の鑑と称揚された楠木正成とはメル友で、漂白していたホームレス同然の正成に葡萄をおごってやった恩人でもある。茲俊が正成に葡萄をおごったエピソードは太平記にもあり、戦前の修身の授業で度々引用された。1331年後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企図して日野俊基ら公家と共にクーデターを計画し、これに加担した正成から茲俊は誘いのメールを受ける。所謂元弘の変と呼ばれるクーデターだが、このクーデター自体はとても杜撰で場当たり的なもので、あっけなく瓦解することが正成には透いて見えていた。が、茲俊に対して送信したメールの中で、正成はあえて情報に誇張を加え、クーデターが成功する蓋然性が高い、各国の豪族が次々馳せ参じている、有力御家人足利高氏も内応を承諾したなど虚偽の情報を流した。何故そんなことをしたのかというと、茲俊に挙兵させることで幕府の討伐軍の注意を仕向けさせ、共に挙兵した自分が逃げ易い状況を作る為である。田舎武士で情報弱者の茲俊は正成が流した情報を鵜呑みにし、一族奮励してクーデターに呼応する形で挙兵した。この時、正成は赤坂城に篭城して幕府軍を迎え撃っていたが、茲俊挙兵の報を耳にすると、あえて城を放棄して脱走、更に自分が矢尽き刀折れ自害した、桜山茲俊が西から五万の大軍を率いて東進する準備をしているという虚偽の情報を流布、幕府軍の情報網を混乱させ、その隙に乗じて脱走した。正成の虚言に惑わされた幕府軍は余勢を駆って備後へ攻め上り、哀れ自分が捨て石にされたことに気付かぬ茲俊はフルボッコされた挙句妻子一族と共に自害して果てた。正成戦死の報に士気が低下し兵士が四散したものの、茲俊と一族、残ったわずかな家臣達は最期まで奮戦し、幕府軍にそこそこの痛手を負わせたらしい。その身を以ってして倒幕への橋頭堡を築いた茲俊であった。合掌。

[編集] 評価

一応武将としてそれなりの器量の持ち主ではあったようで、また帝のために散華したことから皇国史観の下それなりに賛美され、岡山の田舎武士の割りには評価されている武将である。もし正成に捨て石にされていなかったら、あるいは 建武の新政下で名和長年程度には出世できたかもしれない。ちなみに茲俊を見捨てた正成はその後千早城の篭城戦で幕府軍を散々討ち破るなど破竹の快進撃を見せ、建武の新政下でも重用されたが、最期は自分が帝とその取り巻きの公家衆に 捨て石にされた。正成贔屓の激しい太平記もこの件に関しては葡萄をおごってくれた恩人を捨て石にした因果が巡ってきたと冷淡に叙述している。

[編集] 関連項目

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