梅松論

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梅松論(ばいしょうろん)とは、南北朝時代の趨勢を描出した軍記物語の一つ。同じく南北朝時代を描いた物語である『太平記』とよく比較されることが多く、また太平記と共に南北朝時代の研究の文献として用いられることも多い。

題名について[編集]

「梅松」という題名は、完成した季節と作者を示唆する。まず「梅」は梅の季節を表し、春先に梅松論が完成したことを示している。 そして「松」とは、「松の位」を意味する。「松の位」は官位制度における五位の位を意味する言葉だが、そこから転じて家老の職務にある者を表現する言葉でもあった。これは即ち、梅松論を執筆した人物が家老の職務であったことを示している。

梅松論は、全体的に足利氏視点で話が展開するので、足利家にゆかりの深い人物が書いた可能性が高い。足利家の家老、つまり棟梁足利尊氏の部下達の最高峰、側近中の側近に値する人物と言えば、高師直仁木頼章今川範国吉良貞義細川定禅上杉憲顕などが候補にあがるが、梅松論の「梅」と「松」、いずれも木の名前であり、梅と松という「二つの木」から題名を構築していることから、作者は「仁木」頼章である可能性が高い。

内容[編集]

作者と思わしき人物が、とある古刹で、春の瘴気陽気に誘われて頭が馬鹿みたいにヒットしたジジイの僧侶から一方的に話かけられ、延々と話を聞かされるという形式で、物語は始まり、その延々たる話を聞き終えた作者が、この伝聞を土台に物語を纏め上げる場面を結びとする。

何故、このような体裁を取ったのかというと、批判をかわすためである。梅松論と同時代に作られた軍記「太平記」は、まだ完結していない当時から「誤謬が多い」「脚色に過ぎる」などの批判を受けており、さらに50年ほど後になると今川了俊によってボロクソに批判された挙句、その了俊によって「難太平記」などという、あてこすり目的の作品まで作られてしまった。

こういう批判は、軍記を含む歴史物語、歴史書にはつきものである。仁木頼章は、その手の批判が来る事を見通しており、物語の導入部分に工夫を凝らしたのである。寺の老僧が作者に話を聞かせる、という体裁で話を進めることによって、誤謬が多すぎる、と批判されても、これはとある寺で耄碌したジジイから聞いた伝聞を基盤に作った話だから、と、上手い事言い訳、責任転嫁ができる。

「耄碌した老僧の伝聞をベースに作った歴史物語」は、承久の乱に始まり、足利尊氏室町幕府を開いた所で丁度終わりとなる。 最後にめでたしめでたしと全てが丸く収まったような結び方にされているが、この後、尊氏と弟足利直義が喧嘩して幕府が四分五裂し、観応の擾乱と呼ばれる泥沼の抗争に発展することや、敵対勢力である南朝が生き残って蠢動していることについては、華麗にスルーされている。

足利の家臣である仁木頼章が執筆しただけあって、その内容は足利贔屓になっている。 例えば、新田義貞による鎌倉攻めについては、総攻撃の総大将は千寿王(ガキの頃の足利義詮)で、義貞はそれに付属していただけのオマケに過ぎないと書かれているし、尊氏が後醍醐天皇に叛いた経緯についても、後醍醐の取り巻きの公家達による執拗な嫌がらせを受け、建武新政中枢から疎外されたからだと強調している。

楠木正成については、「太平記」同様、模範的な武士、悲劇のヒーローとして美化、称賛されているが、同時に足利尊氏も美化したいとするあまり、とんでもない描写がある。九州から盛り返してきた足利尊氏によって南朝が劣勢に立たされた時、正成は何と、後醍醐天皇に対して、尊氏は悪い人物ではない、尊氏が謀叛を起こしたのは新田義貞とか一部の連中が尊氏の活躍に嫉妬して讒言や排斥運動をしたためだ。 だから新田義貞を殺してその首を手土産に尊氏と和睦した方がいいと奏上しているのである。

あまりにも荒唐無稽な描写だが、尊氏を贔屓している一部の歴史家は、これを根拠に尊氏の正当性や、戦前はヒーローとして礼賛された正成と尊氏が仲良しであったことを強調している。

前述の通り、梅松論は、表向きは、作者がとある寺で耄碌したボケ老人から延々と聞かされた話をベースに作り上げた歴史物語である。しかし、足利を礼賛、正当化する数々の描写を鑑みると、ただの住職(それも耄碌したジジイ)が、何故そこまで足利を擁護するのか、甚だ理解できない。批判に対する保険として、老僧からの伝聞をベースにしたと導入部分で説明した頼章だが、所々で「真の作者の意向」をもろに反映させてしまっている。

史料的価値[編集]

平凡社から発行されている「世界大百科事典」の「梅松論」の項目での記述によれば、梅松論は史料として比較的信憑性のおける、所謂信頼できる情報源であるらしい。南北朝、室町時代に言及した論文や書籍でも、梅松論が典拠として使われていることが多い。

しかし、何度も言うが、梅松論は(表向き)古刹に住んでる耄碌したジジイの昔話をベースに作られた物語である。入念な調査に基づくものではない。そんな文献であるにも拘わらずある程度信頼性のおけるソースと判断されているのが不思議でしょうがない。誤謬のとオカルト話の多さに定評のある、複数の人間が編纂したリレー小説太平記も同様に信憑性のあるソースとされていることも鑑みると、南北朝、室町時代に関する文献、情報源はよほど枯渇しているのだろう。

太平記との違い[編集]

梅松論は同じ時代に成立し、同じ時代を描いた太平記と比較されることが多い。同じ南北朝時代を描いた歴史書でも、この二つにはいくつもの差異がある。

まず、太平記は、多くの人間に盥回しにされて完成したリレー小説であり、それゆえ一貫性がなく、唐突に話が切り替わったりすることが多い。これに対して、梅松論は作者が一人なので、一貫性や辻褄合わせの面では太平記に勝っている。この厳然たる事実は読まなくても判る。確定的に明らかである。

また、太平記は後醍醐天皇が倒幕計画を立案してから細川頼之が管領に就任するまでの60年あまりの時代を描いているのに対し、梅松論は南北朝の動乱が起こるに至った経緯を説明するために、承久の乱から鎌倉幕府の衰退までを簡潔ながらも要点を抑えて叙述している。その後、足利尊氏が幕府を開くまでおよそ30年余りの時代の推移を叙述しており、叙述している時代の範囲では太平記より勝っている。

最大の違いはオカルト話の有無である。太平記は執筆者の中にオカルトマニアがいたようで、楠木正成源義経平将門なんかと一緒に亡霊になって蘇るなど、荒唐無稽な怪談話がいくつも挿入されているが、梅松論には太平記ほどのオカルト要素はない。オカルト要素の有無というのは史料を検証する上で大事な要諦である。オカルト話が紛れ込んでいる文献は、古今東西トンデモ本であることが多い。つまり太平記はトンデモ本としての側面を持っているということになる。

総括すると、梅松論の方が太平記より読み物として、史料として遥かに優れているということになる。しかし、世間の人気は太平記の方が上であり、太平記が多くの人に愛読されたのとは対照的に梅松論は名前さえ知らないという人が多い。

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関連項目[編集]