桧山進次郎

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桧山 進次郎(ひやま しんじろう、本名:ファン・ジンファン、황진환 1969年7月1日 - )は、阪神タイガースに所属していた京都府出身の野球戦手である。熱烈なファンからは、ひーやんの愛称で呼ばれている、強運の持ち主である

来歴[編集]

プロ入り当初[編集]

京都平安高校東洋大学を経て1991年には阪神タイガースにドラフト4位で入れてもらえる。ただし入団当初は、新庄剛志亀山努という、おもしろ外野手に及ばないイマイチ選手だったので下積み生活を送る。

もっとも、入れてもらえた頃のチームは、2軍であってもたけし軍団に負けるくらいのウケが狙えるほど、芸達者の集まりであり、桧山が芸を磨くには長い歳月が必要であった。

1軍定着[編集]

1996年、怪我で舞台に上がれなくなったヘッスラ選手に代わって、1軍で使ってもらえるようになる強運に恵まれると、最終的には22本塁打を放って、黄色いお祭りを盛り上げた。

1997年、監督に返り咲いたムッシュによって4番の座を託される。最終的には本塁打などで前年を上回る成績を収めながら、自己最多の150三振(152三振した清原和博に次ぐ、この年のリーグ2位[1])に象徴される低打率をウリとする、芸達者な選手を目指していた名残りを見せていた。その結果、チーム暗黒時代の継続および、ムッシュの華麗なる野球史の最後を黒歴史に塗り替える悪行に一役買っていた。なお、三振数ではリハビリストにあと2つ届かなかった結果となったが、それについて桧山自身は「あと3試合で抜くつもりだったんですけどね。思いっきり振ってたら、逆に当たるようになって・・・」といいたい放題である。

なお、ムッシュの善意を仇で返したという逸話がある。当時、助っ人外人の定位置とされていた3塁ではあったが、1998年に入団したデイブ・ハンセンがパッとしない成績どころか、度重なる失策でチーム暗黒化を推進する悪魔の手先として3塁に居座り続けていた。どうせなら不慣れであっても桧山に守らせた方が、来季以降に光が見えるといった3塁へのコンバート打診である。

4番を託すくらいだから、ムッシュの桧山への期待度は並々ならぬものがあったに違いない。もしかしたら、ムッシュは桧山に掛布雅之の姿を重ねていたのでは・・・という推察すらできた。ところが、肝心の桧山は頭髪まで掛布に似ることを恐れたのか、この打診を断っている。結局、チームは前年より10敗も上積みしたダメダメ成績、お約束の最下位で終えた為、この1998年限りでムッシュは退任となってしまった。

野球の神様による、お仕置き[編集]

ムッシュに替わって、ヤクルトスワローズで日本一になったことのある野村克也が監督に就任した1999年から、ようやく4番を外される。その上、翌2000年からは助っ人トニー・タラスコの加入で、代打を中心とした起用に甘んじることとなった。

これがもし、ムッシュの勧めに従って3塁手との二足の草鞋でも選択していたならば、3塁を競うライバルの助っ人と言ったら、攻守を含めてもドラクエの雑魚キャラみたいなハワード・バトルジェイソン・ハートキーであった為、桧山でも五分で戦えただろう。しかしライトのタラスコの守備力は、桧山にとってシルバーデビルやギガンテスであり、秒殺される水準である。ムッシュからの打診を断った罰を、野球の神様が下したのかもしれない。

ところが強運は桧山に味方する。

獲得すれども、すれども、一向に働かない助っ人外人たちがチームの低空飛行に大きく寄与する上に、2000年オフにメジャーリーグへ飛び去ってしまった新庄くんの不在によって、2001年には再び試合出場の機会が増え始めた。この年、ミートに徹した打撃が好転。28試合連続安打という、ウソのような球団記録を樹立してしまうのである。

鉄拳監督の就任と、ようやく来たチーム黄金期[編集]

ボヤイテバッカリマンの突如の退任で星野仙一が就任した2002年から再び、5番で起用される。なお、この年のオフ、FA権を行使した。

度重なる強運が好転しただけなのに、実力を勘違いした不幸な1面を持っている模様。1流選手としての他球団移籍も頭をかすめたのだろうが、実際には何処からもお呼びが掛からず、残留という形で阪神に置いてもらう事となった。

ところが、である。

「オレの事が嫌いか!?」と恫喝監督が言ったか言わないかは定かではないが、2003年からは制裁のように濱中治にライトの座を奪われ、1塁へコンバートされる。そこで、わずかな1塁起用機会でありながら失策を乱発、1塁起用に対して露骨な反発を示した。やがて、ここでも濱中の故障離脱という強運が作用し、何食わぬ顔でライトの守備位置に戻る。すると気を良くしたのか、サイクル安打を達成。この秋、チームは18年ぶりのリーグ優勝を果たした。

ただし、この優勝は赤星憲広金本知憲の攻撃力、井川慶の投手力を中心とした勝ちっぷりの賜物であり、彼らに便乗しただけという桧山の印象度は4番にしては低かった。

2004年シーズンは、2軍監督から1軍コーチに昇格していた岡田彰布に監督職を禅譲した恫喝の前監督による院政体制で迎えたチームでも、ライトで起用される。ある日、仲間が猛打を浴びせ続ける中、投手でもないのに1イニング2三振という離れ業をやってのけるなど、芸人的選手の名残りを垣間見せた。ただし、自己最多84打点は芸人としては不本意な成績であった。

下手とまでは言わないが、強肩や脚力を要求される近代野球において、物足りなく映る桧山の守備力。しかも、それを補って余りある打力を発揮する訳でもない。そこで、球団は桧山に勝る打力の助っ人獲得を目指す事となる。ここから、新たなる桧山の試練が始まる。

代打業[編集]

ジリ貧[編集]

2005年シェーン・スペンサーの加入により、どんでん監督からはライト併用という形で起用される。懸命さで下手を補うスペンサーの存在は決して高いハードルではなく、ちょっと奮起しさえすれば一蹴できる水準であった。ところが、桧山はスペンサーとのルームシェアならぬ、ポジションシェアを選択する。実は、これが間違いだった事を、翌年に思い知らされる。

なお、チームは桧山に頼らなくても優勝した。その証拠に、桧山の放った8本の本塁打よりも、中村豊が9月における味噌カツ球団との延長戦で放った、たった1本の本塁打の方が絶大であった事をファンは知っている。

2006年は、ようやく戦列復帰した濱中が20本塁打を放つ活躍を示したこともあって、代打定着が義務付けられたシーズンだった。それだけならまだしも、持ち前のスロースターターぶりがこの年にも炸裂。終わってみれば打率.180、2本塁打という崖っぷち成績。強運に陰りが見え始めた。

2007年は、濱中が不調に陥った上に、新加入のルー・フォードもドッチラケであった為、スタメン復帰のチャンスが何度もあった。ところが濱中を下回る、打率.191、3本塁打というお粗末な成績でシーズンを終えたため、デイリースポーツに阪神退団を報じられた。桧山本人は自身のホームページで否定したが、2年連続のダメ成績でありながら残留できたところが、まさに強運。強運だけは、サビついていなかった。

この年のチームはゴールデンウィーク明けの9連敗に代表される春先からズタボロの戦績で、早々と お祭り集団を諦めさせていた。ところが、リモコン不要の鉄人を始めとする「黄金時代しか知らない、正真正銘の戦士たち」の信じられない活躍で、一時は首位に躍り出た。しかし、オーバーペースが祟って失速。優勝を取り逃がした。なお、桧山の強運とは、桧山個人にのみ作用する為か、チームの窮地に作用する事は無かったようである。

目覚めか、ただの確変か その1[編集]

入団17年目にしておそらく初めて、ようやく尻に火がついた2008年、一時は代打成功率4割を越す打撃を見せた。お祭り集団からは「代打の神様」として活躍した八木裕に重ねられるようになり、いつしか新・代打の神様と呼ばれるようになった。

2009年シーズンも、三振と思いきや、打ち直したポテン安打がサヨナラ打とか、走者がいなけりゃ平凡な遊ゴロという適時打といった持ち前の強運に頼り切った打撃を見せ付けている。

なお、どんでんの退任によって監督の職責をOBの真弓明信に託したチームは、全くのヨレヨレ戦績で、お祭り集団を毎日のようにバクハツさせていた。ただ、東京ヤクルトスワローズ8月からは逆噴射失速をやらかしたんで、クライマックスシリーズへの出場権に手が届きそうになっちゃった。それじゃあ、って9・10月の戦いから、今更のように死力を尽くそうとしたチーム状況に変わったのだった。

しかし、そこでの桧山は、9月1日の適時打以降、代打のみとは言え6三振を含む13打席無安打というマイペースぶり。一応、切り札であり、勝負どころでの起用が多いというのに凡退の数々である。当然、チームの苦境に一段と拍車を掛けていた。それでいて林威助葛城育郎といった打力で存在価値を示し続ける、同じ左打者たちが桧山より軽度の不調でありながら1軍から外される事があっても、最後まで1軍に帯同した桧山。相変わらず強運が作用していた。
ようやく同月28日に焼け石に水のような負け試合での適時打を放ったのが、このシーズン最後の安打。ツバメとの最終2連戦を含む10月の正念場では代打の4打席だけで、3三振。やっぱり、チームのお荷物となった。それも、この年限りで引退する中日ドラゴンズ立浪和義とは同い年・同じ代打の切り札でありながら、打率や打点で大きく水を空けられてしまい[2]どちらが引退する選手なのか判らないほどの最終成績であった。でもシーズン終了時点では、引退なんて一言も発していない。

目覚めか、ただの確変か その2[編集]

2010年、相変わらずマイペースで戦おうとした3月26日の開幕戦で、いきなり事件が起きた。『代打の桧山に、代打の矢野』、打席にすら立たせてもらえなかったのである。“尻に火をつけないと働かない”のだから仕方ない仕打ちなのだが、それで済まないのが当シーズン。とうとう、フルイニングを終焉した金本知憲のために代打機会すら減らされてしまう。それでも、どうだと言わんばかりに『代打の安打球団記録』を更新した。

ただ7月10日のハマ戦に見られるように、2死であっても1点差に追い上げる追撃好機で3ボールの優位にありながら、山口俊の投じた高目のクソ球に手を出し残念な左飛で試合終了となったように、大ベテランでありながら“どっちが追い込まれてるか判らぬ”頼りにならぬ打撃は相変わらずであった。

しかしチームは、先発の絶対数を失おうとも“ダイナマイト打線”の古称を彷彿とさせる猛打爆発。7月には、金満とのマッチレースに持ち込むと、8月には赤貧相手に22得点を挙げるバカ打ち。とうとう首位に躍り出た。

9月9日、知らぬ間に首位に並ばれたナゴヤの味噌軍団と1勝1敗で迎えた3戦目。1点を追う9ウラ1死からの城島健司の安打後に、この年から覚えた“マシンガン代走”で追撃しようとする真弓采配だったが、代走・大和爆死で2死無走者。球場内外の阪神オタクが落胆する中、ウッカリ飛び出した俊介の3塁打。そこで代打コールされる桧山。 期待の歓声なのか、それとも再び(打席結果の出る前なのに)ガッカリなのか判らぬ、騒然とする球場の雰囲気の中、岩瀬の投じた初球に反応した。 力一杯振り抜いたバットが捉えたものの、白球は力無く打ち上がる。『アホー!!』怨嗟の罵声と悲鳴が響き渡る甲子園。ところが、その打球の行方に『あれ?』2塁手の荒木が必死こいて追うも、フラフラの打球は緑の芝生の上にポトリと落ちた。打てるはずもない岩瀬からの奇跡の同点タイムリーは、悲嘆と罵声を一転、地鳴りのような歓喜に変えた!!

「桧山さん、バカにしてホンマすんませんでした!!」

この時ばかりは誰もが懺悔した。ただし同点でお腹いっぱいのチームは打ち止め。西村右往左往の遠因となる。

ちなみに後の、金満との試合でもゴンザレスの初球を叩き決勝タイムリー!!どうせ打てないのであれば「相手が勝負をかけてくる前に決めに行く」姿勢をプロ入り19年目にしてようやく示したのであった。

2011年5月14日にも岩瀬からHRを放つことに成功。八木の代打本塁打記録を抜く。

2012年もやっぱり代打稼業……ながら、シーズン序盤は代打でなかなか好調、一時は3割台に打率を乗せていた。奇しくも打線は低迷中、5月27日日曜日甲子園での西武戦、スパイス血迷う。 5番ライト桧山爆誕 実に4年ぶりのスタメン出場というサプライズに沸く満員の甲子園、しかし、3タコで期待を大いに裏切った……はずだった。強運はまだ錆び付いていなかった。 この年の球界屈指のネタ試合、大相撲甲子園場所が発生。桧山が打席でどんな醜態を晒したのかなど、誰も覚えていないのであった。

ただ、4年ぶりのスタメンで無理が祟ったかここから成績は急降下。 8月23日のヒットを最後に翌年の5月8日まで年またぎの22打席連続無安打、つまるところ浪速のダルビッシュが夏の甲子園で優勝してから、阪神入団後3勝目を挙げてもまだヒットが出ないという惨状に見舞われる。 しかし、トンネルを抜け出した一打が憎き大男集団戦の代打決勝タイムリーになりヒーローインタビューを受けるなど、話題だけはしっかりさらっていく。

新・代打の神様、ようやく引退へ[編集]

2013年も当然のように一軍帯同。当然のようにチャンスの代打で起用され、たまの適時打や最高の仕事押し出し死球などで代打記録を積み上げていく。 それでも前述の連続無安打などが影響したか、9月7日大男との試合前に遂に引退を表面。当然のようにその試合は某引退試合クラッシャーが大暴れした。

10月5日、引退試合。桧山は5番ライトで先発出場。これが最後かと桧山ダンスのバカ騒ぎも、3タコで交代。試合は大男の先発を相手に3点ビハインドの完封ムードで推移する。 桧山交代直後、某引退試合クラッシャーも若手と交代。流れが変わった。 何が凄いって大男内野陣がマモノに囚り憑かれたかのような1イニング3失策の固め打ちをやらかして勝ちを献上してもらうのである。強運恐るべし。 引退のスピーチでは、ファンへの感謝と共に、2度の優勝はあったが日本一は獲り忘れたと将来の監督就任を匂わせる。今年日本一を獲る気は無かったらしい。 またCSにも出場することを宣言し、ファンを大いに興奮落胆させた。

CS第1戦では遊飛に倒れるが、翌10月13日の第2戦、桧山の強運は最大の輝きを放つ。 先頭打者弾が出たっきり3凡の山を築き、9回裏5点ビハインドで敗色濃厚、甲子園に詰め掛けた阪神オタクたちの怒号とやけくその六甲颪が飛び交う中、代打上本、鳥谷と簡単に2死を取られ打者4番マートン、ネクスト桧山。 マートンが凡退すれば桧山の出番は無い。しかもマートンは6の0とCSでさっぱり当たっていない。代打上本のところで桧山だろ!と今更な野次が飛ぶ。 しかし、マートン意地のライト前で桧山のお膳立てに成功。これぞ正真正銘現役最後の打席、桧山で終われて良かったと諦め混じり、最後のバカ騒ぎ。 不甲斐ない試合の鬱憤を全て吐き出さんばかりに、レフト方向を占拠した赤ヘルまで巻き込み、ただでさえ声援の大きなヒッティングマーチは2倍以上の声量でお送りします。

鯉の剛速球守護神ミコライオが投じた2球目。 桧山はこの日最速のインローストレート154km/hを振り抜きライトスタンドへ着弾させた。

代打業の先輩広沢を髣髴とさせる最終打席ホームランの奇跡。 打った本人驚愕、解説下柳剛はラジオで絶叫。実況鯖も飛んだ。 敗戦必至の甲子園は震源地と化した。敗け試合確定の怒りはどこへやら、優勝したかのような桧山桧山の大騒ぎ。 甲子園リアル炎上も阻止され、投げ込まれるはずだったメガホンは全て労いに変わった。赤ヘルも桧山ボードを掲げて引退を惜しみ、朗らかな空気の中を無事に甲子園から帰宅することができた。 桧山自身も、プロ22年間で一番の当たりと自画自賛し、自分にも野球の神様がいたと評した。

肉体は衰えても、その強運は遂に衰えることはなかったのである。

ちなみに、直後のクライマックスシリーズ敗退を決める新井兄の無様な三振など誰も気にしなかった。

人物[編集]

  • 野球人生の度重なるピンチでは、持ち前の強運が作用する。ただし、その効果は味方ライバルの不調・離脱のような負の作用であり、自身をレベルアップさせる効果をもたらしている訳でもない為、キリギリスのようなプロ人生を送っている。もっとも、その効果は絶大で、デスノート並みの威力を秘めている。その一方で、打席に入った時の効果はライバルとの生存競争の時ほどの威力を持っていない。
  • 自分で強運に気付いていない為、実力で勝ち上がったと誤解している一面を持っている。
  • プロ入り以来、大きなケガに見舞われた経験が無い。身体のケアに優れている言えるが、平野恵一のような無茶をやらないで過ごしてきた、とも言える。
  • 御立ち台では古参の大ベテランらしく、熱烈なファンバカ騒ぎ的な楽しいお祭りに誘うような旺盛なサービス精神あふれるコメントをする為、ファンも多い。
  • 代打という限られた登場条件も熱狂を助長する為に、期待の表れなのか、はたまた諦めと怨嗟の罵声なのか判別できないほどの声援の大きさは異様なほどである。
  • ダメ試合を重ね続けた暗黒時代の同僚たちが何人もチームを去っていく中、持ち前の強運でチームに居残り続けた。当時、笑って観ていたお祭り集団も、ダメ芸人の生き残りがこうして野球を続けていく事に対し感銘するのだろう。どんでん、掛布など「ウケ狙い無しで、熱狂を巻き起こした」往年の名選手並みの声援を送るほど、根強い人気で支えている。
    ところが成績においては掛布はおろか、どんでんの足元にも及ばない。その為、人気と成績のアンバランスさから、「なんちゃってミスタータイガース」と呼ぶに相応しい。
  • ヒッティング・マーチには「この1打に賭けろ」のフレーズが在り、黄色いお祭り集団からも熱い声援が送られる。ところが桧山には、ちっとも届いていない模様。代打で出場しながら見逃しの三振で凡退するように、何百打席もの機会を無駄に潰して、ちっとも1打に賭けていないのが現状である。
    かつて、代打業のみに生き残る道を求めた川藤幸三に比べ、2009年シーズンで18年目を迎えた古参、生え抜きの大ベテランでありながら、何ともモノ足りない姿勢である。
  • 前述のヒッティング・マーチには、他にも「誰もお前を止められぬ」というフレーズも存在する。
    当たりまくっていた頃(2002年前半戦は首位打者争い)であればまだしも、近年に見られる『三振の山を無限増殖させている桧山』になると、もうファンの手では止められない。お願いです。監督が止めて下さい。何ならクビでも…バキューン!!
  • 若手の頃からベテランと呼ばれる今日であっても、芸達者な選手を目指していた性分がなかなか抜けない模様。開幕からしばらくは全く成績を上げられず、毎年の事なのに学習機能が欠落しているのでは?と思わせるシーズンが多い。
    珍プレーを持ち味としていた90年代のチームなら笑って済まされるが、真剣に優勝を目指している近頃なら、それは自殺行為に等しい。そのため、代打で出てきても結果が残せない場合には、さすがのお祭り集団であっても大目に見る人と、「どこが神様なんだ?」という人の2種類に分かれるようになった。しかも、後者の人の一部からは、神様は神様であっても貧乏神ではないのか?と、疑われる事が増え始めた。
  • 2007年のオフに明石家さんまのテレビ番組に出演した際、友人であった陣内智則の披露宴の日に本塁打を放って、祝ってあげたエピソードを話していた。ただし、この年は代打中心の為、3本塁打は仕方ないものの、打率が2割未満というみっともない成績であれば、本来はTV出演を自粛するのが普通の選手である。ところが、サービス精神旺盛な桧山は、お構いなしで出演していた。
  • 現役選手として初めて、人気番組「探偵!ナイトスクープ」に出演したのも桧山である。どうやら阪神の監督よりも、西田敏行の後釜を狙っているようである。
  • ムッシュの他にも、どんでん監督からの信頼も絶大。2009年から解説席に座るようになった どんでんは、チャンスの度に「ここで桧山を!」って言うので、イラッとうるさく感じられる事がある。
  • 2009年10月4日、このシーズン最後の甲子園での試合終了後。ちょうど対戦相手だった中日ドラゴンズの、引退を宣言していた立浪和義にとっても甲子園最終戦だった事もあって、阪神としても花束を贈呈して長年の功労を称えた。そこで同年の桧山が、阪神を代表した贈呈者としてバックネット前で手渡した際には、球場内からも温かい拍手が巻き起こった。
    ただ、手渡した瞬間しか観ていない人たちからは、『えっ!!!桧山も引退するのっ!!!』なんて、てっきり立浪から手渡されたもんだと勘違いされてしまった。←何なら、ホントに引退してくれても良かっバキューン!!
  • 2011年シーズン終了後、FA(ファイナルアンサー)券を財布にしまって契約更新した。

発言集[編集]

もうひと踏ん張りしたら…
  • 不甲斐ない成績で2009年シーズンを終えると、噂されていた今岡誠の退団が正式に球団から報じられた。ここ何年もチームの力に成れないままチームを去っていく、そんな35歳に対し「もうひと踏ん張りしたら出来る年齢」と、気遣う優しさを見せた。さすが、出身大学の先輩でもあり、当シーズンでも2軍落ちを経験しなかった桧山である。
    ただ、40歳になった桧山自身が、ひと踏ん張りどころか何回踏ん張ったのか、ファンですら分からない。しかも踏ん張っていながら、あの程度の成績(脚注を参照)である。その上、来シーズンも例年通りのマイペースで臨もうとしている姿勢については、どうなのか?それについては、全く気にしていないようである。
代打30打点
  • なお2009年オフには、『来季30打点』という途轍もなく高い目標を設定した。ちなみに『代打での30打点』とは94年に真弓監督が現役晩年時に挙げた、セ・リーグどころかプロ野球全体としての記録である。つまり、代打の先輩であった八木さんが打ちまくっても到達できなかっただけでなく、2009年シーズンで桧山と同じリーグ最多の76回もの代打機会を与えられた立浪でさえ17打点止まりだった現実を鑑みれば、それが途方も無い数字である事は明白である。仮に次シーズンも76機会を与えられ、しかも1打席で1打点ずつしか挙げられないとしたら、おそらく4割近い代打成功率を要求されるだろう。
    しかし2009年の現実すら省みる事無く、深い考えも無しにそんな難業を容易く言ってのける桧山の豪胆さには、誰もが舌を巻かざるを得ない。それどころか一部報道45歳まで現役継続を目指していると、危機感を全く抱いていない能天気な考えが伝わっている。ただ、桧山には成績の振るわないシーズンが続いており、高い目標を達せられなかった際には、風当たりも強くなる。たとえ記録に到達できずとも、それに比肩する働きであればファンからの罵声も和らぐのだろうが問題は、その「比肩する働き」に関して桧山自身の認識とファンの認識に大きな隔たりがある事である。←チョッと不調なんてもんじゃありません!!仮にも切り札なんだから、ちゃんと走者を還して下さいッ!!三振は、もう見飽きましたッ!!危機感持って下さい!!ちなみに2010年の打点は12でした。
失敗を恐れず
  • 2010年シーズン(プロ19年目)を迎えようという1月の自主トレで、「失敗を恐れず、いろんなことを試さな伸びない。そういう失敗を島野さん(故人)は怒らなかった」と、赤星憲広の引退で手薄に成った外野の定位置を奪い合うであろう若手たちに向け、コメントを残している。確かに、選手たちが個々の出来るプレー・出来ないプレーの境目を把握するためにも、積極的なプレーを勧める桧山の発言は適切である。
    ただ、それが自身の打撃にも適用されているのか?、については判らない。例年、代打で出てきても、低目の落ちる球にクルクル空振る姿を頻繁に見せている。そこでの桧山は一振りもしないで三振という大和と違って失敗を恐れない積極的な姿勢を、常に見せている。しかし問題なのは、ソレが例年であるという事、すなわち失敗から学習した成果を見せてない事である。←「試さな伸びない」の途中にある、反省から工夫が、桧山の思考から抜け落ちていないか?まぁ、2010年版バットを太めにモデルチェンジしたというのが工夫というのなら、成果を期待しないで観てみよう。「太くしたくらいじゃ当たらんだろ」とのツッコミは検閲により削除

脚注[編集]

  1. ^ この年、セ・リーグのホームラン争いに名を連ねる松井秀喜などの猛者たちが90~110三振程度で収めている中で、桧山たち2人の150三振は突出した成績であった。
  2. ^ この2009年での成績、引退する立浪が打率.318・打点17・三振7に対し、現役継続の桧山は打率.225・打点9・三振27である。

関連項目[編集]

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さあ、君もこの記事に胸が高まるような文付け足してみよう。レッツトライ! (Portal:スタブ)